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すずとれ 8

 それから、二人が別のアーチの下を通過するまでアンチとは出くわさなかった。

 野獣の声は聞こえたものの、それはどこで鳴いているのかわからないほど遠くの出来事だった。

 

 少しだけそれを妙に思ったラナイが暗闇の向こう側に耳を澄ましていると、スズは「連れ立って歩くのは久しぶりだったんだ。悪いね」と呟いた。

 どういうことか。

 ラナイの質問の答えは、「ちょっと遠回りしたの」。

 

 独り歩きが当たり前になっていたスズは、自然と通り慣れた道を歩いていて、不慣れなラナイのことを計算に入れていなかったということだ。

 それ故の遠回り。

 

 納得できる答えにふとラナイは周囲を見回すが、やはりそこに映し出される風景は時々の石柱の肌と崩れた建物の残骸だけだった。どこもかしこも大して変わらない。

 一体何を基準にスズが道を選んでいるのか、ラナイには全くわからなかった。


 すると自然と湧き上がるのは、スズの頭にはどんな地図があるのかという、好奇心だ。

 

 スズは、【否読の書】を読めないと言っておきながら、目印もない暗闇の道を当たり前のように歩き、それだけでなくおまけに道を変えてまで行くことができる。

 どう考えても頭の中に地図があるんじゃないかと思える所業だが、彼女には一度付けた地図を止めたという経緯がある。


 その理由を、スズは地図を見ながら歩くと道に迷うからだと言った。


 スズは、地図を慢心、と判断したのだ。

 それはこの地下空間においてという話に違いないが。

 全くもってラナイとは正反対の性質だ。

  

 記憶に絵や文字列という確かな記録を残し、それを確認することで精密な情報を呼び覚ますラナイには、何も書かないということがあり得ない。 

 いや、それは書かないのではなく、そうしない方法が無い。


 それがわかって、ラナイは妙に窮屈な感じを覚えた。

 中心を始めとして外側に向う迷路、しかし、夢中になって目指した終点が俯瞰で見て出た口の反対側だったというように、そこにまるで何の意味も残さない。残っていない。


 何のために迷路を始めたのかどうやって終点へ向かったのか、何も。 

     

(嫌な……予感……)


 ラナイの頭を掠めたそれは、少なくとも恐怖や絶望ではなかった。


          ◯


 アーチを越えると、道は再びひと繋がりの壁に挟まれた窮屈なものに変わり、それまで柱や家として存在していた部分は、道を阻む邪魔なものとして存在するようになっていた。

 それは、【コルト】から【グリンボウ】に続く道を地下道とするなら、洞窟らしいといった具合に思える。

 

 目に付く人工物のことを考えれば、それは未整備の道か。

 ラナイはふと考えて、この道は"深部"へ続く道なのだと察した。

 

 だからきっと、スズが行こうとしている【ディーズベルグ】側の出口とは、最早水路ともいえない【忘れられた水路】の中心かその付近を通って行かなければならないということだ。

 

 そこにたどり着くまで数日。

 ラナイはここに至るまでの道程を思い返して、折り返し地点までは二日か三日掛かることを覚悟した。


 アレはまだ【コルト】にいるだろうか。

 アリアス・コムを振り切り【ディーズベルグ】へ向かったとして、計画通り彼らと鉢合わせすることは出来るのだろうか。

 疑問は幾つかあったが、少し先を歩く小さな人間に頼らざるを得ない状況でそれは愚問だと期待を捨てた。 

 

 そうしてわかりもしない未来への対抗策と、(そういえば……)イルルの容態やグリムがネズミ道を抜けられたかどうかをラナイが考えていると。


「そろそろだよ」


 不意にスズが言って、ラナイは一瞬見失っていた少女の姿を足元に探した。

 すると、代わりに見覚えのあるあの太い蔓が目に入る。

 いつから壁を張っていたのか、ラナイは気づいていなかった。

 一本ではなく何本も、それは地面以外暗闇のあらゆる方向から来ていて、どこかへ向かって"押し寄せている"。


「……これか?」

「何が?」

「いや、なんでもない」


 その蔓に嫌な予感の正体を否定し、ラナイは「なんか湿っぽくないか」と今感じたことを言った。


「そりゃね、すぐそこに湖があるから」

「どこに?」


 ほら、とスズが指差すのは前方。

 しかし、そこは暗いばかりで何も無い。


「……どこに?」

「だから、そこだって」


 言ってスズの指差す角度が僅かに下を向く。


「何も見えないぞ」

「一見、ね。でも……」


 と、スズは拾った小石をニ、三メートル先の白光の内側に放り投げた。すると。

 ポチャ、と音がして小石は足元に潜む闇の中に消えた。

 それでラナイは初めてランタンの明かりの中に黒があることの違和感に気付く。


 今みたいに何かしなければ、ラナイにとってそこは本来あるべき影のようにしか見えなかった。

 飛沫が立ったのかすらわからず、波の音も聞こえず、波紋の描かれない。

 天上や壁を這ってどこかへ向う蔓とは違い、迫ってきている様子をまるで感じさせない、ある環境の変化、色の違いというようにごく自然にそれはそこにある。


「触っても問題無いけど、少し先からいきなり深くなってるから気をつけて」


 ぼんやりと足元の暗闇を眺めるラナイを見上げてスズが言った。

 その時。


――……ッチャ


 どれくらい遠いところか、水が動く音がした。


「何だ?」


 ラナイが訊くと、スズは「わからない。普通の魚かもしれないし、そうじゃないかも」と興味なさそうに言い、湖の向こうを一瞥して歩き出した。


 二人は黒い湖をランタンの明かりの範囲よりも向こうに遠ざけ、壁に沿って先を進む。

 スズの言う通り時折湖で何かが動く音だけが聞こえそれと足音と、この湖畔は【グリンボウ】よりも静かな印象だ。

 

 石柱も鍾乳石も見かけなくなり道を阻むものは何もなく、足元はつるつるとした壁と同じ感触の地面が僅かなおうとつを持っておよそ平坦に広がっていて。

 

 それなら歩きやすいかというとそうではなかった。

 そこは、地面は湖側に向く割りと大きく傾いている。

 真っ直ぐ歩くのが苦というわけでもないが、間違いなく傾いていると感じられる程度の傾斜。

 油断すればこの滑らかな地面に足を取られて転んでしまうこともあるだろう。


 それで何が恐ろしいということでもないが、それは足を滑らせてただ立ち上がればいいだけの経験をした者の意見だ。

 そういうところ、ラナイは違っていた。


 一度目は巨大な黒竜、二度目は血の気の多い未知の人型、と滑って転んだ後に意外なものが待ち受けていた経験があることだけでなく、どちらにも攻撃されている。

 まだ起きていない"滑って転ぶ"という未来に、いい加減不安を感じていたのだ。


 ましてやすぐそこにあるのは、黒い湖。

 何がいるかもわからないそこに引きずり込まれるなんてことになれば、そろそろ命が危ない。と。

 その時、ラナイはふと自分を不思議に思った。


(おれは死にたくないのか?)


 思えばイグナスに炎を浴びせかけられた時にも、ノットに首を絞められた時にも感じていないことだった。

 本来ならとっくに感じてもいいことをどうして今まで感じなかったのだろうか。

 ラナイが腕を組みなんとなく考えるのは、"なぜ死なないと思っていたのか"。


 死の間際に死を感じないというのは、そういうことだと思ったからだ。

 ある意味慢心的で、だが、確かな自信があった。

 

 死ぬはずがない。


 ラナイが強くそう思い込めているのは、自分が未知の姿だったというところが大きい。

 見覚えがないどころか、誰も知らない姿。

 それは今のところドールというものに一番近いが、細かい部分では違っていて、かといってドールだって【アトニム】ではアンノウンでもなく未知の存在だ。


 だから死のイメージが浮かばなかった。


 それが自分自身のことであっても他人ごとのように感じられ、人形のようなこの体がもし死ぬのであればそれは"壊れるだけ"だと。


(…………)


 まるで、ノットがそうだったように。


「そういえば……」


 自らの考えを打ち消すように、ラナイは突然口を開いた。


「この蔓、ネズミ道のあの部屋にもあったけど、【グリンボウ】では見かけなかったな。なんでだ?」


 壁を這う数本の蔓を見ながらラナイが言う。


「何でって、たぶん天井の方に伸びてるんじゃない? じゃなきゃ、昔の人が邪魔だから伐採したとか。調べようと思ったこともないや……っていうか、あの部屋って何?」


 ラナイのニ、三歩先を歩きながら、スズは顔を半分だけ後方に向けて言った。

 湖畔を逸れ、道はまた洞窟型に変わっていた。


「たぶん、真ん中辺りか? 正確な場所はよくわからないけど、ノブ無しの部屋だったところだ。奥の方からこれよりもっと細いのが」


 ラナイは、記憶の中の蔓との違いを確かめるように壁を這うそれに触れた。

 それは、一般的な樹皮のようにザラザラとした感触で、少し湿っていて冷たい。


「奥? 奥ってどういうこと?」

「部屋の奥ってことだよ。壁に穴が空いてて、その先ってことだ。たぶん先はこっちに繋がってたんじゃないか」


 ラナイが言うと、スズは顔をもたげて「壁?」とその角度を小さくする。


「確かに、行き止まりの高いところにそういうのがあったのは知ってるけど……俺が見た時は穴なんて空いてなかったよ。ってことは……」


 はっとしてスズが足を止める。


「誰かが空けた……?」

「誰……って、もしかしてノットとか言わないよな」

「まさか、あれがそんなことするはずがない。

 何よりあの壁は、昔何度か壊そうとしたけどびくともしなかったの。それこそジウで撃ったこともあるし、ハンマー、爆薬。色々試したけどダメだった。

 だから多分、何か特別な古代の技術で作られてるんだって思ってた。もし開けられるとしたら……」

 

 と、スズがラナイを見上げる。


「"御業"くらいだよ」

「御業、っていうのは何だ?」

「何? 何……か」


 スズが目を泳がせる。


「よくわからないけど、それは感情だっていう学者もいるし、風のいたずらだっていう人もいる」

「だから、何なんだ?」

「だから、よくわからないんだってば。見聞録とか、パイロニアス伝書とかそういう記録にしか残っていないの。つまり今じゃそんなこと出来る人いないってことだよ。


 妖精が用いる不思議な術でね、時に火を、時に風を起こすの。

 それがパイロニアス伝書では、三神より授かる"御業"、と書かれていて、それは竜の息吹とは違うとも書いてある。ちなみに、見聞録では"呪術"だね」


「で、それなら固い壁も壊せるって?」

「たぶんね。実際どのくらいの威力か知らないから、そういう意味で……」


 不可能かもってことだよ。とスズが肩をすくめた。

 

「でも、イルルはぶっ壊したって言ってたぞ」

「ぶっ壊したって、壁を?」

「ああ。けど、内側のじゃなくて、部屋の外の壁をだ。グリムが毛虫人間……じゃなくて地底人か、それにあの部屋に連れ込まれて助けようとしたんだってさ」


 ラナイが言うと、「……え」とそこまで言ってスズは声を詰まらせた。

 何度も唾を飲み込み、そしてやっと声になったのは、「もしかして」。


「ほ、本物……?」

「本物も何も、最初からあいつは妖精だって言ってたよ。疑うつもりもないけど、おれが見たのとは見た目が違うからなぁ……」


 ラナイの声は、どうやらスズには届いていないようだった。

 無言のまま俯き、くるりと向きを変えてスズは歩き出す。


「どうかしたのか?」


 普段と変わった様子のない背中にラナイは声を掛けたが、返ってきたのは「別に」とやはり何気ない一言だけだった。


 それから無言に戻った二人。

 進む道は急な下向きの傾斜に変わる。

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