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おれとれ 17

 忘れてはならない、というよりもそうそう忘れるようなことではないということはいくらかあるはずだ。

 実際、ラナイはその事実を忘れていたわけではない。

 確かに覚えてはいたが、淡々とした事実としてしか理解できていなかったのだ。


 ルールーウィップがついている。

 イルルの怪我は大きなものだったが、まだ息はしていたし、今すぐ治療を行えば死ぬこともないだろう、と。

 つまり、ラナイに欠けていたのは"心配"という心の色だ。

 

「うそでしょ……」


 呟いた彼女の薄緑色の瞳は、小さな円の中に一筋の艶をもって輝き、妙に色が濃くなったように感じられる。

 いつもと変わらないはずなのに、どうしてそんなに色濃く見えるのか。

 前回と同じ会話。だが、その時見ていなかったグリムの目をじっと見つめるラナイは、その奥が気になっていた。


 背景。

 きっと色を濃くする原因がそこにあるのだろうと感じたからだ。


「イルルが……どうして……」


 前回とは少し違う台詞に、前回とは何が違うのか考えるラナイ。

 明白だ。

 今のグリムにはあったものが失くなっている。


(アリアス・コムがあの時いなければ、グリムはもっと単純に、こんな風にイルルの心配をした……か)


 ラナイにふとそんな考えが過り、すると何か違和感のようなものが嘆息となって鼻から漏れた。


「どうして!」


 声を荒らげるグリムが向く方はラナイだ。

 

「怪我をさせたのが誰なのかはわからない。一応話したけど、お前、ここ最近の記憶が失くなってるんだ。おれも一緒にいたんなら説明もできたけど、その時一緒にいなかったからな。むしろ聞きたいのはおれの方だよ……」


 けどまあ、ルールーウィップがいるしたぶん大丈夫だ。

 あっけらかんと言ったラナイにグリムが激怒する。


「バカ言わないでよ! 死んでたらどうするのよ! もしそうだったら……」


 絶対に許さない。

 唇を噛み締め、拳を握り締めてグリムは床を睨みつけた。


「誰がやったのかもわからないのに、か?」

「……なっ! 思い出すわよ! あったものが失くなっただけなら、取り戻せる! 絶対に犯人を見つけて……見つけてっ……!」

「見つけて、どうするんだ?」

「うるさい!」


 最後に一言怒鳴り、グリムは小屋から飛び出していった。

 そうして小屋から飛び出してきたグリムの背中は、もうラナイの見慣れた薄緑色ではない。

 エルオムの指先に侵された血液を拭ったトレードマーク入りのローブは廃棄され、今はアナーブがどこからか仕入れてきた茶色のありふれたものへと変わっていた。


 そして見慣れない背中は隣の小屋へと消えていく。


「ラナイ、どうするの?」

「どうするって言われてもな。おれが行って何ができるってわけでもないし」


 グリムの入っていった小屋を眺めながらぼんやりとラナイは答えた。


「でも、お世話になったんでしょ? それに……私を探すためにその子は怪我をした。誰が何のためにそうしたのかはさておき、私もラナイも、彼女にお礼は言わなくちゃいけないと思うけど」


 誰が何のために、という部分ラナイには思い当たる節がある。

 誰、は金色の騎士だろう。

 名前まではわからないが、その後グリムがドールマスターとしてラナイを使って戦った相手がそうだ。


 つまり、金色の騎士の正体はアリアス・コムである。

 それをグリムに伝えるのは簡単なことだったが、ラナイがいまいち口に出しきれなかったのは、グリムがアリアス・コムに対して異様に恐怖を感じていたのを知っていたからだった。

 思い出さないのであればそれでいい、と。 

 

 その恐怖が関係するかは不明だが。何のため、については金色の騎士がアリアス・コムならばグリムの悪行が原因だということはわかりきったこと。

 金稼ぎのための八百長がポロトロスの怒りを買ったのだ。


 金色の騎士が八百長に対する罰のために。

 イルルが大怪我を負った事実は自業自得のように思える。


「……まあ、でも一応。そうだな。気になっていたといえばそうだから」

「なにそれ、煮えきらない感じ。まさか面倒くさいとか言わないよね」

「そこまでは思わないけど、結局自業自得な部分が大きいし。あいつはそういうので見舞いに来て欲しいとかそういう感じじゃないかも」

「…………」

「なんだよ」

「……ううん」


 そっと首を横に振り、その割強く嘆息するアレ。


「いや。久しぶりにそのぼーっとした感じ……ちょっとイライラしてるわ。やっぱり」

「あ、そう……」


 肩をすくめたラナイに、二発目の嘆息が。


「ラナイの正体は、堕天使でもベルバル様も違うって今確信した」

「なんだ、いきなり」

「先導者なんて呼ばれるリーダーがこんなつまらない人なはずがないよ。だからきっと、ラナイの正体はぼんやりした何かだね」


 アレの微妙につっけんどんな態度。

 それが怒っているように感じたラナイは、「何を怒ってるんだ?」とまた肩をすくめた。


「怒ってないよ。呆れてるだけ」

「……あ、そう」


 ぼやくように呟いて、ラナイは頭をポリポリと掻いた。


「あれ……?」


 ラナイの声に、「何よ」と返事をする少女。


「いや、違う。そうじゃなくて……」


 イルルは死ぬかもしれないのか。

 その矛盾を知っているラナイだけが、先のグリムの発言に疑問を抱いたのだった。


 妖精は死なない。

 そう言ったのはイルル本人だ。

 だったら、そもそも怪我の具合がどうにせよ心配する必要なんてどこにもないはず。


 そこにグリムの取り越し苦労という可能性が考えられないのは、あの態度のせいだ。

 まるで、本当にイルルが死んでしまったらと恐れているような態度。

 だったら、イルルの死ぬのかもしれない。


(妖精なのに?)


 グリムの起こした矛盾が示すのは、妖精が死ぬという事実かそれとも嘘か。

 一部記憶を失ったことで露呈した疑惑は、ラナイが【コルト】へ同行するほとんど唯一の理由だった。


 これまで"妖精"という単語を口にしたのは、グリムとイルル、それから【アーハイム】の三人組、スズ、そしてウィッシュバルだ。

 グリムに付き添うと決めた後、ラナイはウィッシュバルだけを連れて行くことに決めた。


 一人だけを連れて行くとなれば、当然読者の団はうるさくなるだろう。

 それを予想したラナイは、現状まとめ役になっているミーヒルバルとイーバルに事情を伝え、彼らにはここで待機させるように頼んだ。

 

 ミーヒルバルとイーバルは初め釈然としない様子だったが、ウィッシュバルの「何かあれば逐一報告する」という約束で納得した。


 面と向かって話せない距離をどのようにして逐一報告するのかは、彼ら自称堕天使の用いる"思念声"が容易に解決してくれる。

 元々竜から生まれた元天使の彼らはそもそも一つであり、同調さえすれば思考を共有できる、というのはこの時にラナイが初めて知ったことだった。


「ベルバル様にも思念声はあるはずですが……。声の出し方を忘れてしまったのでしょう」


 少し寂しげにそう言ったウィッシュバルの意見は正しい。

 ラナイには自分にもう一つ声があるという自覚が無かった。

 しかしその事実は、もし思念声があればラナイは堕天使だと確定するようなもの。


 逆にそれが無いのであれば、ラナイは堕天使でも天使でもないことを意味する。

 自ずと、ラナイは自分の正体を知る時が近付いている気配を感じていた。

 

          ◯

 

 夕暮れがまだ少し先に待つ明るい空。

 草が剥げて露出した薄茶色の地面が目立つこの場所は、所謂"輪の外側"である。


 人気はなく、野獣の姿も見えない。

 ここを席巻しているのは間違いなく自然であり、吹く風も硬い草を踏み香り立つ青い草も音も、全てが従来の姿のままそこにあるように思える。


 手入れのされていない大地だ。

 アレを探す間、街道を歩いてきたラナイにとってそれは、【イグナスの山】から丘を越え【アーハイム】に続く街道を見つけるまでの風景と似ていた。


 街道周りとの間に大きな違いは無いのかもしれない。

 ただ、輪の外側であるここは本当に静かで、緑一色のあの丘【ファルセル】で感じた永遠とか悠久とかそういうものの残り香のようなものを漂わせている。


 内側と比べ安全とされるのも頷ける、後にも先にも何の気配も感じさせない不思議な空間だ。


 するとふと、ラナイの脳裏に【ビッツ】というあの穏やかな街が浮かぶ。


 突如【ビッツ】が思い浮かんだのは、あの街の中心を街道が通っていたからだ。

 輪の内側と外側を行き来して生活するのが当たり前の【ビッツ】という街の構成は、ラナイが見てきた【アーハイム】とも【コルト】とも違っていた。


 地面から高いところに設置されたあの高床式の建物は、家畜たちがすり抜けて邪魔にならないようにするためだとグリムが言っていた。


(輪の内側は危険なんだよな……なら、どうしてわざわざ内側に放牧するんだ……?)


 妙な疑問が今さらになって過る。


「なあ、グリム。どうして【ビッツ】は家畜の放牧を輪の内側でもやるんだ?」


 大荷物をラナイが代わりに背負い、少し先をグリムが行くという構図に以前との違いはない。

 だからいつも通り、ラナイはグリムに声を掛けていた。


「【ビッツ】? なんでお前がそんなこと急に聞くのよ」

「ちょっと気になったんだよ。教えてくれ」

「……そういう風習だから、でしょ。詳しく知りたければ【ビッツ】に行けばいいじゃない」


 それと、とグリムが立ち止まりラナイを見上げる。


「ドールがいきなり話し掛けてくるのって気味が悪いの。だからあまり話し掛けないで」

「……そうか」


 鼻息混じりにラナイが納得すると、


「おい、女。貴様この方が誰だかわかっていてその態度はどういうことだ」


 ウィッシュバルが噛み付く。


「ベルバルだっけ? 知らないわよそんなの。アタシにはただのドールにしか見えない」

「き、貴様っ……生意気な……」


 噛み締めた歯の隙間から声を漏らすウィッシュバル。


「なーにが、『生意気な』よ。それはアタシの台詞。覚醒だかなんだか知らないけど、実は堕天使でした、なんて信じられないわ。ま、珍しいドールってのに違いはないけど」


 悪びれず、どころか挑発するようにグリムは首をカクカク揺らしておどけた。

 対してウィッシュバルは「むむぅ」と唸り、「ベルバル様……」と何やら言いたげにラナイを向く。


「グリムは元々ちょっとサバサバした奴だよ」

「さばさば、とは?」

「さっぱりしててツンツンしてる感じ」

「つんつん?」

「……適当に察してくれ」


 ラナイが放り投げると、ウィッシュバルはまた「むむぅ」と唸り、小さなグリムの後頭部をわざとらしく覗き込むようにしていた。

 それから少しの間、「鬱陶しい」と「うるさい」の応酬が背景に加わり、そして彼らの視線の先には【ディーズベルグ】の白い城壁が遠く見えてくる。


 横に長い波打つ城壁はその向こうにそれもでこぼこと屋根が飛び出していて、それらは陽光を受けて輝き、宛ら王冠のようである。

 そんな【ディーズベルグ】を眺め、ウィッシュバルがぽつり、


「これが、今の【ディーズベルグ】……」


 そう呟いてラナイを振り返った。


「ベルバル様。やはり少し違っているようです」

「何がだ?」

「【ディーズベルグ】の様子です。私の持つ最古の記憶と比べて、ですが」

「他の時はどうだ?」

「他の、と言われましても。あれらは文字で書かれていますから、目に映るもののような具体的な違いというのはわかりません」

「言ってることが矛盾してるぞ。わかるのかわからないのか、どっちだよ」


 ラナイの質問にウィッシュバルは、「覚えている、ということです」と答えた。


「あの部屋にある本のように目視で確認できるものではなく、漠然と違うことがわかるのです。だからおそらくそれは私の最古、堕天使として生きていた頃のことでしょう」


 おそらく、という割にハッキリと断言するようにウィッシュバルは言った。

 

「ってことは、おれの知ってる常識と同じようなことか。思い出すってより、そう知っているって感じのモヤッとした……」

「そう、そうです。そういう記憶が今の【ディーズベルグ】の姿に違和感を感じさせるのです。以前の【ディーズベルグ】は白ではなかった。それと、"剣と盾"の紋章が掲げられていた巨大な城があった……」


 城。

 同調して呟き、ラナイが思い出したのはあの地図だ。


「アレ、あの地図まだ持ってるか?」


 ラナイは、足下に立って【ディーズベルグ】を眺めていたアレに声を掛けた。

 

「もちろん」


 と、アレ唯一の持ち物である肩掛け鞄から古びた地図が取り出される。

 そうして久しぶりに広げた地図は、ラナイの記憶の本に描かれているものと同じだ。

 アレの手には大きなその地図を指先で受け取り、改めてそこに視線を落とすラナイ。

 

「ウィッシュバル、これを見てくれ」


 そう言ってラナイはウィッシュバルに一歩近付き、広げられた地図は二体のドールに凝視される。

 ラナイは、その一部を指差した。


「ここ、【アーハイム】の紋章は"城"なのに、こんな城は無かった。あったのはボロ小屋を積み上げて出来た適当な感じのやつでさ。でも紋章は今も残っている。何かわかるか?」


 ラナイが言うと、ウィッシュバルは「おかしい」と首を捻った。


「この地図には描かれていないのでわかりませんが。七人王が治める国には、皆城がありました。紋章は確かにその当時のものと同じです。

 ベルバル様が【アーハイム】や【ビッツ】を経由してきて国の象徴たる城を見ていないとなると、やはり七人王は滅びた、ということなのでしょうが……」


 ところで、とウィッシュバルがラナイの方をちらと見る。


「この地図はどこで?」

「【ファルセル】って言ってわかるか?」

「たしか、越えられぬ丘……ですか」

「そこの向こうにある大穴のそばで拾ったんだ」


 ラナイが言うと、ウィッシュバルの表情に僅かに怪訝さが滲む。


「越えられぬ丘の向こうということは、例の【イグナスの山】の方向ということでしょうか?」

「まあそういうことだな。何か気になるのか?」

「いえ……気になるというか……」


 呟いてウィッシュバルが指差す地図のそこには、汚れて読めなくなった文字と一つの街らしきものの痕跡がある。


「他六つの国の名がわかるということは、この場所は残る【ヴェルーゴ】でしょう。【リルディア】の南方であることからもそうだといえます」

「ああ、これがそうなのか」

「はい。しかし……」

 

 そう言ってまた、ウィッシュバルは首を傾げた。


「ミーヒルバルらの語る【グリンボウ】がありません。どういうことでしょう……」


 言われてもう一度地図に目を落とすラナイ。

 そこにはやはり【グリンボウ】の名は無い。


「私が妖獣人として先の時代に見た地図とは内容が違うように思います。【リルディア】が南北に分かれていて、【南リルディア】は滅びた【ヴェルーゴ】を統治した結果だろうというのは前にもお話しましたね」


 ああ、とラナイが頷く。


「つまり、これは私が妖獣人として見た地図よりも古い物です。ですが、地図の中心に【マセル】がありません」


 そう言ってウィッシュバルは地図の中心付近のがらんどうなところを指先で丸くなぞった。


「古い時代のものだから、【マセル】が成長する前ってことなんじゃないか?」


 もっともらしくラナイは言ったが、ウィッシュバルは首を横に振って簡単に否定した。


「だとしても、この場所にはあるべきものが無いのです」


 含みを持たせたウィッシュバルの言葉に敢えてラナイは何も言わなかった。

 するとそれを察してか、ウィッシュバルはじっと強い目でラナイを見つめてゆっくりと口を開く。


「ここにあるはずのものは、【ウーノス】です」

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