おれとれ 26
記憶が失くなったとして、それでも死ななければどうとでもできる。
もう一度やり直せばいい。
自己紹介から、イグナスの話から。
現状を通り過ぎ、遥か未来を望むラナイには、もうノットの姿はあっても意味のないものだった。
何せラナイの見つめるそこで、もうノットは死体に戻っている。
だからこの瞬間は、ラナイにとってすでに見えている先の出来事を実現するための繋がりの時でしかない。
ここからの行動は辻褄合わせだ。
ラナイは喉までせり上がる黄色の息のむず痒さを感じ、それが口の中に流れ込み始めた。その時。
「ガォォオオオッ!」
突如顔を上げたシシの妖獣人の男が、吠え、ノットへと飛びかかる。
それを予想外の出来事と認識したのは、ラナイだけでなくノットも同じ。
防御も受け身も、体勢の何も整わないまま猛烈な体当たりをくらったノットは、体を窓に叩きつけられ。衝突で割れたガラスが外へ撒き散らされた。
するとそれまで外から建物へ体当たりを続けていた風と雨が一気になだれ込み、室内を冷まし、そしてカーテンや毛布が風でバタバタと鳴り踊る。
外で聞くよりも余計にうるさく聞こえる騒音。
その中で、異質な唸りと唸りが絡み合っていた。
暴れるシカのノットとそれを押さえ込み、首筋に齧りつくシシの妖獣人の男の姿。
傍で呆然と見守るラナイには、彼もまたそうなってしまったかのように思えていたが。
「とおぁぁあああ!」
雄叫びを上げ、ウィービークラップが体の大きさに不釣合いな剣を振り上げてもみ合う二人の中へと突っ込んでいく。
そして剣が乱暴に振り下ろされる直前、シシの妖獣人の男はノットから離れ、ウィービークラップの一撃は避ける間もないノットの頭部に直撃。
残ったもう一方の角を頭部の一部ごと削ぎ落とした。
まるで示し合わせたかのような行動。
ラナイが二人の連携に気を取られていると。
「危ないっ!」
剣の重さに振り回されてあたふたしているウィービークラップに向かってシシの妖獣人の男が叫ぶ、が。
ウィービークラップは声に気づくも反応しきれず、頭を鷲掴みにされ投げ飛ばされてしまった。
それを、ラナイが受け止める。
「た、たすかった……」
しかし、そこに安堵の間も無く。響く濁った咆哮。
慌てて振り返ったラナイとウィービークラップの視線の先に、後頭部を刺されたシシの妖獣人の男の姿があった。
白目を向き、ノットにのしかかるようにして倒れ込む男。
そしてそれを気に留める様子もなく、ゆっくりと立ち上がるノット。
頭の一部を削ぎ落とされて、それでもその目の色の強さは変わらない。
「こいつ……っ。本当に、全然、怯みもしねえっ」
ウィービークラップが憎々しげに唸る。
だが、同じく「こいつ」と呟いたラナイの声に混じる感情は、憎悪ではなかった。
そこにあったのは、恥。
裏をかかれ、挙句その裏までかかれたラナイは、また別の戦いを強いられていた。
記憶の本と現実との"差"だ。
戦い方はわかっていた。
息を吹きかける以外にシカの妖獣人のどこをどうすれば圧倒できるか、その挙動にどう対処すれば良いのかも。
しかし、気づけなかった。
持っている情報をどう活かせるのか、判断基準をラナイは持っていなかったのだ。
つまりは"経験不足"。
【否読の書】という経験の書を持っていながら、体と力が噛み合っていないという事実を突きつけられた瞬間だった。
その事実が。
次の挙動、ノットがアレの方へ突進していくことへの反応をまた一歩出遅れさせた。
「ヒィっ!」
向かってくるノットに短い悲鳴を上げたのは、クロウガーだ。
アレは立ちすくみ、じっとノットの目を見つめたまま動かない。
「アレ! 逃げろ!」
また間に合わない。
絶望にも似た焦りを滲ませ、ラナイが腕を伸ばしたその時。
――ヒュー……ン……
微かに風を裂く音が聞こえた。
――バシュ
瞬間、ノットの頭が宙を舞い、バランスを崩した体が肩から床に落ちる。
すると、
――パンッ
一度目に聞き落とした発砲音が、確かにラナイの耳の穴に響いた。
音とほぼ同時に赤く輝く光の筋がラナイの目の前を通り過ぎ、ノットの体を触れた箇所からゆっくりと塵に変えていく。それは、
「ジリー……」
と、ラナイは窓の外に視線を移す。
彼女は、通り向こうの建物の屋根の上にいた。
いつの間に装填したのか、すでにその手にはジウが構えられていて、窓辺に近付いたラナイには見向きもしない。
スズだ。
髪は束ねられ、アナーブのアジトを出て行った時とは違う焦げ茶色の服に胸、腕、脛を守る装甲を身に着けている。
その小さな体中に巻きつけられた三本のベルトにはビリーとジリーとヒューイが連なり、青、赤、白三色に輝いて宝石が散りばめられた装飾のように美しい。そして顔には鼻と口を覆う獣の牙を模したような凶悪なマスクが。
それが別人のようだとまではいかないものの、姿は別として雰囲気がどこか違うことにラナイは気づいていた。
何が違うのか、そこに以前と現在との違いを探すラナイの目に、おそらくとその正体が映り込む。
「……弓?」
スズの背中から突き出すそれは、色々と見覚えのないラナイにとって"スズ"を示すのに特に不自然なものだった。当然、弓筒もそこにある。
ジウがありながら、なぜそんなものを改めて装備しているのか。
疑問に小首を傾げるラナイは、さらにもう一つ不自然なことに気づいた。
それは、構えたジウ口の向きだ。
一切ラナイの方を見る様子がないスズのジウ口は、先ほどの二発を終えて下方に向けられている。
「何が……」
答えは、窓の外にすぐ見つかった。
医院の入り口に今入ろうというニ体のノットの姿だ。
再び発砲音が街に響き、赤い筋を引いてジリーが内一体に命中、頭部が塵と変わっていく。
さらに続けざま、二度目の発砲音がし、ガラスが割れる音がした。だが、真上から見下ろすラナイにはもう一体がどうなったのかまでは見えない。すると。
「外したっ! そっちに行くぞ!」
スズが唐突に叫んだ。
声を聞き、返事もせずにすぐ踵を返し部屋の出入り口へと走るラナイ。
扉を失った枠だけの出入り口に立ち、階段の方に注意を向けると、階段を上る微かな足音が聞こえた。
「入ってきてんのか……?」
ラナイを追ってきたウィービークラップがラナイの股の下から廊下を覗く。
「ああ、そうみたいだ」
「ちくしょう、ここに来てなんでこんな面倒なことにっ。あいつら俺らを追っかけて来てんのか?」
ウィービークラップの一言にラナイがはっとする。
「追いかけて? なんでそう思うんだ?」
「だっておかしいじゃねえか。あいつらウロウロしてるだけだったのに、人の姿も見えねえ建物ん中に入ってくるなんてよ」
「確かに……」
ラナイが地下で出会ったノットは、足音が聞こえる位置にいてそれでも気配を殺していれば襲ってくるようなことはなかった。
長い間地下【忘れられた水路】を歩いていたスズだって、そう認識していた。
だが今、ノットは集団でもって医院内に侵入しようとした。
そこに何かしらの目的があるかのように。
「だけど、ノットは殺すだけなはずだ。それがギノコのせいで戦闘能力が上がるのはわかるけど、殺す以外に目的を持つなんて……」
「あいつらはとにかく"死体"だからな。そういう意味じゃ物騒なこと考えんのだっておかしいじゃねえか」
そう言ってウィービークラップは頭を振り、「面倒だ」と。
「この際、全部その"ギノコ"ってやつのせいでいいんじゃないのか? この期に及んで死体の目的がどうのと考えてる暇はねえぜ」
「全部……ギノコの……?」
掠める疑問の答え。
ギノコとノットの関係を示す決定的な何かがわかりかけ、ラナイは記憶の部屋に飛び込んだ。
足音はすぐ下の階にまで迫っている。
◯
まず、わかりきっていることは、ノットが"死体"だということだ。
朽ちかけてそれでもあれらが動き回るのは、そこに寄生する"ギノコ"のせい。
ギノコは、記憶だ。
それを証明できたのは、ラナイの黄色の息により消滅したのが死体ではなくギノコの方だったからだった。
そこでラナイが考えたのは、そもそも死体が持つ"殺すという自覚"を利用し、死体が失った情報を蓄積するという機能を補う役割としてギノコが作用しているということ。
それは単純に、ギノコの植物としての本能だろう。
ギノコは死なないためにノットに寄生し、苗床であるノットが壊れてしまわないように学習しその力を最大限利用していると考えられる。
だからこそ、そこに意味など無く、それ以上の繋がりはあり得ないはずだ。
しかし、先に出会ったシカのノットはその点不可解だった。
得物はどこにでもありそうな出刃包丁一本。
せめてあれが戦士の格好をしていたのであれば、実はナイフ使いに長けていたというこじつけもできたものだが、布切れ一枚を纏うだけのただの人のようなあれが強すぎた。
それだけでなく、地下を歩いてきた割服が綺麗すぎるということも妙だった。
刃物の扱いにしろ、身のこなしにしろ、まるで戦い慣れた戦士らしく。
おまけに咄嗟の策でラナイを嵌めることまでした。
その立ち回り。ラナイが感じた戦士としての格差は、正しく素人と玄人ほどだった。
出来立てのノットなのに、だ。
そういう事実とウィービークラップの言う"目的"がどう繋がるのかは、ラナイには思いつかない。だが。
それはヒントだ。
ギノコの持つ本当の性質を知るための。
(……ギノコが得る情報は、本来の戦い以上だってことなのか? そういう洞察眼みたいなものがギノコには備わっている?)
ふと思い、ラナイがギノコの姿を記憶の本で確認すると、目に付いた灰色の斑点。
(まさか、これが"目"の役割を? これで"視ている"のか? でも、そうだとしても裏をかかれたのを説明できない……)
少ない戦闘経験から相手の動きをより多く、超のつく洞察力で得たとしても、裏をかく行為はさらにその先の作戦の部類だ。目で見てどうなる問題ではない。
それを実現するためには所謂"訓練"で得られるような、あらゆる事態を想定した行動の反復が必要だ。
シカのノットは、それを短期間に得た可能性が高い。
(短い時間で大量の訓練時間を……そんなの一人じゃ絶対無理だ。別の訓練をした仲間が少しでもいないと……)
一人じゃ、無理だ。
ラナイに浮かんだ考えが、『全部、ギノコのせい』と言ったウィービークラップの意見と反する。
瞬間、その言葉に対して抱いた奇妙な違和感が蠢き、
(反対なんだ……つまり……。ギノコのせい、全部、無理だ、一人じゃ……)
ラナイの中であるひとつの型を成す。
◯
「そういうことか……わかったぞ……」
「何がっ」
ともうそこに聞こえる足音を壁越しに聴き、苛立って言うウィービークラップの剣を握る手に力が入る。
「一人じゃないんだ、だからできる。全部ギノコなんだよ」
「はぁ? あんた何言ってんだ」
「ギノコは、一つじゃない。全部ギノコだってことだ」
「こんな時にわけわからないこと言うのか!? ぼーっとすんのも大概に……っ!」
怒鳴るように大口を開けたウィービークラップの目を、ラナイはじっと見据えた。
「殺されたノット、今動いているノット、どれにくっついてるギノコも同じなんだ。だからさっきの奴も異様に強かった……」
ギノコはそれぞれの情報を共有しているのかもしれないんだよ。
一言、強く力を込めてそう言って、ラナイは階下から頭を覗かせた竜人のノットを睨みつけた。




