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すずとれ 11

 それは、いったいどのくらいの速度だろうか。

 たぶんラナイの背に乗っていた時よりも遅い。

 

 だが、その振動は凄まじく。

 歩くだけなら問題にならないでこぼこが突如凶暴性をもってうつ伏せの腹を胸を乱暴に殴りつけてくる。

 

 そうして体に感じられる打撲箇所の数を数えながら、スズの頭を過るのはある"後悔"だった。

 余計なものを背負うべきじゃなかった、と。

 

 いつからそう思うようになったのか、それは本人にも特に自覚はない。

 何十年もひとりで暗い洞窟を歩いていたからかもしれないし、若い頃に酷い差別を受けたからかもしれなかった。


 だからいつしか彼女は、独りは持ち物が少なくて済むと思うようになっていた。

 だって、ただ一つ、"責任"というそれだけを背負っていれば、それ以外に何もいらない。

   

 醜い自分を知らずにいれる。

 酷い自分を知らずにいれる。

 愚かな自分を知らずにいれる。

 なにより、勇気を忘れずにいられた。


 それなのに、いつの間にか失いたくないものを手に入れてしまっていた。

 信じたせいで大切なものが失われていたことに今になって気付き、だからスズは後悔していたのだ。 


 ランタン、ジウ、二本の道具。

 余計なものを背負って、本来持つべきものの重さを忘れていた。


 高く盛り上がった地面の瘤に顔面を強打し、一瞬意識が飛びかける。

 衝撃で捻れた体は、仰向けに変わった。だが。

 どうせ目の利かない暗闇の中で、顔が空を向いていようと地を見ていようとあまり関係はない。

 それなのに、朦朧とする意識は濃淡のない暗闇を歪ませる。


 生じた吐き気が、ぐわんぐわんと揺れる頭のせいなのか、愚かな自分へ向けられたものなのかわからない。


 いったい、どれだけの時間を無駄にしてきたのだろう。

 いずれ失くなるものを手に入れるために、何年も何十年も懸けて。

 

 不意に投げ出され、ぼこぼことした地面に背中から着地して、スズはすぐに嘔吐した。


「ここ……どこ……」


 四つん這いのまま地面についた手の平に触れるはずのないものが触れていた。

 

「どうしてここにあの蔓が……」


 指先で地面を這う蔓と思しきそれを弄りながら、自分の指先が僅かに震えていることに気が付く。  

 スズは悪態をつき、震える指を拳の中に閉じ込めた。


「歳、取ったな……」


 自嘲して頬に力が入り、スズが笑みともつかない苦々しい表情を浮かべたその時。

 背後にごく僅かな、ドッ、と空気が押される感触がした。

 

 慌てて振り返るも、そこには押し迫ってくるような暗闇があるだけ。

 久しぶりの感覚にスズの鼓動が早くなる。


 何も持ってない、ここがどこだかわからない。

 そこにいるのが何かわからない。

 知っていることを思い出そうとして、もう随分野獣の顔を見ていないことを思い出した。


「そっか……俺……」


 呟き、スズが気づいたのは、"第二階層の野獣を一度も見たことがない"ということだ。

 やっぱり、記憶なんて無意味だ。

 苛立ちにも似た感情が、スズの薄い下唇に小さな裂け目をつけた。

 

 酸っぱいような痺れるような微かな血の味が舌先に触れる。

 スズはゆっくりと体を持ち上げ、どこにいるかもわからない何かに向き合った。


「まずいなぁ……」


 くすぐったいような笑みを浮かべ、スズは拳を硬く握り締めた。


「……怖いよ……」


 閉じ込めた指先の震えが、まるで伝染したかのように手首、肘、肩と震わせ、首を支える僧帽筋が苦しいくらいに硬くなる。

 寒いわけではないことは、本人が一番よくわかっていた。


 頭の中をぐるぐると回るのは、痛みの妄想数々。

 経験していないはずのありとあらゆる痛みが、恐怖と名を変えてスズから自由と思考を奪った。


 スズは、自ずと引き下がっていく。  

 恐怖から逃れるためでなく、恐怖に導かれて、知らない場所のどこかへと後ろ向きに逃げようとしていたのだ。

 一歩、二歩、三歩目。

 それが愚行だったと気づいた時、スズは地面に座り込んでいた。


「……っ!」


 息を呑み、その割落ち着いた様子で自分が尻もちをつく原因となったものを後頭部に感じる。

 触れるかどうかという鬱陶しい距離感で、さわさわとくすぐるように頭皮に触れるその感覚を知っていた。 

 正面に未知の何かがいる状況で、スズにとってはそれがほとんど唯一の救いだと思えた。

 

 スズは、緊張した面持ちで乾いた喉に口内に残るなけなしの唾を流し込み、上顎に舌を押し付け、そして鳴く。


――チッチックックッカッ


 反応を窺うのに掛けた時間は数秒。

 全身全霊の願いを込め、硬く目を閉じたスズの耳に響いたのは、カタカタ、と喧しく打ち鳴らされる"歯の音"だった。


 ダメだった。 

 

 背後で体をくすぐる"地底人"の触手の動きを感じながら、スズはそっと目を閉じた。

 その右手は、腰にぶら下げられた一つの袋の中へ、そして、一発の弾丸を人差し指と中指で挟み慎重に取り上げた。  

 

 触れるだけでチクチクと針で刺すような痛みを感じるそれは、ビリー。

 願いを込め、スズはそれを手の中に収めた。


 ビリー。


 呟きかけて、突如スズは心に熱いものが流れ込んでくるのを感じた。

 それが何かはわからない、"誰か"はわからなかった。

 だが少なくとも頭に浮かんだ誰かは力強い目でこちらを見ていて、笑っていた。


 スズは、その笑顔を焼き付けるようにさらに強く瞼に力を込めた。

 

 するとスズの耳元に鋭い針の感触が触れ、そしてぬるつくそれはゆっくりと耳の奥へと侵入してくる。

 嫌がり、避けたスズの頭部を、鋭い爪先で傷つけるのも構わずに押さえつけ、地底人はまた耳の中へ脳髄を吸い出すための"舌"を差し込んだ。


 スズは再び頭を引き離そうとするが、そうすれば爪が頬やこめかみに食い込んでチクリとスズを痛めつけた。


「やめて……っ」


 顔を捩り、爪で頬が裂ける。

 垂れた生暖かい血の熱が頬を伝い、そして首元を流れ落ちた。

 じわ、と服に染み込んだ血液の湿った感触。

 徐々に奥へと滑り込み、耳の奥に痛みを感じた、その時。


 ピクリと動きを止めた地底人は、スズの耳から一気に舌を引き抜いた。

 同時にスズは開放され、するとすぐそばでまた、ドッ、と何か空気の押されるのを感じた。

  

「…………」


 もう、スズは動いたらいいのか、このまま留まるべきなのかはわかっていなかったが、どちらにしても体を動かそうという気が起きなかった。

 座り込んだまま、スズは正面の暗闇を凝視する。


「……だれ……?」


 物音一つせず、微動だにしない空間にやっとスズは声を掛けた。

 刹那、スズの頭頂部を鋭い風が通り過ぎた。


 ほんの僅かな摩擦、それで自分の髪が"切られた"のを感じることができた。

 その風に乗って、あの香りが漂って鼻の奥をくすぐる。

 生臭い匂い。 


 何がいるのか、そんなことを考える必要はなかった。

 二撃目を交わすためスズは頭を低くし、すでにその場を這って移動している。

 するとまた、ドッ、と何かが地面に"落ちた"。


 それもまた自分のすぐそばでだ。


 反射的に視線を送った先で、スズはついに謎の物音の正体を知った。

 閉じられた鞄の隙間から漏れ出る白光。

 それが細い線を地面に描き、白い自分の手の甲を照らしていたのだ。


 這ったまま鞄に飛びつき、スズは鞄からランタンを取り出した。


 光は一瞬にして拡大し、スズの周囲五メートルを丸く照らし出す。

 足元には何本もの謎の蔓が敷かれていて、慌てて開けた鞄から飛び出した修理済みのカラクリ小箱やら不思議な装飾の置物が転がっている。


 そして、その大きな背負い鞄の両脇には愛用の武器が二つ。

 

 それらを取り上げるよりも先に、スズはこの荷物をここまで運んでくれた"彼"を光の中に探した。

 そう遠くにはいないはず。

 くるりと回した視線に、それはいた。


 汚れた無残な姿。

 まるで役に立ちそうもない砕けた防具、錆びた長剣。

 口から吐き出される蒸気に似たものは、灰色に見える。


「ノッ……!」


 一文字だけ悲鳴のように口にして、スズはすぐに声を収めた。

 両手で口を抑え、目を送らずに弄ってジウをそっと鞄から取り外す。


 まだあれは、こちらに気づいていない。

 だって、向こうを見ているから。


 無数のギノコに覆われた姿、垣間見えるノットの裂けた口の横顔から視線を逸らさずにジウを構え、スズは慎重に立ち上がった。

 少し苦しいくらいだった呼吸は、いつの間にか落ち着いていた。

 当然、さっきまでぼんやりと頭を濁していた後悔もだ。


 全てを忘れ、スズはノットの動向を注視する。


 どうしてあれは向こうを向いたまま動かないのか。

 どうしてラナイはここにいないのか。

 それなら、鞄はいったい誰がここに投げたのか。


 それも、一度ではなく"三度"。


 掠めた理想を、スズは「ありえない……」とすぐに自分を否定した。

 

「あれは、違う。人じゃない。人の形をしたわけのわからないものだ。生き物ですら無い、ただの木偶。だから、ありえない……」


 しかし、ノットは光の中に飛び込んできた地底人と戦っている。

 スズには目もくれず、暗闇に引き返す度に数を増やす地底人の猛攻に無表情のまま剣を振るい続けていた。


 ノットの薙ぎ払いに、地底人の胸が裂ける。

 ノットの切り上げに、地底人が飛び退く。

 ノットの右回転の横薙ぎに、地底人が二匹腕を脚を切り落とされた。


 ノットの強烈な突きに、地底人が串刺しにされる。

 ノットの背に、地底人の鋭い爪が食い込む。裂ける。

 ノットの肩甲が、地底人に引き剥がされる。

 ノットの背甲が、地底人に捻じ曲げられる。


 ノットの露出した部分に、地底人が取り付く。

 ノットが、肩に取り付いた地底人を剣で串刺しにする。

 ノットがぶん回し、背に張り付いた地底人を振り払う。背中が裂ける。

 ノットの振り向きざまの薙ぎが、背後から飛びかかる地底人の首をはねる――。

 


 改めて、ノットの強さを目の当たりにして、それでも尚スズに恐怖心が湧き上がることはなかった。

 不思議なくらい、頭の中は空っぽで何も考えていなかったのだ。

 

 指を掛けた引き金は、ジウはただの玩具のように感じられ、ほとんど身動ぎもせずに繰り広げられる戦闘を眺めているだけで。


「…………」


 これじゃあ、どっちが木偶だかわからない。


 どうしても惹かれる光景から目を背け、スズは与えられた二択のどちらを選択するか考える。

 二択とは、逃げるか、割って入るかだ。


 前者は当然のこととして、どうして後者のような意見が浮かぶのかはわからなかった。


 いつもなら隙ありと逃げるところ、それが上手く発想しきれないのは、恐らく先の理想のせいだろう。

 ノットが助けてくれたのかもしれない、と。

 

 そんなことが浮かぶ度、掻き消すように横切る「あり得ない」。

 最早ギノコの原木と化した動く木偶が、意思を持ってしかも自分のためになぜ。

 わけがわからない状況に、それでもスズは"手助けの必要性"を感じていた。


 目の前にいるのは、殺すべきではないと考える多数と殺すべきと考えている怪物。

 だが、何度か無意識に構えたジウ口は常に闇から飛び出してくる彼らの方に向けていた。


 同情か、恩義か。

 今、スズはノットを助ける方法を探していた。


「違う、違う……っ」


 窮地に血迷っている暇などない、とスズは振り切るように戦闘に背を向け鞄を担ぎ上げて、走った。

 

「チャンスだよ。今は絶好のっ」


 遠ざかり、地底人の鳴き喚く声と肉を断つ音、地面を踏みしめる音を聞きながら、スズは呟いた。

 その時だった。


 これまでに感じたことのない重厚な鳴き声が周囲に響き渡る。

 何を殴りつけているというのか、鼓膜を押し出されるような衝撃的な怪音。

 冷たい汗が、頭皮をじわりと濡らす。

 

 スズの足が止まった。

 怪音は余韻を収め、ドク、ドク、と徐々に自分自身への鼓動へと戻っていく。

  

 スズは、あることに気づき、呼ばれてそうするように振り返った。

 当然そこには暗闇がある。先で何が起きているのかは、聞こえる音からでしか判断できない。

 だが、違う。


 スズの足を止めたのは、"今、ノットは地底人を殺した"、という紛れもない事実を見たからだ。


「どう……して……」


 言葉を失い、スズは今しがた見てきたものを脳裏に再生させた。

 飛びかかる地底人、剣を振るうノット。

 あの深緑色の生物は、誰に飛びかかっていたのか。


 向けられた凶暴な大顎が正面に開いていたこと、ノットの脇をすり抜けようとして串刺しにされた。

 横薙ぎで、手足を切られ。

 

「全部じゃない、でも……一人は間違いなく……」


 吸い寄せられるように、再び戦闘の場所へ足が進んだ瞬間。

 光の中に地底人の筋肉質な脚が入ってくる。

 歯を鳴らす威嚇の音を鳴らし、次いで鋭い爪の両手が何かを探すように宙を弄りながら。

 

 即座にジウを構え、スズは発砲した。

 飛び出す青く輝く弾丸。

 見事胸に命中し、喉の奥から絞り出した苦しげな声を上げて地底人は地に伏せた。

   

 そして、再び背後に地面を踏みにじる音。

 風の押し出される僅かな風圧を感じ、スズは体を捻って横っ飛びに後方を確認。

 自分よりも少し高いところをすれ違っていく新たな地底人の腹に向けて二発目のジリーを放った。


 赤い輝きに包まれて突如失速した地底人はそのまま腹から地面に落ち、腹から背へとゆっくり焼けていく。 周囲には独特の生臭さが漂う。


 小さな舌打ち、同時にスズは左の片手でジウを振り下ろし、砲身の根本を折った。

 同じく、右手で取り出した二発分のビリーを同時にそこへ押し込む。

 その間三秒足らず。


 視線を下げていたスズの正面から、スズに覆いかぶさるようにして三体目の地底人が飛びかかる。


――パンッ


 即座に引き金を引いた時、ジウ口にはもう地底人の重さがのしかかっていた。

 歯を食いしばり、両手で強く握り締めたジウで地底人を振り払うスズ。

 

 焦るのは、背後にまた足音が聞こえたからだった。

   

「うぐっ!」


 だが、間に合わなかった。

 うつ伏せに押し付けられ、その爪はスズの肩口にしっかりとめり込んでいる。

 露出した首の傷跡を、覆いかぶさる地底人の触覚がくすぐり、スズの後頭部に円形の口から飛び出す鋭い針のような舌が触れる。


「イっ……!」


 頭部の重量が加わり、鋭い舌先が後頭部に突き刺さる。

 声を出すのも躊躇するほどの痛み。

 スズは、皮膚を突き抜けて固い感触が頭蓋骨に触れる、鈍い圧迫感を感じた。

  

 地面に反射する「チッチックックッカッ」は、今や恐怖に震える歯鳴りにも聞こえ、また恐怖を退けるための現実逃避にも思える。


 すがりつくのは藁ではなく、冷たい蔓。

 スズの頬を涙が伝う。


 それは、スズにとって初めての恐怖だった。

 今まで感じていた「ヤバい」などという生ぬるいものではなく、焦燥も絶望も越えた先にある純粋な拒絶だった。


 死にたくないのではなく、知りたくない。


 先に待つ暗く深い闇を阻む巨大な壁がそこにはあった。

 据えられた扉を開けるか開けぬかなど、本人の意志ではどうすることもできず、それはあくまで"第三者"によって選択される。

 だから全力で、スズはその扉を開けることを拒んだ。


 扉から漏れ出る薄暗い瘴気が前に立ち尽くすスズへと手を伸ばす。

 背後からは迫る闇がスズを押し出す。

 心が沈静していくのを感じたが、スズはそれをも拒む。


 しかし心を冷ます冷気に力は急速に奪われ、スズの表情から生気が失われていった。

 もう我慢の限界だ。

 

 一歩、スズが扉へと近付くと、誘うように扉が音もなく開き始め。

 その時。


――ォォォオオオオ……


 遠く吠えるような何者かの咆哮が轟いた。

 それは、扉の向こうから聞こえたようでもあるし、左右に永遠と続く巨大な壁の手前のどこかから聞こえたようでもあった。


 瞬間、生じた強烈な衝撃波によってスズは吹き飛ばされていた。


 心臓が止まるかと思うほどのショックに、スズの全感覚が取り戻される。

 と同時、現実に戻ったスズには何の負担も残されていなかった。


 あるのは肩の鈍い疼きと後頭部のチクチクとした鬱陶しい痛みだけだ。


 呆然としたままジウを拾って立ち上がり周囲を見回すと、

 スズの足元に頭部を失った地底人と、その先に長剣の突き刺さった頭部が転がっていた。

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