ぐりむとれ 3
ほとんどが薄水色に染まる空の中で、霞のような薄雲がいくつか彷徨っている。
そんな理想的な晴れの日に降る微かなにわか雨が周囲の草花をパタパタと鳴らし、土の露出した街道の薄い黄土色を茶色に変えていく。
小雨が止み、四方八方から降り注ぐ陽の光が雨に濡れた地面を温め始めると、周囲には草花と土の匂いが漂い。
それは溜まりかけていた疲労を吹き飛ばして、無心で歩くことに新たな意味を与えてくれる。
おのずと視線は前方から左右へと惹きつけられ、すぐそこの草むらを駆ける小型の野生生物が何か獲物を追って別の草むらを目指して駆けて行った。
緩い風。
草が揺れ、その中で一際目立つ色の付いた花びらが、無邪気に手を振る子供のようだ。
宛ら凱旋とでも捉えられるそんな無意味な大自然の列の間を、三色の足音は進んで行く。
一つは黒い革のブーツが地面の小石を弾く、コツ、という音。
一つは、固く踏み均された地面に歪な足跡を残す、ドス、という音。
そしてもう一つは、そこの薄いサンダルで細かい砂を擦る、ザリッ、という音だ。
「ちょっと。すり足止めてよ、気が散る」
言って脂を塗りたてのツヤツヤとした黒い革のブーツが止まり、そのつま先が古びたサンダルの方へと向けられる。
「ピリピリしちゃって。これだから引きこもりは……」
「ひっ、引きこもりじゃないわよ! やるべきことが外に無いだけなのっ」
「はいはい。だったらゴハンも自分で買いに行けばいいのにね」
聞くと黒い革のブーツは「ぐっ」と声を漏らし一歩サンダルの方へ向き、しかしすぐまた前方に直って先を進み始めた。
その背後でサンダルが歪な原石に覆われた大きな足へと近付く。
「いい天気だね」
「…………」
「その体、暑くない?」
「…………」
「……まだ、喋れないの? 言葉はわかるんでしょ?」
すると、原石の足がピタリと止まる。
そのつま先は広がる大自然の方へ。
低い丘が大地を波打ち、そこに幾つも生える木々はまばらで、これから始まる森を想像させる。
明るい緑色の草原の中でその深緑色が影のように映り、原石の人型の目には花々に見えたのと同じく、人の群れに見えた。
それが風に揺れてざわめくのは、音こそ届かないものの、まるでこちらを向いて噂話でもしているかのようにも感じられる。
「…………」
原石の人型は、無言のまま足下から自分を見上げる栗色の髪の女に向けて小さく首を振った――。
◯
三人が【アーハイム】を出るきっかけになったのは、一つの証言による。
「黒い服の若い妖獣人と黒い髪の女なら、一ヶ月くらい前に【コルト】で降ろしたね。
なんだか挙動不審でさ。ありゃ、駆け落ちか何かだったんだろう?
だったら、手を貸してやるのが粋ってもんさ。
年甲斐もなく、ワクワクしたねぇ……」
とそれは、【アトニム】を巡る運送業を営むとある御者からのものだった。
それまでも別の街へ逃げた可能性を考えて、グリムは馬車に声を掛けていたが、それが一ヶ月も前のことになってしまったのは、この馬車が常に【アトニム】を一周して巡る、所謂"遊送型"の運送屋だったからだ。
ひとつ計算違いに行方不明者探しの難易度は上がってしまったが、それでも二人を「【コルト】で降ろした」という証言は大きかった。
とはいえ、この一ヶ月遅れという差は、情報が風化するのに十分な時間だ。
アレを探すためには、一刻も早く【コルト】へ向かう必要があった。
そのためにグリムがしたこと。
それは幾つかあったが、最も困難だと感じていたのは、ラナイを説得することだった。
本人に強い意志がなければ探し人を見つけることなどできないと、それを一番に理解していたからこそ、グリムは過去に母とヒイラギを失った話をしたのだ。
そんな遠い昔話は、丸々一ヶ月の間身動ぎも声も発さなくなっていたラナイを椅子から立ち上がらせることに成功した。だが。
一ヶ月間という時間発されたなかった声は、戻らないままだ。
「そろそろ、見えてくる頃ね……」
広げた地図から視線を上げると、グリムは周囲に視線を巡らせた。
その目に映るのは、相変わらず緑の多い景色と、その中にちらほらと顔を覗かせる砕けた家屋の残骸。
それらは、大概に砂色、灰色、黒色のまだらな色合いであり、言われてみれば何かの痕跡なのだろうという程度に自然に飲み込まれている。
他に目につくのは、雑に組まれた木製の柵だ。
どこが始まりとなく突然と姿を現し、街道から外れた遠くの方で大地を仕切って線のように細く伸びていた。
そんな風景を眺めるグリムの背後から、ラナイは地図に目を落とした。
「ん? どうしたの?」
グリムの質問にラナイは無言のまま地図を指差す。
「地図が、何?」
とグリムはその指先を追う。
ラナイが差すのは、大まかに四点。
六つの街と、それらを囲む大地のうねり、それから輪の内側に描かれた巨大な湖と、世界の中心に描かれた妙な形の大樹だ。
他にも細かく幾つか"違う点"があったが、特にその四点がアレの持っていったあの地図と違っていた。
「街? 今から行くのはここよ、【コルト】ってとこ。その前にここ、【ビッツ】で一泊する予定。もう一泊野宿するなんて嫌だから」
グリムの説明を、ラナイは(違う、そうじゃない)と首の動きで否定する。
「なによ……。それは所謂"越えられぬ丘"。正式には【ファルセル】っていうのよ。知らないの?」
聞き覚えのない単語にラナイは指の動きを止め、新たにその中心に描かれた大樹を指差す。
「それは【マセル】。"辿り着けぬ大樹"って呼ばれている場所よ」
次いでそばの湖を差そうとラナイが指を動かそうとすると、グリムはそこを「湖よ」と答えた。
特別な名前がないことから、そこは何かしら地形の変化によって生じた結果なのだと、ラナイはそれはすぐに理解できたが、地図全体を見た上で感じた違和感は拭えなかった。
なんとかその違和感をグリムに伝えようと口をパクパク動かしてみるが、喉が詰まって上手く声が出ない。
最終的に、ただ首を横に振ることだけがラナイにできることだった。
◯
小休止を経て、再び進み始めた街道。
周囲には家屋らしいものの残骸と木の柵の他に、人が育てているであろう麦や野菜の畑が目に付くようになっていた。
それまで何もいなかった柵の向こう側にも、何頭もの羊や馬が彷徨いていて、その中で何人かの人間が何やら作業している様子も窺える。
ようやく人気が感じられるようになった通りを歩く三人の内、落ち着きなく辺りを見回しているのはイルルで、ラナイもグリムも自然と同じ方向を向いていた。
「懐かしい……なんて思うものね。それがどんな想いだったとしても……」
少し先に見えるその巨大なアーチを見つめて、グリムはぼんやりとそう言った。
ラナイが視線を落とすと、そこでは"黒い涙目"がこちらを向いていた。
この街の名前は【ビッツ】。
冠された紋章は"麦と鞭"であり、厳重な【アーハイム】とは正反対に明け透けな街だ。
塀の一つも置かれておらず、門も無く。
どこからが街なのかを示すのは、街道と区切るように設置された幾千本の麦束で作られた巨大なアーチだけである。
つまり、街の真ん中を街道そのものが突き抜けており、道の両脇にきちんと整列する建築群こそが【ビッツ】の街としての形だ。
そんな【ビッツ】にも、【アーハイム】と同じく道らしい道はない。
あるのは整頓された建物たちの"間"であり、そこには石が敷き詰められていたり、丁寧に均されているといった工夫は何もされておらず、踏みつけられて禿げた足跡の流れが所謂"道"として機能している。
そういうところ、同じ道がない街でも、"正しく"というのは【ビッツ】の方だろうか。
というように、あまり特徴のない【ビッツ】だが、一つ奇妙な点がある。
それは、全ての建物が高床式であることだ。
地面からラナイの胸より少し低いくらい分だけ、【ビッツ】の街は宙に浮いている。
「家畜たちの邪魔になるからよ。
基本的に家畜優先の【ビッツ】じゃ、こうすることが建築のルールなの」
とグリムが指差す先で、床下から小さい人間が数人どこかへ歩いて行く。
「ほんと、昔から何にもここは変わらない……」
歩き去っていく人々を眺め感慨深そうにそう語るグリムの発言が少し気になったラナイは、浮かんだ疑問を口にしようとして口を動かしたが、それよりも街を懐かしむことに夢中だったグリムの目には映らない。
「さ、宿に行くわよ」
そう言って街の中へと入っていくグリムに、結局ラナイは何も言えないままついて行く。 グリムは、見上げなければ見えない街を慣れと記憶に任せて迷わず進んで行った。
そして、その古い記憶に間違いはなく、五分ほど歩いて見上げるグリムの視線には宿を示す"散りばめられた星の印"の看板がある。
宿の扉は、大小一体型の構造ではなかった。
その代わり、扉の低いところには金属製のノッカーが付けられている。
とはいえ、この場には大きな人間もどきがいるわけで、結局扉はラナイが開けた。
音もなく開いた扉の先には広いロビーがあり、正面に設置された短い階段の付いたコの字型のカウンターの向こうには狼頭の妖獣人が二人、立っている。
「こんにちは、旅人さん」
カウンターにいる二人の内、女の妖獣人がそう言って軽く会釈した。
つられて会釈したラナイの脇をグリムとイルルがすり抜けていき、短い階段を上る。
「あら、こんにちは。部屋は一人分? それとも三人分?」
「通常の部屋を一人分でいいわ。ソファは付いてる?」
「じゃあ、付いてる部屋を用意するわね。部屋が少し大きくなるから、その分料金は増すけどいいかな?」
「小人用の部屋を取るのよりそっちの方が安いでしょ?」
「もちろん。それとも安い一人部屋に大きめのクッションでも入れようか?」
「いえ、結構よ。その大きめの部屋でいいわ」
グリムの返事に、「わかったわ」と答えた従業員の女は、それからカウンターの上に帳簿を置いた。
ペンを受取り、その少し大きな帳簿に身を乗り上げるようにして"グリム・シュタイン"と記入するグリム。
次いで同室者の欄に"イルル・イルルイ"と書き込み、
「……そういえば」
と呟いて、ラナイに小さく手招きをした。
招かれて、グリムに顔を近付けるラナイ。すると。
「字は書けるわよね?」
そう言ってラナイに大きなペンを手渡した。
ペンを受取り、グリムの発言の意図を読み取ったラナイは、軽く頷いて帳簿に腕を落とした。
書き込んだのは、"ラナイ"。
読むことができた文字を、実際に書いたのはこの時が初めてだった。
それを見てグリムが「ふむ」と頷き、そして一泊分の料金を払ってから、三人は言われた一階の六号室へと向う。
六号室の扉には、ノブが一つしか無く、それも大きい人間のためのものだけだ。
部屋の中には、大きめの小窓がと大きな人間用のベッド、それから二人がけのソファが、それぞれ一つずつある。
どれも手入れが行き届いており清潔で、部屋の隅にも照明にも、塵ひとつ見当たらない。
窓の向こうには、立ち並ぶどれも似たような木製の建物と、その隙間から遠く馬が駆ける様子が見えた。
「こうして見てみると、多少建物が増えてるみたいね」
窓の外を眺めて、グリムが言うと、「また懐かしみか」とイルルがそれを鼻で笑う。
「そりゃあね。もう百年以上振りだから懐かしくもなるわよ」
「そ、それってつまり、百年以上も引きこもりやってたってことだよね……。あんまし意識してなかったけど……すごいよ、グリム」
唖然としているのか感心しているのかといった奇妙な表情で振り返ったグリムを迎えるイルル。
それを見て、グリムは「なんて顔してんのよ」と顔をしかめた、その時。
窓ガラスをガタガタと鳴らすほどの激しい振動が足下を震わす。
「な、なんだあ!?」
驚いて声を漏らしたのはイルル、そしてラナイは壁に囲まれた室内を警戒して周囲を見回していた。
そんな二人の様子を見てグリムは「大丈夫よ」とクスクス笑う。
「そろそろ日が落ちるから、その前に安全な輪の外側に家畜たちが移動させてるの。【ビッツ】じゃ日常の光景よ。けど、他じゃ見られないだろうから、一度見てみるといいわね」
そう言ってグリムは二人を導き外へ出る。
そこで三人が目のあたりにするのは、宛ら大地の流動。
無数の馬、牛、羊が混合して大地を闊歩し、大地をおよそ白と黒で染めていた。
足音というには凄まじく耳を閉じるにも惜しい、強く大地を叩くその豪快な音色は、聴いているだけで何もかもを忘れてしまうようだ。
それが大自然の起こしたものでなく、あくまで人工的に起こされたものであるという事実。
ふとそんな考えが頭を過り、ラナイは不可解な恐怖を感じていた――。
家畜たちの移動が遠ざかり、次々と向こうの床下になだれ込んで行って姿が見えなくなると、後を追って建物の隙間から姿を現したのは、一匹の大狼。
俯き加減で歩くそれは、四足ではなく二足歩行であり、上から見下ろして一瞬見間違えたものの、オオカミ頭の妖獣人のようだった。
オオカミの妖獣人は、肩と胸を覆うやけに重厚な胸当てと、下半身を覆うそれも重厚な鎧を身に着け、腰にはピンと伸びた一直線の刀身の剣、そして腰の背面に巻かれた鞭を引っ掛けている。
三人が何気なくそこを見つめていると、
「ほらほら、お前だけ遅れていますよ」
床下に向かってオオカミ頭の妖獣人は声を掛け、するとそこから羊が一頭這い出てくる。
「……オオカミが羊飼いって。ちょっとヤバイお伽噺みたい」
食い違う光景に思わずイルルが呟くと、オオカミ頭の妖獣人の耳がピクピクと動き、その獰猛な顔が高い所にいる三人へ向けられた。
「バ、バカっ。あんたなんでっ、失礼でしょ」
慌ててイルルを押さえつけたグリムが「ごめんなさい、こいつバカで」とオオカミの妖獣人に頭を下げると、オオカミ頭の妖獣人はどことなく定まらない視線を空に向け、何かを探すように首を回し、そして。
立ちすくむ歪な原石の人型に顔を向けて鼻を動かした。
「ヒイ……ラギ……?」




