おれとれ 1
焼けるような感覚が喉を口を満たしていた。
後を追って、鼻の奥を食物らしくない酸っぱい香りが抜けていく。
熱くも冷たくもなく肌の温度と変わらないそれは、この香りを除けばなんの不快感を得ることもない。
感覚としては、ただの息。
だが、それには色が付いている。
黄色のだ。
舞い上がる様、漂い方は煙に近く。
だから吐き出されるというよりも溢れ出しているように見える、か、その勢いを加味すれば飛び出しているか。
それに、普通息を吐き出すなら力はどこかにかかっているものだ。
腹、胸、喉、勢い良くそうするのならばそれは全身にも及ぶだろう。
少し前、"嘔吐"という感覚を思い出さなければ、気づかなかった。
ラナイが今自分のしていることが呼吸に似ているが違うと感じていたのは、その力と吐き出されているはずのものの勢いが釣り合っていなかったからだった。
ラナイが初めてこの呼吸を本気で行ったのは、目覚めてすぐのこと。
イグナスと対峙した時だ。
ラナイをアリアスと疑ったイグナスは、灼熱の炎をラナイに向けて放出した。
あの時、ラナイは反射的に口を大きく開き、自分に何ができるかもわからないまま、こみ上げるものを向かってくる炎にぶつけただけだった。
するとラナイの口から吹き出す黄色の息は、炎を防いだ。
まだただの白い人型だったラナイにとってその出来事は、上手くいったでもなく、運が良かったな、程度のことだった。
それから二度目。
それは、【アーハイム】のポロトロスでグリンドルと戦っている時のこと。
まだ戦い方がよくわかっていなかったラナイは、イグナスの炎に対してそうしたように、グリンドルの放った白い風を吸い込んだ。
本人からすれば出来ることをやったまでだったが、それが功を奏して生まれた隙をアレに教えられ、ラナイがグリンドルを仕留めようと動くも、同じく助言の声に反応したグリンドルによって見事不意打ちを防がれた。
そこでグリンドルから加減なしの一撃をくらったラナイは、その時に初めて【否読の書】の内容の一部を読んだ。
得られたのは、自分自身にはそんなことができてそうしていたという事実。
関節が縦横無尽の可動域を持つという特殊なものであることと、戦闘時には四足の姿勢を取るのが基本ということだった。
その時は本を読むのに夢中だったのだから、ラナイが黄色の息を吐き出したのは意図的ではなかった。
まさしく、頭と体がそれぞれに動いていたということになる。
そういう感覚は、ラナイが"覚えている"と感じることと、記憶の本や【否読の書】によって得られることの違いに似ている。
ラナイ個人の感覚として、記憶の本や【否読の書】で得られる情報は"思い出した"というもので、覚えているというのは"体が勝手に"という差がある。
自分がどうという本来ならわかりやすいはずのものが前者で、一般的な常識は後者だ。
傍から見ればどんな時でもラナイが自然体に見えるのは、このことが影響している。
例えば、歩きながらでも戦闘中でもラナイは記憶の部屋に入ることがあるが、そこに大きな隙は生まれていない。
特に、ウーリエと対峙した時がそうだった。
それから、状況は違うがグリムに操られている最中も、体と意識がそれぞれ客観的に活動している。
そして今。
ラナイは意識的に呼吸という動作を行っているようで、実はそうではなく、それそのものは"体が勝手に"やっていることだと気づいたのだ。
だから、黄色の息は口から吐き出しているのではなく、溢れ出しているか飛び出しているか、だ。
マイペースに喉を通り抜けていくのが空気で、その穏やかさを無視して狭い道を広げてまで大量の"黄色いもの"が通り過ぎていく。
それこそ、嘔吐のそれと近い状況が黄色の息を吐き出すという行為だった。
つまり、ラナイに制御できるのは口を閉じるか息を吸うか、もしくは腹の中から溢れ出すそれが止まるのを待つかだけということ。
【否読の書】を読むでもなくそんな事実に気づいたラナイは、口を閉じ、喉奥からこみ上げるものを口内に閉じ込め、飲み込んだ。
◯
近距離で黄色の息を受け、深緑色の怪物ヌメヌメは体を激しくくねらせながら後退していった。
開放された右手は、どうしてか光っている範囲が増し、手首と肘の真ん中辺りまで広がっていた。
乗じて照らされる範囲も広がり、白光は退くヌメヌメを閉じ込めるかのようにその背後にあった。
だから、ヌメヌメが藻掻くのは光のせいのようにも見える。
苦手なものの効果が増し、ダメージを受けているのだと。
だが、そうではない。
ヌメヌメが苦しげな声を漏らし藻掻くのは、ラナイが黄色の息を吹きつけたからだ。
とはいえ、ラナイはヌメヌメを苦しめようとしてそんなことをしたわけではない。
単に、過去の経験に基づくひとつの効果を期待したからだ。
グリンドルがそうなったように、"記憶を失えばいい"と。
そうすればわざわざ死にそうな思いをして光を求めることもなくなるだろうし、自分が追われて面倒なことになるのも避けられると、ラナイはそんなことを考えていた。
しかし、事態はラナイの予想を越えて、それなのに見覚えのある状態へとヌメヌメを変貌させた。
「おい……なんでそうなる……」
息を呑み、代わりに漏れたのはそんな驚愕の余韻だった。
次いでラナイを侵すのは、奇妙な感情だ。
鼻の奥から細い紐のようなものが繋がっていて、それを下方に引き下ろされるような、またそれをきっかけにして体の変なところが冷えていくような。
それなのにどんよりと生暖かく、重苦しい感情。
ザワザワと、記憶でも覚えでもない何かのどこかをくすぐられているかのような錯覚を、ラナイは体に覚えていた。
いつ震えてもおかしくない状態で、ラナイは足下に流れ込むヌメヌメ"だったもの"を避ける。
「あいつはそうならなかったのに……」
白光の中、歪な地面を流れていくそれは、今や汚れた液体でしかない。
ヌメヌメは、ラナイの黄色の息を受け、"溶けた"のだ。
驚くべき光景。
だが、ラナイがショックを受けるのはヌメヌメが溶けたからであって、溶けたことが原因ではない。
グリンドルがそうならなかったという事実が問題だった。
なぜなら、黄色の息で溶けるという現象はヌメヌメに限らず、草や石なんていうものも同じように液化したからだ。
だから、黄色の息を吸って溶けていないのはグリンドルだけということになる。
これまで、その事実を知っていたからこそ、ラナイは黄色の息について一定の安全性みたいなものを感じていた。
人に向けて記憶を失わせることはあっても、殺すことはないだろうと。
その安全性が、今崩れた。
ラナイがショックを受けたのは、つまりゾッとしたからだ。
これまで、ラナイは何度か人前で黄色の息を漏らしてきた。
それはもちろんアレやグリムたちの前でも。
色々と思い出したことが増えたからか、ラナイは(もし……)と視なかった過去について想像を巡らせていた。
その想像の始まりは、【忘れられた水路】に閉じ込められる少し前、グリムに紐を付けられ、恐らくアリアス・コムと戦っていたその時に遡る。
もし、記憶の本に書かれていた通り息を吐いたのなら、ネズミ道が崩壊しただけでなくそこにいたグリムも巻き込んだかもしれない。
足下を流れていく深緑色の液体に視線を落としたまま、ラナイはしばらくの間動かずにいた。
今回もまた、記憶の部屋に入って過去を見直そうとしたのだ。
読みながら動くこともできるが、ラナイはそれを確認できなければ動く意味もあまりないように感じていた。
そうして幾度も入り込んだ記憶の部屋は、思いの外片付いていた。
いつ整頓したという覚えもないが、そこら中床に散らかっていた記憶の本は大概本棚に収められていて、床に残っている数冊も本棚のそばに塔を一つ分築いているだけだ。
積み重なって塔になっているそのてっぺんの一冊をラナイは手に取る。
開いたページには、あの時見たものだろう"金色の騎士"と対峙する"膨張した四足姿勢の白い人型"が見開きで描かれていた。
白い人型のそばには、妙に刺々しい囲いがあり、その中には『吸え』と文字が書かれていて、腰に収められたまま剣を構えてもいない金色の騎士のそばには何も書かれていない。
ラナイがネズミ道崩壊の原因が自分にあるとスズに話した時までは、文字が目立っていてこれほど詳細な絵は描かれていなかったはずだ。
次のページを捲る。
同じく見開きでそこには、一面もくもくと幾つもの曲線が描かれていて、線の内側それぞれに薄い濃淡の黄色で塗りつぶされている。
ページの隅には大きく口を開けた白い人型が描かれていて、前ページのような膨張した姿ではないく、そのそばには縦書きで『吐く』と書かれているが、そこに刺々しい囲いはない。
その反対側の隅では、片腕で口元を覆う金色の騎士の姿が描かれている。
次のページを捲る。
前ページと同じくもくもくとした曲線と薄い黄色が二ページ分に描かれているが、前ページよりも色が濃くなっているようだ。
白い人型の姿も金色の騎士の姿も描かれていはいない。
次のページを捲ると、そこには巻き上がる黄色のもくもくとそこに瓦礫が交じる光景がまた二ページに渡って描かれていた。
その中心付近に白い人型はいて、隣のページの方を見つめたまま、両手足を床に押し付けてじっとしている。
そんな白い人型の後方に、"薄緑色のローブの小人"が描かれている。
降り注ぐ瓦礫に混じって全身が見えるような状態ではなく、しかし両手を大袈裟に開いている様子から、慌てているようにも見える。
そしてまた、ページを捲る。
そこに描かれているのは、いや、そこは黒く塗りつぶされているだけだ。
とはいえ、隙間なくきっちりと塗られているわけではなく、細いペン先で何度も往復したような雑な塗り潰しだ。
スズに聞かせた時、ラナイはこのページを周囲に満ちている暗闇なのだと思っていた。だが。
次のページを捲って、そうではない可能性に気づく。
次のページは、隙間なく塗りつぶされた黒で満たされていた。
(どういうことだ……?)
ページを戻し、なんとなく雑に塗りつぶされた二ページを眺めていると、
(……これは、まさか)
ラナイは、そこにある雑な塗り潰しの隙間に薄緑色が垣間見えていることに気がついた。
またページを戻り、確認してみれば、黄色と曲線で満たされたページにも微かに薄緑色はいて、また一部だけ妙に濃い黄色が描かれてもいた。
(グリム……)
完璧に塗りつぶされた黒のページにはもう見えない薄緑色。
当然、暗闇が晴れて周囲に風景が浮かび上がったそのページにも描かれていはいない。
最後の記憶、その雑な黒の塗り潰しが大量に降り注ぐ崩壊の風景なのだとすれば、グリムが崩壊に巻き込まれているのは間違いなかった。
安否を確かめること無く、あいつなら無事だとしていた確信の過去が、ラナイに再び生暖かく重苦しい感情を起こさせ。
ついに周囲を満たす耳を塞ぐ闇がラナイの心の中、意識の中にまで流れ込んできたかのようだった。
項垂れたままそっと目を閉じると、ラナイのすぐそばにはまた別の暗闇が待ち構えていた。
それは、塞ぐ闇に対してその入れ物か。
全てを閉ざす無形異質の暗闇だった。
(これは……。違う?)
感じて、ラナイはこの耳を塞ぐ闇がどこか遠くに感じる"覚え"とは似ているだけだったことに気づく。
その時。
「おっ!」
何かがラナイに触れ、驚いたラナイは即座にその触れた何かを掴んだ。
「お前は……」
ラナイの大きな手の平に、一体何本それは収まるだろう。
少なくとも五本は入る、細く硬い腕だ。
白光の中でそれは相変わらず白く、骨ばった指の感じがラナイとそっくりだった。
もしそこに半分潰れてひしゃげた顔が覗き込んでいなければ、イヌが自分の尻尾を追いかけるのと同じで、暗闇に惑わされて自分の腕と勘違いしていたかもしれない。
「ドール。お前……」
追いかけてきたのか、と言い掛けてラナイは、追手聞こえる幾つかの足音に向かって「……たち?」と言い直した。
全部で三体。
近付いてきたドールたちはラナイを囲み、皆同じようにすがりつくような格好になって、沈黙したラナイを見上げていた。
そして、声がないまま口だけを僅かに動かし始める。
ぽつ、ぽつ、と降り始めの雨が大地を濡らすように、それぞれの口から漏れ聞こえたのは、
「ル」
「サ」
「マ」
「べ」
「ル」
「バ」。




