すずとれ 6
頭と体を覆われ、視界と体の自由を奪われ。
乱暴に地面を引きずられていく案外つるつるとした感覚だけが今、ラナイにとって世界にあるものだった。
もしそこで目が利けば、また別の感想が用意されただろう。
しかし、何も見えない暗闇でラナイは今の状況に既視感を覚えていた。
(そういえば、少し前にもこんなことがあったな……)
今回でいえば、それは目覚めてすぐの出来事だ。
あの木のそばを離れ、歩き始めて数分後、崖から落ちてその後。
自業自得で山の斜面を滑り落ちていったその感覚に似ていた。
(なら……)
と耳を澄ませてみるが、ここは外とは違う。
暗闇とワシヅカミに頭を覆われ蠢く何か湿った音は聞こえるものの、期待した声は聞こえなかった。
そしてふと未来を想像し、(……まさかね)と頭を振ろうとするラナイ。
もし、この先に待ち受けるものが既視感に乗じて同じようなことならば、そこには巨大な竜がいるはずだった。
だが、イグナスは山にいる。間違っても地の底に眠る地下洞窟なんかにはいるはずがない。
正気を保つためか二度目に頭を振ろうとするラナイの脳裏に、小さな疑問が浮かんだ。
(手が、引きずるか……?)
一度は"手"として認識するのをやめたワシヅカミだが、形は手形に他ならない。
つまり、見当たらなかったのは頭と胴体と脚、腕だ。
八方に伸びる指のような部分がそのまま腕の役割をしていて、それらを繋ぐ中心部分を体としても、それでも"引きずる"のには足りないものがあった。
脚だ。
運ぶために必要なそれが、ワシヅカミには無い。
だったら、一体自分はどうやって引きずられているのだろうか。
答えは、ラナイが"足"から引きずられていることにあった。
頭と体をワシヅカミにされ、いまいち鈍い感覚の中でそこに違和感を捉えるのに時間が掛かったが、ラナイの左足には確かに何かが"絡まっていた"。
しかし、それがわかったからといってラナイには何もできない。
成されるがまま地面を引きずられ、そして。
突如ラナイは宙に放り投げられた。
すぐに体は地面に叩きつけられたが、体に纏わり付くワシヅカミがクッションになって傷みが感じられず、どれほどの高さまで放り投げられたのかはわからない。
とにかく、ラナイは地面に仰向けに転がっていて、足首に感じていた拘束感は消えていた。
復活したのはそれだけでなく、右腕と片耳の感覚もだ。
それをきっかけに、ラナイは空いた腕で頭に張り付くワシヅカミを引き剥がそうと試みたが、思いの外"吸着力"が強く上手くいかない。
仕方なしと、体を捩って無理矢理立ち上がろうとしたその時。
「……ムグっ!」
何か鋭いものがラナイの腹部に突き刺さった。
突然の感覚に一瞬混乱したラナイだが、すぐにそれが激痛だと知り、藻掻く。
するとすぐ、ミチ、ミチ、と引き剥がされてワシヅカミが体から離れていくのを感じた。
それで一息。
一瞬感じた激痛を忘れかけたラナイの頭部に、二度目の激痛が過る。
わけもわからないまま、とにかく激痛を遠ざけようとまたしても藻掻くラナイ。
空いた両腕で咄嗟に頭を守ろうとしたその指先に触れたのは、ワシヅカミのボコボコとした感触と鋭い何か"刃物"の感触。
指の腹で撫でて、チクリと傷みを感じた瞬間、ワシヅカミが頭部から引き剥がされどこかへと放り捨てられた、ボトッ、という音がラナイの耳の穴のすぐそばで微かに聞こえた。
(助けてくれた……)
そんな甘い考えのその脇を、あの足音が過る。
次の瞬間、ラナイの脳裏を横切るのは、(んなわけないか)。
恐らく、といわず間違いなく三撃目が自分に振り下ろされることを察したラナイは、どこから来るのかもわからない攻撃を避けるために体を捻って地面を転がった。しかし。
次に聞こえた、耳元に踏みつけられた不気味な密度の足音だった。
そしてすぐ。そばにいる何者かの身動ぎが聞こえて、ラナイは首に強い圧迫感、もといその何者かの手に首を掴まれて無理矢理上半身を引き起こされた。
それは、ラナイの背後にいる。
ゆっくりと妙に落ち着き払った深い呼吸がラナイの耳の穴に触れた。
何を感じようとしているのか、ラナイの背中や後頭部、耳の穴の直ぐ脇や首元など撫でるように何者かの息は移動し、そして。
ラナイは再び地面に押し倒された。
覆いかぶさって、今度はラナイの体前面のあちこちに顔か手の平かが擦り付けられる。
物言わぬ人形と変わらない扱いを受け、それでもラナイがされるまま身動ぎしなかったのは、そこに殺意ともいえぬ脅威を感じていたからだ。
その緊迫感は、強いていうならば猛獣に扱われるのと似ていた。
少なくとも襲われている状況だが、それがあくまで"こちら側"の一方的な感覚で。本人には何かしら意図があってそうするのだろうが、そういうことが全く伝わってこない。
誰しもがラナイのように感じるのかはわからない。
ラナイは、自分を弄る何者かにそんな"探しもの"のような気配を感じていた。
いきなり攻撃してきたところ、この耳を塞ぐ暗闇にも何かしら感覚が機能しているはずなのに、今さら手探りで何を探しているというのか。
もしもそれが単純な猛獣ならば、捕らえた得物が食えるかどうかその程度の選別だろう。
だが、なんにせよ。
「お前の欲しいものは、たぶん見つからないと思うぞ」
弄る感覚が腹の辺りを彷徨いているところで、ラナイは"それ"に話し掛けた。
しかし、それはラナイの声に何の反応も示さず、挙句腹から胸、そして再び頭部を弄り始める。
暗闇で相手の正体もわからず、されるがままにしていると、いつしかラナイはそこにいる何者かがじゃれてくるイヌかネコのようにも感じられ。
いい加減体を動かそうと身動ぎをしたその時だった。
先に感じたあの鋭い何かの感覚が再び腹部に突き刺さり、ねじ込まれる。
ワシヅカミというクッションを無くして打ち込まれた一撃は、"越し"に受けた時よりも早くラナイに激痛をもたらし、ラナイはショックで喉の奥から声にならない声を上げた。
それでやっと目が覚めたのだ。
ずっと暗いばかりで何も見えず、感覚だけが便りで単純な世界だが、ここは安全な場所じゃない。
今自分を弄っているのは、暗闇に潜むアンノウンであり、それにどんな意思があろうとも自分を傷つけようとしていることに違いはないのだと。
と同時。
衝撃でラナイの記憶の本棚から落ちた銅表紙のページが捲れ、ふと落とした視線の先で開かれたページに、『得物』の二文字がやけにハッキリと見えていた。
記憶が何を言いたがっているのか、持ち主であるラナイにそれがわからないはずがない。
歯を食いしばり、頭に浮かぶ痛みを堪えながら、ラナイは腹にねじ込まれようとするそれを握り締めた。
すると、それが邪魔だと言わんばかりに何者かの手はラナイの払い除けようとする。
生まれたのは激痛という背景に比べてあまりにも些細な攻防だ。
だが、二人の口から漏れる重い吐息には強く力が込められて、その他愛もない戦いが如何に重要かを示している。
それが一分か二分か。
しばし続いた攻防の勝者は、ラナイだった。
否、正確には闇に潜む何者かがラナイの手を振りほどくことを諦め、握り締めた拳でラナイの体を強く叩き始めたのだ。
それは、通常の人、もとい肉のある正確に痛みを感じる生物だったのなら、意味のある行為だったのかもしれない。
しかし、ラナイにとってその攻撃は踏まれる床の痛みのそれと何ら変わりなく。
奪い取った刃物であるそれを右手に、今度はラナイが自分を殴りつける何者かの拳を空いた左手で握り締めた。
その後は簡単だ。
ラナイは掴んだその拳を捻り上げ、右手に得物を握り締めたまま思い切りそこにいる「このやろう」を思い切りぶっ飛ばした。
殴ってみればまるで手応えがなく、中身のない空き箱を放り投げるのと同じような感覚をラナイの拳の先に残し、何者かは暗闇の中へと消えて行った。
音は聞こえない。
だからどこまで遠くへ吹っ飛んだのかもわからなかったが、その隙にラナイは立ち上がり、手に持った何者かの得物を確かめようと右手を顔に近づけた。
指で撫で、それが大きく湾曲した厚い刃であることに気付くラナイ。
その三日月状の刃に一直線の太い柄が付いていること、その長さが手の平を少しはみ出す程度の物だと知って、思い浮かんだ武器は一つ。
「……鎌か」
だが、草を刈るためのものではない。
だとすれば刃が大きすぎるし、柄の長さとの比率が逆だった。
宛らブーメランの変形とも捉えられるその形が何を意味するのか。
その答えを理解しかけた瞬間。
ラナイの右手は闇の向こう側へと引っ張られる。
微かに聞こえた、チャラチャラ、と金属の擦れる音。
「なんだ、これ」
ラナイが掴んだそれは、鎌の柄の先でピンと張った鎖状の物だった。
少し力を加えれば、以上の力で引き換えされる。
「なるほど……」
これは、鎖鎌か。
鎖をしっかりと左手で握り締め、ラナイはそれに強く引き返した。
すると、その先にいる何者かの重さを感じる。
たとえ周囲が何も見えない暗闇でも、鎖の先にいる者の息遣いまでも感じることができた。
だから、それが使い手なのだと悟った。
恐らくと鎖の先を見つめるラナイの表情に厳しさが滲む。
頭の奥で(油断するな)とそんな一言が浮かび、目が覚めてからこれまでしたことのない息遣いをして。
ラナイは少しずつ、"戦い方"を思い出していた。
腕の掴み合いに続き、鎖一本を引き合う拮抗状態。
感じるに、敵との力はおよそ互角だろうか。
体重は空き箱、力は怪力。
あまりにも矛盾したその関係性が、握り締めた鎖鎌と相まってラナイの記憶の本に敵の正体が書き出される。
「ノット……。こいつが、たぶん」
なぜ武器を扱うのか、なぜ体を弄ったのか。
疑問は幾つかあったが、その答えを探すのは愚問とラナイは結論づけた。
そうしてさらにいくつかの愚問を捨て、ラナイが考えるのは敵を圧倒する方法だけになる。
いわずもがな周囲は耳を塞ぐほどの重い暗闇。
目は見えず、耳は聴こえず、鼻も上手くは機能しない。
一本の鎖伝いに感じられる僅かな敵の身動ぎだけが、ラナイに得られる情報だ。
対して敵は。
と考えたところでラナイは前提を否定した。
暗闇で自分の姿が見えていたとは限らない、という風にだ。
その理由もまた、手元でピンと張った鎖一本に込められていた。
ラナイは一度だけ、強く鎖を引く。
反応してノットが鎖を引き返した次の瞬間。
ラナイは前方に走り出す。
そして数歩後、鎌をも後方に放り投げた。
そうして唯一の繋がりを捨てたことで起きるのは、ただ見失うということだけだ。
陸を離れていずれ船がそうなるように、ラナイは再び周囲に何も無い黒だけの空間を一直線に走った。
すると。
鎖の縮む僅かな金属音と何かが地面を叩く音が、ラナイの直ぐ脇を通り抜けていく。
(来た……)
それこそが、ラナイの待っていた"敵を圧倒する方法"だった。
一寸先の暗闇、鎖無しには敵の位置を特定できないのは、なにもラナイだけじゃない。
突如標的を見失い、その先で待ち構える者はどうするだろうか。
それが武器を構えている者であるならば、優先的に取る行動は一つ。
その"武器を回収する瞬間"をラナイは狙っていた。
足音は届かない、しかしラナイには直ぐ側を鎖が走っていく音が微かに聞こえており、その先に誰かが待っていることを知っている。
立場は逆転していた。
暗闇から奇襲を仕掛けたノットが、今ラナイの姿を掴めず、武器を回収する以外することがないという手詰まりを起こしていたのだ。
理解していて、ラナイは次に生じる異変を待っていた。
音が消える。その瞬間をだ。
それは、敵がすぐそばにいることを示していた。
この異様な暗闇で宙に浮いた武器を受け取るのは、慣れがあってもおよそ不可能。
その上で、遠投武器はどうしても動きが直線的になる。
それを補うためのブーメラン鎌だとしても、回収の時には間違いなくそうならざるを得ない。
それが確実に受け止められるのは、"音の聞こえる範囲"にまで近付いた時だ、とラナイは考えていた。
だから、音の消えた辺りに向かって、ラナイは必要以上に長い腕を思い切り振り回した。
「よしっ」
するとどこともなく振り回したラナイの前腕付近に何かが触れ。
それを一気に抱き込み、ラナイは渾身の力を込めて地面に叩きつけようとした、だが。
腕に触れている何かは異常なまでの踏ん張りをみせ、ラナイの全力を受けてピクリともしない。
「急にこんな……重くっ」
押し倒そうとさらに力を込めるラナイ。
――シャラララ
その周囲に場違いに小気味良いスズを鳴らすような音が響く。そして。
「ぐえ……っ!」
喉に歪な感触。
そしてそれは急速に絡みつき、ラナイの喉を締め上げた。
何が起きたのか理解できないまま、ラナイは首に巻きついたそれを引き剥がそうとするが、しっかりと巻き付いてそこには指一本すら通すことができない。
そうして掻きむしるように両手の指全部で首元を引っ掻くようになると、何度も触れてやっと、ラナイはそれが鎖であることを理解した。
(いつの間に、くそっ)
前腕に触れた感触を思い出しながら、どうしてノットが背後に回っているのかを考えるが、いくら器用に武器を扱ったとしても、前方にいる者が後方から首を締めることはできない、と当たり前のことだけが頭を巡る。
音は消えた、敵は自分の位置を把握できていなかった。
それなのにどうやって一瞬で背後に回ったというのか。
息が止まり、後方から引き倒そうと鎖に掛かる力に耐えながら、ラナイは今しがたの行動のミスを考えていた。
その最中、苦し紛れに前方へ伸ばしたラナイの指先に触れたのは、"勘違い"だ。
いつまでもそこにあってピクリともせず縦長のものは、湿り気を帯びいて、そして冷たかった。
それがノットの体じゃないとは言い切れない、だが、指先に触れる情報でラナイが思い浮かべたものについては、間違いなくそうだといえる。
それは、鍾乳石だ。
スズの【グリンボウ】における拠点がそうであり、またそこら中に野花のようにそれは生えていた。
いたずらに触ってみたその感触こそが、今苦しむラナイの指先に触れた"ノットだと思っていた者"だ。
どうしてそれがここに、などと考える必要な無い。
ラナイは、結局油断していた、いや、結局のところ経験値不足が招いた馬鹿馬鹿しい勘違いに、(そんなこともあるのか……)と後悔じみた理解を示し、再び地面に仰向けに倒された。
仰向けのラナイの腹の上にノットの足が乗る。
薪を束ねるのと同じく、ラナイの首を限界異常にまで締めようとVの時に引き上げられる鎖。
力んで、チリチリ、と鳴る鎖の音が、気絶へのカウントダウンかもしくは"お迎え"のベルのようにラナイの耳の穴に聞こえ始めたその時。
霞む視界に一筋の白い光が横切る。
それは暗闇を引き裂くナイフのようであり、ラナイには見覚えのあるものだった。
白光の一筋は、一度ラナイの上空を通り過ぎ、そしてすぐに戻ってくる。
次の瞬間、ラナイの耳の穴に飛び込んできたのは、
――ヒューン……バシュ




