おれとれ 25
物音は、一つ上の五階から聞こえた。
そこへ小走りに向かうラナイには、今度こそという思いが浮かぶ。
これまでイルルたちがいるかいないか、むしろいないだろうと思っていたところ、シシの妖獣人夫婦を見つけたことで、この医院には誰かがいると思えるようになったからだ。
後に続く二人もまた、同じようなことを考えていた。
でもそれは、イルルではない"何か"へ向けられている。
イルルたちか、敵か。
三者三様の答えは。
到達した五階は、これまでのどの階とも構造が違っていた。
窓の方へと続く廊下が一本あるだけで、あとは壁。
その壁の中心に一つだけ立派な扉が設けられており、それは閉ざされている。
物音の大きさからして、何者かと出会い頭の遭遇を期待していた三人はこの時点で出鼻をくじかれ、緊張感とはまた別に落胆の色が微かに滲む。
「この中に誰かいる……」
扉の前に立ち、アレがそう言った。
それに「ああ」と頷き、
「鬼が出るか蛇が出るか、ってか。どっちにしても、これじゃあ期待する意味もないな」
ラナイが扉に付けられた"院長室"の札を、コン、と叩く。すると。
――ガタガタッ
中で何かが動く音が聞こえた。
その不用な物音から、中にいる誰かは少なくとも危険なものでないことがわかる。
それ故に特段の注意を払わず、ラナイがノブを捻るが。
「……開かない」
「鍵が掛かってる?」
「ああ。たぶん、こいつが引きこもってるんだろ」
そう言ってまたラナイが札を叩くが、今度は何の反応も無かった。
「どうする? たぶん、イルルちゃんでもノットでもないよね」
「まあ、そうだな。放っとくか」
そうして三人が来た道を戻り始めたその時。
『だ、だれかいるのか?』
そんな声が扉の向こうから響いた。
ラナイの返事は「いるよ」だが、ただ振り返っただけで扉に近付こうとはしない。
『おかしくなっていないのか? 緑色のアンノウンでも?』
「ああ、違う。ちょっと用があって寄ったけど、空振りだったよ。だからもう帰る。お前は安心してそこに引きこもってていいぞ」
言い残して、ラナイが再び階段に向けて歩き始めると。
「待ってくれ!」
勢い良く扉を開け放ち、閉ざされていた部屋から一人の太った男が飛び出してくる。
全身鎧に身を固めた男はラナイよりも頭一つ分小さく、腰の両側には豪華な装飾の中型の直剣が二本ぶら下がっている。その肩からは鎧姿に不似合いの膨れた革の鞄が。
「そ、外に行くんだろ?」
「もう帰るって言っただろ」
「私も連れて行ってくれ! 安全なところまで!」
兜の向こうから叫び、ガチャガチャと騒がしく三人に駆け寄る男。
すると、ウィービークラップが言う。
「【オルディグ】になら連れて行ってやるぜ」
「【オルディグ】……そうか、あそこなら種火守がいる! 彼らに守ってもらおう! 頼む!」
「ただ、なあ……。外は何があるかわからねえ。こちとら命懸けになるかもしれねえんだ、だから……」
と、ウィービークラップは右手の指を擦り合わせて"何か"を示した。
「もちろん! もちろんだ!」
歓喜して言い、男は鞄から小さな布袋を取り出し、ウィービークラップの手にそれを握らせる。
「……ま、前金として受け取っとくよ。残りは街が戻ってからでいいぜ」
「ああ、約束するっ」
そしてまた、「頼むぞ」と言った男の視線は、白い人型へ向けられていた。
◯
四階まで下りると、ラナイは四◯七室の開きっぱなしの扉をちらと見た。
奥からは物音ひとつ聞こえず、誰もいないのと変わらない。
「一応、見ていく?」
アレの提案を、ラナイは「いや」と首を横に降って下に見える踊り場に目を戻した。
それまで三つ分の控えめな足音だけが響いていた医院内は、今最後尾を来る男のせいで妙に騒がしい。
何度も振り返り、荒い息遣いは止まず。男の振る舞いには慎重さこそあるものの、隠密さは皆無である。
「ところであんた、名前は?」
階段を下りながら、ウィービークラップが訊く。
「クロウガー・シュタイン」
「へえ、混血か。俺はウィービークラップ。この娘はアレ、そんでこの人がラナイってんだ」
「ああ、そうか。よろしく頼む」
落ち着き無く辺りを見回しながら、受け流すようにクロウガーは言った。
「で、医院ってのは儲かるのか? やっぱり」
「そこらでパン屋をやるよりかはな。客は金持ちばかりだし、今頃毒を受ける者なんかいないし、大概はちょっとした怪我ばかりだからな。楽なものだ」
「つまり、ぼったくってんのか。ネズミ道の奴らと変わんねえな」
「生きるためだ。今の世は金がないことには苦労する。そうしなくて良い方法があるなら、そうするのが当たり前だ」
「ま、言いたいことはわかるぜ」
二人が無意味な世間話をしている内に、ラナイが一足先に三階へ辿り着く。
すると、そこでもラナイは向こうを眺めて足を止めた。
アレが「どうしたの?」と問い掛けるが、今度のラナイは首を横に振らない。
黙ったままラナイは、まず廊下の向こうを指差した。
「あそこの扉、初めから開いていたか?」
質問に、アレは「どうだろう」と首を捻る。
「すぐに上まで行ったから、よく覚えてない」
覚えていないと聞いて、ラナイはすぐに記憶の部屋へ行き一冊の本を開いた。
四階に物音を聞いてすぐ。ラナイの視線には階段の腹があったが、その直後四階へ続く階段を上ろうとしたその一瞬に残る風景では、扉は開いていない。
「ってことは、誰かいるぞ。この階にも……」
独り言のように言って、
「おい、十日くらい前にひどい怪我をした妖精が運ばれて来たはずだ」
ラナイはクロウガーを振り返った。
「ひどい怪我をした……妖精?」
「そうだよ。オオカミの妖獣人の女と一緒だったはずだ。覚えていないか?」
ラナイの言葉にクロウガーは、オオカミの、と呟いてそして「ああ」と頷いた。
「そういえば、盲目のオオカミ女が血まみれの小汚いのを連れて来たと報告があった。だが、金を持っていないっていうんで追い返したそうだが……。それがどうかしたのか?」
「追い返した……?」
何か複雑な感情を抱え、確認するように言ったラナイ。
するとその表情から何を感じ取ったのか、慌てて「従業員が勝手にやったことだ」と付け加えたクロウガー。
「あんたの知り合いだったのか?」
そう言ってさらに、「私が対応していれば怪我人を追い返すような真似はしなかったんだが」と取り付くように言った。
だが。
「参ったな……」
と、それがラナイの返事だった。
医者に診せれば治してもらえる、どうしてそれが常識だと思っていたのか。
大きくズレたラナイの予想は、処置が間に合わずイルルが死んだかもしれない、と書き直された。
だから、「人が死んだら、それはどこに運ばれる?」と質問を変えた。
しかし。
「そんなことより……」
「ラナイ、前!」
三人が指差す開け放たれた扉の向こうから姿を現したのは、枝分かれした巨大な角を生やしたシカの妖獣人だ。身に纏うのは、裾の足りない薄い布切れだけ。
頭頂部の二本あったはずの角の一本は折れ、半開きの口からは長い舌がだらしなく垂れ下がっている。
そして、顔から飛び出すギノコ。
ノットだ。
獅子の女から生えていたものよりも大きく成長しているその姿をラナイが確認した瞬間、ノットは握り締めた出刃包丁を逆手に持ち替え、疾走する。
その足運びをシカ独特のといって良いだろうか。
一歩と二歩の間は短く、ほとんど両足飛びのような要領で駆けてくるその速度は、速い。
最前線で迎え撃つラナイは、三人に「上れっ」と伝え、バラバラと鳴る足音を背後にノット最後の跳躍に視点を合わせた。
ここが建物の中でなければ、飛び越えられていたかもしれない。
だが、天井すれすれを行こうとするシカのノットの長い足はラナイの手の届く範囲にあり。
即座に伸ばしたラナイの大きな手の平はいとも簡単にそれを捕らえた。
「おっっとっ」
ノットの勢い凄まじく、一瞬仰け反るラナイ。
半歩退いたものの、踏み止まり、短い雄叫びと共にそれを来た方へ放り投げた。
しかし、不安定な姿勢からの投げでは威力は出ない。
宙で一回転し、数メートル先に着地したシカの妖獣人は、獰猛な息で喉を鳴らし、ラナイをじっと見つめていた。
その目付きに感じられる殺意は、イーリークラップも地下で出会ったノットも変わらない。
純粋な意思。
殺す以外何も考えていない、そういうものだけがひしひしと感じられる。
だからだ。
だからこそ、ラナイは今の跳躍が気になっていた。
「……お前、どうしておれを無視しようとした?」
問うて返ってくるなどと思ってはいなかった。
だが、聞けば何か行動に変化があるかもしれないと、そんな期待じみたものがラナイを掠める。
「…………」
ギノコは記憶だ。
何がどういう仕組かラナイにはわからないことだが、そこに、たとえば戦闘においてのみでも意志があるのなら、答えは必ずあるはず。
再び突進してくるノットをどう捌くか。
今しがたの不可解な跳躍の答えを求めて、ラナイはまた最後の一歩に注目する。
距離は先ほどの半分程度。
ラナイに突っ込んでくるのであれば、二歩もあれば十分だった。
それがわかっていて、ラナイはノットとの間合いを一歩分広げる。
一歩。
ダダッ、と連続する足音が床を乱暴に叩く。
二歩。
ダッダッ、とそれは一歩目よりも少し間のある足音だ。
三歩。
ダッ、と踏み出されたのは"足一本"。
床に残されたその一本の足を確認し、ラナイはすぐに視線を上げた。
ノットのシカ顔はもうすぐそこにある。
出刃包丁を持つ右手はその顔よりも少し前に。
鈍く光るその刃先をラナイが目の端に捉えた直後、それはラナイの頬すぐそばを通り過ぎていった。
(速いな……)
だが、ウーリエは直剣のリーチを持ってそれを成す。
その点でいえば、このナイフ捌きは戦士としての格の差の表れだろう。
一瞬、ラナイに生まれた僅かな余裕は、ノットの一歩を度外視させ、そしてもう一歩目がどこに置かれたのかを意識させなかった。
通り過ぎた拳を追うこともせず、ラナイは振りかぶった左手の平で残された長い角を掴みに掛かる、が。
それは、悪手。
ナイフが逆手に握られていること、踏み切った後の足がついたのと同時、追ってくるもう片方の足が大きく股を開く状態で置かれていることを意識するべきだったのだ。
一直線上に角があると錯覚し、真っ直ぐに伸ばしたラナイの手は、瞬時に右に逸れた角を掴みきれずに空振り。
避けて捻れた体の反動を上乗せし、ノットの出刃包丁はラナイの下顎に向けて高速で突き上げられた。
「むぐっ!」
ラナイの呻きに合わせ、鈍い音が響く。
ダメージを受けたかどうかラナイに自覚はなかったが、それよりも。
続く二撃、三撃と首元を往復する刃の動き、四撃目に思い切り蹴飛ばされるまで、ラナイは反応することすらできなかった。
階段に背を打ち付け、その時。
ラナイはあろうことか戦闘中に混乱していた。
驚いていたのだ。
手応えが違った。
「こいつ、強いのか……?」
見たところ戦士には見えないシカが、強い。
考えられるのは、このノットがラナイと戦う前に何人かの手練と戦った可能性だ。
そういう幾つかの戦闘を経て、寄生しているギノコは戦闘の知識を得たのかもしれない。
「……だけど」
それにしても綺麗すぎる。
衣服に付いた泥汚れや傷みは別として、身体にある目立った傷が折れた角にしか見られない。
ギノコが記憶を司っているにしても、始めに出会った相手が弱ければ経験にならないし、強ければただじゃ済まない。か、もしくはその時点でせめて急所に一撃はもらったはず。
角以外に受けたであろう傷をラナイが探す最中、ノットは突進してくる。
あの跳ねるような足運び。
「あっ」
気づいてラナイが体を起こした時、ノットはすでにラナイの真上にいた。
そしてそのまま、彼の進む一歩に巻き込まれラナイは再び床に叩きつけられ。
咄嗟に伸ばしたラナイの手は無様に空を切った。
「アレ……っ」
そこでようやく混乱が解けた。
ラナイは即座に身を翻し、四足の姿勢で四階へ向かったノットを追う。
ラナイが四階に着くと、ノットはそこにいてまだ周囲を探している様子だ。
その姿が、自分を無視したノットの行動意図を示す。
(あいつ、おれより先に弱い奴らを狙っているのか)
ただ殺すだけのはずのノットがなぜ。
答えはおそらく今すぐには得られない。
ラナイは背を向けて奥の角を曲がろうとするノットを確認し、すぐ手前の道を曲がった。
ロの字の構造を利用して、鉢合わせするつもりだ。
敢えてそうするのは、現在のノットに対して自分の位置を確かめるためであり、あわよくば狙っている他の三人から遠ざけようという単純な策による。
しかし、それは失敗した。
右手前の廊下を進み、ノットよりも先に出会い頭の位置についたラナイだったが、ノットはその姿を確認してすぐ、道を引き返したのだ。
「なにぃ?」
まるでラナイの考えを読んでいるかのような行動。
廊下を駆け、慌ててノットを追うラナイの耳に乱暴に扉を蹴破る音が聞こえた。
次の瞬間、壁の向こうからガチャガチャとあの音が。
そして短い悲鳴。
「…………」
だが、ラナイは冷静だった。
ただの手練ではないと、ノットを認めたからだ。
焦って興奮すれば、きっと裏をかかれる。
廊下の角左に折れ、壁一枚向こう側の状況を想像しながら、三人に向かうノットを背後からどう仕留めるか行動の予定を立てていた。
扉は破壊され、四◯七室は開けっ放しになっているのが見えた。
ノットの速度を考えれば、部屋に入ってから体の向きを変える一瞬すら惜しい。
入り口を越えてすぐ飛びかかってノットを捕えると腹を決め、ラナイは四◯七室に飛び込む。
しかし。
「い……ない?」
ノットがいない。
ラナイの目に映るのは、部屋の奥で身を固めている三人の姿と、そばのベッドに突っ伏しているシシの妖獣人の男の頭。
「ノットはっ!」
ラナイの質問への答えは、「ラナイ!」。
背後の物音に気づき、ラナイが振り返ろうとした瞬間。
ラナイは背中を踏みつけられていた。
その衝撃に何を思う暇もない。
体を床に叩きつけられ、首から上だけを捻って見つめるラナイの視線の先にはまた、ノットの足だけが映っていた。
狭い室内に響く絶叫。
ラナイは藻掻くように腕を伸ばし、床を蹴ってノットを追うが。
(間に合わない……っ)
一人か、二人か。
崩れ落ちる誰かの悲惨な光景がラナイの脳裏に浮かぶ。
(せめて……)
生き残る一人をアレと決め、そのためならば仕方なしと、ラナイは大きく息を吸った。




