すずとれ 13
一旦荷物を取りに戻り、そしてスズは改めてここがどこなのかを考え始めた。
まず間違いなくいえるのは、ここがスズの行こうとしていた場所ではないということだ。
初めは蔓のせいで勘違いしたのかとも考えていたが、実際辺りを歩いてみて全く違う場所だということがわかった。
ひしめく蔓とそれらが絡まりあって幹となり、【グリンボウ】で石柱がそうだったように天井に向かって立っている。
しかし、そこに木造の建築物は見当たらず、転がっている大きな石や足下の邪魔になっている鍾乳石にまで蔓が絡んでいるところ、ここは元々何もない場所だったようだ。
それら蔓で出来た幹には幾つか穴が空いており、恐らく地底人が留まっていたのであろう爪痕を幾つも見つけた。
やはり、スズが求めていた【鍾乳石の叢】とは全く違う。
そこは、無数の鍾乳石が針山のように地面を覆う場所で、平らな場所はそれら鍾乳石群の細い隙間にしか無い。
そのため野獣が近寄らず、アンチが住み着くには都合の悪い場所だ。
【忘れられた水路】における数少ない安全地帯であり、そこにスズは拠点を構えていた。
それがどうしてこんなことになったのか。
少し前の自分を思い出すと、答えは簡単に導き出された。
単に道に迷ったのだ。
とはいえ、ここを歩いて長いスズが道を迷うことなどそうそうあることではない。
その原因は、と考えてスズはそれも仕方のないことかと軽く嘆息した。
原因は二つある。
まず一つに、突如蔓が活発に動き出したこと。
これでスズは焦ってしまった。
そしてもう一つが、ラナイの速度だ。
これは、元々の焦りを助長するような効果をもってスズを高揚させ、おかげでスズの内に刻まれた"タイミング"が狂ってしまった。
スズは、動き出した蔓から逃れるためにラナイと曲がった数を数えた。
それとズレた時間の秒数を。
そうして数字の足し引きを繰り返し、一度歩いて曲がらなかった道のタイミングを重ねて考えてみると、初めから三つ目の時点で道を曲がり間違えていたことがわかった。
「たしかにさ、ちょっと自信はなかったけど。でもまさか、こんな思いっきり間違えるなんて思ってなかったなぁ……」
不満げに独り言を言って、スズは足下の蔓を蹴飛ばした。
「それにしても、ラナイくんはどこ行ったんだろうか。荷物はビリーが持ってたとして、渡したのはラナイくんのはずだよ。
直接渡したんじゃなくても、あそこから投げ入れたのは確かなのに」
また独り言を言ってスズは壁の五メートルほどの高さにある横穴を見上げた。
「……あんな高いとこから落ちたのか」
吹っ飛んできた自分の姿を想像しながら、その軌跡を視線でなぞり、スズは地面を覆う蔓に向かって小さく「サンキュー」と呟いた。
それからまた横穴を見上げて、少しの間ラナイが来るのを待ってみたが、穴の向こうからは静かに風が抜けてくるだけで物音らしい物音は聞こえなかった。
「お別れかな……」
横穴に向かって呟き、そしてスズは背を向けて歩き出した――。
◯
ラナイは、もうあの場所には戻れないことを悟った。
なぜなら、逃げるのが名案だと思ったからだ。
とはいえ、真っ先にそうしようと思ってそうしたわけではない。
一旦は戦ってみたが、相手が頑丈過ぎたのだ。
いや、正確には頑丈かどうかということではないのかもしれない。
とにかく、それを何度殴ってもまるで意味がなかった。
唯一、変貌した右手で殴った時だけはおかしな鳴き声を上げたが、湯気を出して縮こまったそれは一瞬にして新たなヌメヌメに覆われて元に戻った。
何度繰り返しても同じ。
ラナイの拳がいかに大きくとも、巨大なその体においては大したダメージにはならなかったのだ。
せめて両腕がこんな風に"光って"くれれば、とラナイは走りながら思う。
遡ること数十分前。
それは、突如天井から降ってきた。
スズを横穴に上げて、彼女が滑ったのを覗こうとしたあたりのことだ。
水気の多いベタついた物音にラナイが振り返ると、その深緑色の塊は布切れを真ん中からつまみ上げたような格好で体を伸ばすところだった。
背の高さはラナイよりも頭一つ分低いくらいだった。
ラナイの記憶には無い生物。
スズに聞いたアンチとも姿が違っていたことから、野獣である可能性があった。
だが、それならランタンの光で何らかの挙動があるはずなのに、それは白光にも臆することはなく。
試しにラナイが声を掛けてみても、返事をするでもなく。
その割体中を覆う深緑色の謎の物質の隙間から向けられる視線のようなものは、ラナイにじっと向けられていた。
ならそれはスズも知らない新しいアンチだろうか。
少なくとも敵意か好意かどちらかの意志を持っているようには感じられた。
そんな態度に若干の鬱陶しさを感じたラナイだったが、見られている感覚だけだったため、無視してスズの消えた横穴に荷物を上げようとした。
しかしその時、それはラナイに向かって吐き出されたのだ。
べたつくあれの体表面と同じ深緑色の物体。
浴びれば一瞬にして体中が凍るような感覚に陥り、ラナイは自分の関節らしからぬ関節が軋むのを感じた。強烈な生臭さが周囲に満ちる。
持ち上げた荷物が地面に落ちた。
そして体の左半身を伸びたまま無防備になったラナイを、二度目の衝撃が襲った。
それは、目に見えないもの。
強烈な不可解な振動は、ウーリエのいたあの穴の底で戦った妖精の発するものと似ていた。
あの時はただ聴くだけだったが、受けてみれば痛いというものではなく、ラナイにとってはただただ苦痛だった。
体中を押しつぶさんとする窮屈さ。
このせいでラナイは"嘔吐"という感覚を思い出す羽目になった。
問題はそれだけでなく、不可解な振動が固まった関節に掛かる嫌な負荷となっていたことだ。
ただでさえ動きの悪くなった腕が、それでへし折られるような気配を感じたラナイは、自由の利く右半身で壁を蹴り、無理矢理その場を離れた。
片腕を高く上げたまま、片足は伸びたままの姿勢が続いていた。
力が入らないのでどうしようもなく、それもまた無理矢理右手を使って引き下ろそうとすると、その時初めてラナイは自分の手が"熱い"ということに気づいたのだ。
すると、固まっていた左腕はじわりと感覚を取り戻した。
よくはわからなかったが、とにかく熱い右手で触れれば凍った錯覚が消えるのだと理解し、ラナイは左半身を撫でてべたつくものを拭い、感覚を戻した。
そしてまた二度目のべたつく物体が吐き出され、今度ラナイはそれを躱した。
と同時、その深緑色の塊"ヌメヌメ"がランタンの光の外に後退しているのを見た。
それがどういう意味なのか。
一時ラナイは、やはり光が苦手なのかと判断したが、暗闇からまたしてもべたつくものを飛ばされ、その判断が正しいとは思えなくなった。
訂正するのは、それが野獣かアンチかということではなく、それに高い知能があるかどうかだ。
もしかすると、ヌメヌメはラナイが暗闇の中を覗くことができないのを知っているのかもしれない。
そのための後退だったとするなら、それはノットを相手にするのと同じくらいに厄介だ。
壁際に落ちてちょうど半分の大きさになったランタンの光の輪の外側をヌメヌメが蠢く、ズル、という音だけが聞こえていた。
恐らく徘徊していると思われる動き。
ラナイはそれと最大距離を取るために壁に沿って光の輪の縁をゆっくりと移動していた。
そうしてヌメヌメとラナイの距離が壁際で最大距離となった時だ。
ヌメヌメは再び光の中に体の半分だけを侵入させ、すると足元から吐き出すのと同じような色の液体が流れ出し、それは壁に沿って一直線にラナイの方へ向かっていた。
それが原因かはわからないが、するとヌメヌメの体が少し小さくなった。
明らかに故意と思われる行動に、一瞬状況を見守ろうとしたラナイだったが、液体の向うところにランタンがあることに気づき、またしても判断を変えた。
駆け寄り、そうしてラナイが鞄とランタンを拾い上げた瞬間。
ヌメヌメは巨大な虫の羽音のような鳴き声を上げた。
低く、耳を塞がれるような感覚は、暗闇にされるのと似ていたが、敵意を感じる分全く違う。
それが"怒り"なのだとラナイがすぐに理解できたのは、ヌメヌメが逆立っていたからだ。
そのおかげで、ヌメヌメに"中身"があることをラナイは知り、本来の叫びが本体を覆う深緑色の物体が遮っていることも知った。
ほんの一瞬だけラナイと目が合ったその中身には、二つの目と口があったのは確かだ。
だが、それはもう原型を留めておらず、何とわかるものではなかった。
とにかく、その怒りでラナイはヌメヌメの狙いが自分ではないことを悟った。
光を遠ざけようとするのが野獣、光をものともしないのがアンチ、ならばこの深緑色の謎の物体に包まれたわけのわからないものは、"光を欲するもの"だった。
なぜ欲するのかは、当然わからない。
だがどんな理由にせよ、それはランタンを奪われて怒っているようにラナイには見えていた。
するとその姿に、ふとスズのことが頭を過ぎった。
だから、ラナイは鞄にランタンを詰めて光を消し、穴の中へ放り込んだのだ。
追って自分も穴に入るつもりだったが、それはそれは上手くいかなかった。
その理由が、"光る右手"だ。
周囲が暗闇に包まれて、ラナイは初めて自分の右手が光っていることに気づいた。
光の強さはランタンほどではなく、ぼんやりと光るあのドールよりもハッキリとしている。
光の範囲は、右手を中心に一、二メートルほどと狭く、四足状態なら手足の先がはみ出てしまう。
どうしてそんなことが起きたのか。
少し考えてラナイは、その原因がコルトの火に触れたことだと察した。
それが正しいかどうかはわからないことだったが、少なくとも最近触った熱いものはそれしかなかったからきっとそうだろうと。
それはそれで、光源を手に入れるという嬉しい誤算だったわけだが。
そこにヌメヌメがいなければ、だ。
光を求めるヌメヌメは、おそらくそれがきっかけで消えたランタンの光から、標的をラナイに変えた。
見える範囲が圧倒的に縮まって、ヘドロヤロウの猛攻はほとんどが不意打ちであり、ラナイは躱すにも躱しきれず何度も体を拭った。
それからは防戦一方に耐えかねて攻め。
ヌメヌメにはそう簡単にダメージを与えられないということを知ったのだった。
そして今に至る。
ラナイが逃げるのは、ヌメヌメにまともなダメージを与えられないからでもあり、なにより光が標的になるならスズが襲われる可能性があると考えたからだ。
見知らぬ道を行くのはもう慣れた。
敵を引き離すにも、"見知らぬ"ということがうってつけのように思えたラナイは、いちいちヌメヌメのヌメヌメを待って、受けて拭って、少しずつスズの行った横穴から遠ざかっていた。
だからもう戻れない。
道を覚えていないというよりも、そこにいる深緑色のヌメヌメを倒す方法が思いつかなければ、意味がないから。
幾つも曲がり角や分かれ道を進んで、ついにラナイは足を止めた。
そうして一番最初に気にしたのは、途中で変なのが出なくて良かったということだ。
ラナイは周囲を見回し、右手を耳に近づけて拾った石を遠くへ放り投げた。
音の反響から、今入り込んだ場所はさほど広くないことがわかる。
「出口は、今来た方と……」
再び周囲を見回し、
「来た方だけでいいか」
独り言を呟き、背後に向きを変えて、ラナイは四足歩行に体系を変えた。
見つめる先は相変わらず静かな闇で満たされている。
その奥に、水気の多いあの奇妙な足音を探す。
ラナイが耳を澄まし初めて、十数秒後。それは少し先に聞こえた。
ズル、ズル、と引きずるような音。
見た目に素早さなど感じられなかったが、意外にも足は遅くない。
それが、ヌメヌメだ。
少しずつ距離が縮まっていくのを感じながら、ラナイは思いついた最終手段二つの内、どちらを先に試すべきかを考えていた。
「……触らぬ神に、かな」
ラナイが選ぶのは一つ目に浮かんだ手段。
それを実行するためには、まず逃走経路の確保が重要だ。
いくら天井が高いといっても、何が起こるのかは常にわからない。
またしても"崩壊"が起きれば、助けを期待できないこの状況で輪をかけて最悪の事態が待ち構えている。
とはいえ、上手くいけばその崩壊がヌメヌメ打倒の一手になることは間違いないはずで。
そんな思いから、ラナイは近付く足音から遠ざかるように今いる空間の一番奥へと進んだ。
そこまではラナイの足で六歩分程度の距離だった。
思ったよりもずっと空間は狭い。
「なんだ、結局行き止まりなのか……」
右手の明かりの中で姿を露わにした歪な壁面に、ラナイは背を向けて構える。
また、足音が近付く。
次の瞬間、波がぶつかり合うような、パチャ、という可愛らしい音が聞こえ、暗闇から突如として深緑色のヌメヌメの液が塊で飛んでくる。
ラナイの右手を狙ったと思われるそれは、四足状態の体の中心よりも右側にズレていて、ラナイは右手を引いてその一撃を躱した。
同時、引いた右手を地面に着こうとしたそこに、あの時ランタンへと伸ばしたヌメヌメの一部が来ており、避けようと思えばなんとか除けられたが、ラナイは敢えてそこに捕まってみることにした。
突発的な思いつきだ。
捕まるとどうなるのか知りたかったということでもあり、もしかするとその方が色々と都合が良いように、ラナイは感じていた。
触れた途端、ヌメヌメの一端はラナイの右手に絡みつき、光を覆い隠していく。
殴った時と同じく湯気を上げ、乾いて縮まるヌメヌメの一端。
ヌメヌメは悲鳴を上げた。
しかしそれでもラナイから離れる様子はなく、ヌメヌメの一端は、ドクドク、と脈打つように震えて、後から流れてくる新たなヌメヌメによって息を吹き返すことを繰り返していた。
「お前、何がしたいんだ?」
ラナイはいちいち苦しそうにしながらそんなことをするヌメヌメを見て、どうしてそこまでして光を求めるのかを考えていた。
必要とも思えない、まったく相性の悪いそれを、命懸けみたいにして欲しがるのは、きっと相当な理由があるのは確かだ。
光が無ければ出来ないことをしようとしているのか。
光があることで何か得することがあるのだろうか。
縮んでは膨らんでを繰り返すヌメヌメの一端を見つめて、ラナイは首を傾げるしかなかった。
「結局奪えないのか……」
ラナイは絡みつくヌメヌメから手を引き抜こうとした。が。
それはきつくラナイを捕らえて離さない。
「……もう、諦めろよ」
絡みつくヌメヌメの端を、ラナイは強く引き寄せた。
ヌメヌメの一端はピンと張り、怒り震えるヌメヌメの振動が伝わってくる。
その先には、重さが。
地中深くに根を張る草が、そこから離れまいとしているような重さだ。
だから、それは抵抗なのかもしれない。
ラナイはさらに力を込めた。
地面に付いた左手と両足を突っ張り、体を立ち上げるつもりで思い切り引っ張ると、ラナイが立ち上がるのと同時に、耐えきれなくなったヌメヌメの体が半ば吹っ飛んでくるようなかたちでラナイの元へとやって来る。
右手の光は覆われていて、辺りは元の通り暗い。
だが、その生臭さと息遣いでヌメヌメがすぐそばにいるのが強く感じられた。
相変わらず怒っている。
きっと捲れ上がっているだろうそこを、ラナイはじっと見つめ、顔を近づけた。
強い視線、耳の穴を劈くような悲鳴がラナイの体中を震わせていた。
降りかかるヌメヌメの飛沫で体が感覚を失っていく。
ラナイは大きく口を開けた。
同時に、大きく息を吸い。
そして、吐く――。




