ぐりむとれ 5
宿を出てすぐ、「間違いないみたいね」とグリムは言った。
というのも、宿の主が一ヶ月ほど前の夜に振り子時計をぶら下げた馬車が街道を駆けていくのを見たというからだ。
時期と時間的に考えて、恐らくその馬車こそがアレとイーリークラップを乗せていたものに違いない。
その情報は、曇り空の下、僅かに湿気を帯びた空気が醸し出すどこか重苦しい空気に覆われ、万全ではない光の加減で妙に現実味を帯びた街並みの疲れた雰囲気と、三日間の旅路の疲れも忘れさせた。
街道を行く旅に必要な買い物は、イルルの無駄遣いによって十二分に済んでいた。
必要以上に重たくなった荷物はラナイの体に括り付けられたが、その中身をグリムは確認しなかった。
それは中身を確認するのが意味のないことだと思っていたからだし、今さらそれらを店に返す交渉が面倒なことだったからだ。
なにせ、それでも"カネは十分にある"。
有り余るカネは【アトニム】一周を旅して十分なほどで、それにこの旅が長くは続かないことを知っていたからこそ、グリムはイルルの無駄遣いも大した痛手ではないと判断していた。
「あのね、イルル。使うなとは言わないわ。だけど、どうせ使うなら硬貨じゃなくて鉱石の方でやりなさいよ。あんた換金できないでしょ?」
「……だって、そっちの方が簡単だし。それに、店の人だって喜ぶんだよ? だったら、善意として硬貨で支払いするべきだと思わない?」
「思わないわよ。【ビッツ】の人たちなら、鉱石じゃなくてもコンセキだって十分に使い道あるじゃない」
そう言ってグリムが街を見回す。
行く人々の大概が獣の頭をしていて、その誰もが鎧と武器を携えている。
「でもさ、どうせ【ディーズベルグ】も行くんでしょ? だったら硬貨よりもコンセキ取っておいた方が役に立つじゃん。あそこの奴らはムキムキだって、ダニエラが言ってたし」
「ダニエラって誰よ……」
言ってグリムは小さく息を漏らし、
「だとしても、よ。これから買い物する時は、鉱石かコンセキでしてちょうだい。向こうに行けば絶対に硬貨の方が必要になるんだから、釣り銭を用意出来ない街で使ったら損しかしないわよ」
「……ケチクソ」
「うるさい」
いつもと変わらないグリムとイルルの口喧嘩。
それを傍で聞いていたラナイが、グリムの肩を叩く。
「何?」
とラナイを見上げるグリム。
その顔に(おれたちが行くのは、【コルト】じゃないのか?)とラナイが口の動きと身振りで心の声を伝えようとするが、案の定伝わらない。
またそれか、と言わんばかりに顔をしかめ、グリムは「やっぱり不便ね」と言った。
それを(当たり前だ)と首を縦に振るラナイ。
「……一応聞くけどさ、それっていつになったら話せるようになるの?」
ラナイは肩をすくめる。
すると「そりゃそうよね」とグリムも肩をすくめ、その時だった。
「あっ。あれ……」
とイルルが視線の先にあるアーチを指差す。
二人がその方へ目を向けると、アーチの根本に見覚えのある妖獣人の姿が。
「ルールーウィップ?」
彼女は昨日と同じ格好、同じくピンと伸びた姿勢でそこに佇んでいた。
昨日と違うものがあるとすれば、それは足下に置かれた"まさに"といった様子の荷物だ。
「おはよう。もしかして、あなたもどこかに出掛けるの?」
言いながらグリムは、足下の荷物に視線を落とす。
「え、ええまあ。そうなんですけど……その、お願いがあるんです」
「お願い?」
聞き返したグリムの声に深く頷くルールーウィップ。
「私を、【マッキンダム】まで連れて行ってもらえませんか?
兄にもう一度、会いたいんです。
その、報酬は用意できませんが……でもっ!
代わりに道中お手伝いできることがあればなんでもします。迷惑はかけませんし、目が視えなくても自分のことは自分でできます。例の人探しというのも手伝います!
だから、どうか……っ」
懇願するように言って、ルールーウィップは頭を深々と下げた。
「……でも、あなたここで仕事があるんじゃないの? ご両親から引き継いだ大事な仕事が」
「あの子たちは、知り合いの同業者に預けました。歳も歳ですから。それに、私の跡を継ぐ人はもういません。いつかはやらなければならないことだったんです……」
そう言うルールーウィップからは、願いというよりもここよりも先へと馳せる想いの方が濃く窺える。
すると。
「そ。ならいいわ。一緒に行きましょう、【マッキンダム】へ」
「え、え、え……っ! い、いいんですか!?」
「いいわよ、どうせついでだし」
さあ行くわよ。
そう続けてグリムは一足先にアーチをくぐり抜けて行く。
イルルがそれに続き、そして少し慌ててルールーウィップが。
その最後尾、グリムの発言が気になっていたラナイは、いつものように身振りで疑問を伝えようとも考えていたが、どうせ伝わらないだろうと思って何もせずにいた。
一体いつ【マッキンダム】が"ついで"になったのか。
少し前にイルルと交わしていた会話に感じた疑問と同じだった。
自分が知らないところで、二人は何かしようとしているのは明らかで、もしかするとその理由は口が利けても教えてくれないのではないか、とそんな卑屈な発想までがラナイの頭に浮かんでいた。
「ほら行くわよ」
グリムがそう声を掛けるまで、結局ラナイはその場に呆然と立ち尽くしていた――。
◯
一行が【ビッツ】を出て、それからなんということなく夜を迎えた。
何気なく迎えた夜を越えるのは、それに何の変化もなく。
次の日に強めの雨が降っていて、起きた問題は、グリムの愛読書が濡れて湿ってしまったことと、イルルの栗色の髪がくるくるボサボサになって少し機嫌が悪かったことくらいだった。
機嫌の悪いイルルは、独り言が多くなる。
とはいえそれはすぐそばにいる者にも届かないほど小さな声で、それが耳に触れるとグリムはイルルから所有の杖を奪い取った。
それが不満でさらにイルルのブツブツが増えたが、グリムは気にしなかった。
日が落ちて、雨は小雨と変わったが止むことはなく、どこからか雷音が轟くように鳴った。
それが、彼らを街道から大きく外れさせ、一行はやむなくと輪の内側にある木々の五、六本が集まって出来た小さな藪に野営の準備をすることにした。
おかげで宙に舞って四方八方から体を濡らす小雨を避けることはできたが、一日中降っている雨は藪の底にある地面をじっとりと湿らせていて、周囲に立ち込める草木の渋く青臭い香りが余計に疲労感を増大させていた。
テントの中で、グリムは濡れた衣服が気になって横になれず。
イルルはその隣で仰向けに寝そべってはいるものの、ひどい湿気によっていつまでも落ち着かない髪型に、いつまでも落ち着かず。
一方テントに入れないラナイはそばの木にもたれて、時々木の葉伝いに垂れてくる水滴を集めて体中の石の隙間を流して遊んでいて。
その隣で別の木のそばに腰を下ろすルールーウィップは、「こんなの初めてです」と濡れた地面のあちこちを撫でて、熱いため息を漏らしていた。
少しして、テントの中の明かりが消え、イルルが煩わしそうに唸る声も止んだ頃。
「ラナイさんは眠らないんですか?」
と、不意にルールーウィップがラナイに声を掛ける。
ラナイは、返事代わりに首を縦に振ったが、すぐにルールーウィップの目が視えないことを思い出し、自分の膝を二回叩いた。
「眠らない? そういうこと?」
ラナイは膝を二回叩く。
「眠れない……ですね」
一回。
「もしかして、昨晩も眠っていなかった?」
ラナイが膝をニ回叩く。
するとルールーウィップは「なるほど」と頷いた。
「……私は、眠れませんでした。昨日とその前の日からです。
皆さんと出会って、久しぶりに家族の話をして……っていってもグリムさんが聞きたかったのはヒイラギのことだったんですけど」
そう言って一人、クスクスを肩を震わせるルールーウィップ。
「そうしたら、なんだか急に"やらなきゃ"って感じがして……。
だって私、知らないんです。私がいなかった頃、兄と両親がどういう風に生活していたのか、どんな風に両親が兄と接していたのか。
だから、ですかね。
時間を取り戻すっていうか、辻褄を合わせるっていうか。
兄と私だけの時間も、私の人生には必要なんじゃないかって、なんとなくそんな風に思うんです。でも……」
それだけじゃない。
どこか儚げにそう言って、ルールーウィップはラナイの方に顔を向けた。
視線に気付いてラナイがルールーウィップのその空を映したような爽快な薄水色の瞳に目を合わせると、「気のせいだとは思えません」とそう言ってそっと目を伏せた。
「私が今までに嗅いだ香りの記憶……少なくともそれは私の世界です。色も形もない、平面ばかりの世界に立体感を与えてくれるのはそれしかない。
だから、そうですね。
言ってみれば、丸を四角と間違うはずがないのと同じです。
あなたから感じた匂いは、間違いなくヒイラギの香りなんです。
体臭が全く同じなんてあり得ると思いますか?」
ルールーウィップの質問にラナイは少し考えて、膝は叩かずに静かに首を横に振った。
「敢えて訊きます……」
――あなたは、ヒイラギですか?
違う、とラナイには即答することができなかった。
それは、こんな姿ではなかった、というそんな漠然とした記憶があったからで、その上以前の姿はわからないからだ。
しかし、ラナイ自身に自分がヒイラギという青年だったらしい記憶もなく、だからルールーウィップの質問に頷くこともできずにいた。すると。
「……ごめんなさい」
不意にルールーウィップは謝罪の言葉を述べた。
わけがわからずに首を捻るラナイ。
そこから視線を外し、ルールーウィップは天を仰いで「カマをかけました」と自嘲じみた笑い方をした。
「本当は、違うんです。私が自分の嗅覚と記憶に自信があるのは本当ですけど……あなたからヒイラギと全く同じ匂いを感じるっていうのは、少し違います。
私は、勘違いしていたんです。
あの時、あなたから感じたのは確かにヒイラギの匂いだった。でも、それだけじゃなかったんです。
あなたから感じる匂いには、ヒイラギの香りに加えて何か別の香りが含まれています。 それが何かは私にもわかりませんが、つまりそれは、あなたがヒイラギと似た何かである可能性を秘めているということだと思うんです」
ルールーウィップの言う"別の香り"に、ラナイは覚えがある。
それを確かめるため、ラナイはそっと喉奥から息を漏らした。
するとルールーウィップの鼻が鳴った。だが。
その視線はラナイが期待したのとは全く違う方向へと向けられていた。
「何か、おかしな匂いがします。嗅いだことのない香り……」
(野獣か何かか?)
様子を見に行こうとラナイが立ち上がると、「待って」とルールーウィップがそれを止めた。
「大丈夫です。おかしな匂いですが、野獣のものではありません。この香りは……恐らく植物のものでしょう。
ですが、現段階の私の知識では何と判別することができません。
だから、一応"アンノウン"として認識しましょう。
相手が植物の場合、野獣のようにあからさまじゃありませんから、少し距離を置くくらいでちょうどいいはずです。
毒を出すものだったりした場合大変なことになりますから……」
なるほど、とひとり頷いてラナイが元の位置に戻ると、「少し、眠ってもいいですか?」とルールーウィップは細く息を漏らした。
ラナイは膝を一回叩く。
それから「ありがとうございます」と一言だけ呟いて、ルールーウィップは寝息を立て始めた。
すると途端に夜が顔を出し、獣避けに点けっぱなしにされている大きなランタンの照らし出すものだけが、そこで独り起きているラナイにとっての世界だった。
テントの端、先の尖った草、その隙間から覗く細い木の根、眠るオオカミの横顔と橙色の明かりに黒く染まって見える光沢のある鎧、歪な原石の肌、そしてその隙間で輝くルビーの鈍い赤色。
それらを残してあらゆるも全てが輪郭を失っている暗闇の向こう側で、サラサラと小雨がぶつかり合う遠い滝の音のようなものが響いていた。
目が視えなくなったわけでなくとも、そこでは音と匂いだけが世界の大半だった。
そうして少し敏感になっている感覚で、ラナイは改めてルールーウィップの言っていた"おかしな匂い"を感じようと鼻で息を吸ってみる。
しかし、感じられるのは濡れた草と土の匂いばかりで、ルールーウィップの言うような違和感はしなかった。
つまりそれは、ルールーウィップの鼻が通常よりも余計に利くからであり、ならばそのおかしな匂いの正体も相当遠くにいるということ。
そう考えたラナイはもう一度周囲の闇を見回して、そっと目を閉じた。
◯
翌朝。
いつの間にか眠っていたラナイを目覚めさせたのは、ルールーウィップだった。
「ラナイさんっ……」
と、その声には明らかな焦燥が含まれており、体を揺さぶる力も無理矢理といった加減だ。
どうしたのか、という代わりにラナイが自分の肩に当てられた手をそっと掴むと、
「匂いが……あの香りが近くに漂っています」
ルールーウィップは緊張した声でそう言って手を離した。
近く、というその言葉に違和感を感じたラナイが周囲を見回しても野獣の気配は感じられず、そして昨晩のルールーウィップの言葉を思い出して視線をそこら中に生え茂る植物に向けた。
しかし、座ったままの状態で見えるものは限られており、ラナイは立ち上がって藪の中を歩いて回ることにした。
窮屈な藪の中、行く手を阻む障害物はラナイの硬質化した体とその重みの前では無いも同然だ。
そうして目覚めの運動がてら藪のつぶさに見て回ったが、そのどこにも"おかしな匂い"を感じられそうなものは見当たらなかった。
(もしかして……)
考えたラナイは、一旦藪を出て、その外周を歩いた。すると。
街道とは反対側、藪の向こうに点在する地面から飛び出す何気ない岩のその一つのそばに、明らかに異質なものを見つける。
(……食えなさそうだな)
と、ラナイが思うのは、岩の陰に三本だけ生えたキノコを見つけたからだった。
だが、それをすぐに食べられると思わなかったのは、ラナイがキノコに詳しくなかったからとか腹が減っていたからではなく。
そのキノコの見た目が少しおかしなものに映ったからだ。
ぼこぼこの歪な傘は橙色に炭色のまだら模様、柄の部分にも炭色が配色されたそのキノコには瑞々しさは感じられず、枯れているように見える。
それが"おかしな匂い"の正体かどうか確かめるためにラナイがそこへ近付こうとすると、不意にラナイを「待って」と止める声が。
「恐らく、それです。ラナイさん、それは何ですか?」
(キノコだ)
と答えようにも伝える術のないラナイは、なんとか一文字だけでもと「キ」らしい音を口の端から発した。
「キ? そこに木があるんですか?」
ラナイは手の平を二回叩く。
「違う……? じゃあ、"キ"から始まる何か……」
呟いて思考を始めたルールーウィップ。
すると、藪の向こうから二人を呼ぶ声が聞こえた。
「二人とも起きたみたいですね。ラナイさん、とにかく後で二人にそれを見てもらいましょう。意味があるかはわかりませんが……」
そう言ってどこぞを見つめるルールーウィップの肩を叩き、そしてラナイは一旦グリムとイルルの元へ戻る。




