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ピープルインバスケット  作者: 扉野ギロ
ぐりむとれ
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ぐりむとれ 2

 母の出掛ける頻度が増していた。

 週に三日間という間隔で縄張りの見回りに出かけていた母が、あの日から徐々にその間隔を狭め、ほとんど毎日出掛けるようになっていたのだ。


 母は「繁殖期の影響」だ、と言った。

 

 原因はわからないが、時折そういうことが起きるのは確かで、これまでにも何度かそういう時期を越えていた二人は、またいつものこと、と特段緊張するでもなく増えた野獣たちがどこか別の地域に行ってくれるまで必要以上に家から出ないように心掛けていた。


 母は頻繁に家を空けるようになったのはグリムにとって寂しいことだったが、眺める窓の外に野獣の姿が見えないのは母のおかげなのだと、家の中にいても母を感じることができた。

 それが故に、家から出られないのは非常に退屈で、グリムはついに手持ちの本の全てを読み終えてしまった。


 過ぎたのは三ヶ月という月日。


 前回がおよそ四ヶ月程度で落ち着いたことを考えると、今回の繁殖期の影響もそろそろ終わる頃だろうとグリムは思っていた。

 だが、その日見回りから帰ってきた母の表情は優れず、「一向に野獣の数が減らない」とグリムはそう告げられた。

 それから、母が丸一日家に帰らないことも普通になった。


 この時、住む場所を変えるべきだった。

 少なくともグリムはわからないなりにそう母に進言したが、リーンティルにとっては、街で差別に怯えるよりも、ここで野獣と共生することの方がよっぽど楽なことだった。


 母はグリムに言った。


「大丈夫。お母さんがなんとかするから」


 別に、母を疑ったわけじゃない。

 信頼は相変わらずしていたし、きっと母ならどうにかできるだろうとそう思っていた。それなのに。

 それなのに、言いようの無いどんよりとしたものを感じたのも確かだった。


 年を取り、グリムが思うのは、この時に是が非でも母と【ビッツ】に、少しの間でも行くべきだったということ。


 少しずつ、そのどんよりとしたものが形になっていくように、母の帰りが遠くなり、グリムが窓の外を覗く機会が多くなっていった。

 繰り返し読むようになった本は、一月前から変わらずリビングの机の上に置かれるようになっていた。


 グリムが庭先に野獣の姿を初めて見掛けたのは、前日に母が出来かけてその次の日のことだった。

 アンノウンではない、幾度も母が倒してきた野獣が、庭の物干しの辺りの匂いを嗅いでいた。

 

 真っ先にグリムの頭を過ぎったのは、もうこんなに増えているのだ、という焦り。

 母を呼ぶにも一日経った今ではどこにいるかもわからず、庭の反対側にある寝室から窓の外を覗いた。

 だが、そこは庭とさほど変わらない風景が広がっているだけで、母の姿はない。


 こんなにも敷地が狭いと思ったのは、初めてだった。


 リビングの方で壁に何かがぶつかる物音がし、熱い鼻息が窓を鳴らしていた。

 恐る恐る寝室の扉の隙間から見たリビング、曇ったガラスの向こう側で、野獣が部屋の中を覗き込んでいた。

 

 まるで生気を感じさせない黒い大きな瞳、点のような鼻の穴の下には巨大な口が、そしてそこには細かな牙が無数に生え、それらを支える膨れた顎の大きな頭部には体毛が無い。

 視線からでは見えなくとも、そこから流線型に繋がる胴体には不要な背びれが二枚付いていて、一見魚類のようにもみえるが、胴体の脇からは筋肉質な四本の足が生えていることをグリムは知っていた。


 それは図鑑によれば爬虫類で、学名は"ウィンリル・ノジョー"。

 通称"オオグチ"と呼ばれる"輪の内側"では珍しくもない野獣だった。


 そのありきたりな怪物が、小さな窓ガラスに顔の側面を押し付け、部屋を覗き込んでいる。

 死体として向き合うのと生きた状態と向き合うのとで、これほどまで心境に変化が生じるのだというのは、今にして思えば、というあくまで客観的な意見だ。

 当時のグリムにとって、それはただの恐怖でしか無かった。 


 以前アンノウンと出くわした時には動いた足が動かなかったのは、想像だけだった恐怖が現実化して記憶に深く刻まれたからだ。


 寝室に閉じこもり、グリムはひたすらに母の到着を祈り続けた。


 ドアの開く音。

 生じた一瞬の期待は、次ぐ湿りを帯びた足音と深く沈んで軋む床の音によって砕け散った。


 息を殺し、寝室の扉に背を押し付けてグリムが願うのは、「頼むから出て行って」。

 しかし、足音は近付き、最悪なことに扉のすぐ向こうで止まった。

 そして、ノブが鳴る。

 ゆっくりと背に押し付けられる扉の感触。

 全てがはっきりと記憶に残っている。


 すると、扉の向こう側の怪物は、「グリム」とそう言った。

 母を思ったグリムの油断が、扉の侵入を五センチばかり室内に許す。

 慌てて押し返そうと再び足に力を入れると、また自分の名を呼ぶ声が、今度はハッキリと室内に響いた。


「もう大丈夫」


 一生、その声を忘れることは無いだろう。

 グリムの耳に聞こえたのは、若い男の声だった。

 落ち着いていて、吐息が多く混じっていた。


 母ではなかったが、グリムは扉に向き合うことで封を解いた。

 しかし、扉の向こうの男は部屋に入ってこようとせず、その足音はむしろ遠ざかっていった。

 呆然としていたグリムが正気を取り戻してから、部屋の外を覗いてもそこには誰の姿もなく。

 残されていたのは、寝室から玄関口の方まで一直線に続く"赤い足跡"だけだった。


 足跡が赤い理由が、漂う血の香りによって証明されていた。

 よくよく見てみれば、寝室の扉のノブと、玄関扉のノブにも血液が付着していた。


 窓の外には、大量の血痕。

 何かが殺されたのは一目瞭然だったが、そこにオオグチの姿は無かった。

 それでも周囲には土の抉れた足跡が幾つもあり、オオグチが暴れたのは確かな様子。

 そしてそこには、家の中と同様の"赤い足跡"があった。


 後を追うことも考えたが、恐怖で玄関扉を開くことができず、グリムはリビングの椅子に腰掛けて母の帰りを待つことにした。


 夜になった。母は帰らない。

 朝になった。母は戻らない。

 日が暮れた。母が帰らない。

 夜になった。母はどこへ行ったのだろうか。

 朝になった。母を疑い始めた。

 日が暮れた。母を待つと決めた……。


 月の薄い明かりだけが差し込むほとんど真っ暗な室内、時間ももうよくわからなくなっていたグリムが眠っていたのだと気付いたのは、ノックが聞こえたからだった。

 グリム、と呼んだのはこの数日間グリムが最も望んだ声だった。


 慌てて扉を開くと、そこで母は笑っていた。

 

 堪えていたものが溢れ出し、グリムが母に飛びつくと、母はそっと娘の頭を撫でた。

 もう大丈夫、とそう言った。

 二人でベッドに腰掛け、少しだけ話をした。

 母は父の話ばかりをした。


 昔と変わらない父を愛する母の話だ。

 その夜に感じた幸福感は、母が帰ってきたことへの安堵と重なり、格別なものだった。

 久しぶりに二人、同じベッドで眠った。

 グリムの二倍以上大きな母のベッドに横になると、まるで自分が子供のまま何も変わっていないような錯覚に陥って、それがどうしてかその晩だけはとても気分が良かった。


 朝、目が覚めるとそこに母の姿はなかった。


 しかし不安はなく、何の気なしに寝室の扉を開けて、リビングの方を見つめて。

 グリムは崩れ落ちた。

 そこには、覚えのない小さな血溜まりがあった。


 一気に蘇る昨晩の記憶に、グリムは絶叫した。

 一緒にいられたはずの時間の分だけ母を呼んだ。


 正気を取り戻すのにどれだけ時間が掛かったのかは覚えていない。

 少なくともまだ陽の光が大地を照らしていたのは確かだ。

 だから、きっと一、二時間だったのだろう。


 茫然自失のまま久しぶりに玄関の扉を開くと、庭の先に人が立っていた。

 男は若く、痩せていて、髪もボサボサで汚らしく、見たこともない服を着ていた。

 どう見ても浮浪者にしか見えないその若い男は、そのみすぼらしい身なりに似合いの汚れた鈍らを握り締めていて、しかし戦士とも思えなかった。


 それが、"ヒイラギ"との出会いだ。


 背の丈はグリムよりも頭二つ分だけ高いものの、竜神である母よりも、そして【ビッツ】にいるような妖獣人や妖鳥人たちよりも背が低いことから、グリムは自分と同じ妖精との混血なのかと思っていた。 

 

 ヒイラギは何も言わず、ただグリムをじっと見つめているだけだった。 


 それからヒイラギは庭先に住むようになった。

 それはそれで不気味なものではあったが、どうしてかヒイラギに不信感は抱けず。

 ヒイラギは庭に住む理由を「わからない」と言った。


 ヒイラギは、記憶が定かでは無いようだった。

 とはいえ、知っていることは知っていて、その中に「グリム」という女の名が含まれていた。

 だが、ここにいるグリムのことと"知っているグリム"が同じかどうかは確かではなかった。


 そうして二人の奇妙な生活が始まると、色々と常識はずれなヒイラギに教えるべきことは多く、自分が母にされたように、グリムはヒイラギに物事を教えた。

 ヒイラギに尻尾が無いことを知ったのは、二人同じ家で生活するようになって少ししてからだ。

 

 当然ながら、生い立ちも記憶にないヒイラギに何を訊いてもわかることはなく。

 しかし出会いが出会いだけに、ヒイラギが人間じゃないかどうかなんてことはグリムにとってどうでも良いことだった。


 続く二人の生活は、十年に及んだ。


 その期間が、当初不明とされた"グリム"に関するヒイラギの不可解な記憶を、所謂"運命"と結論させ。

 いつしかグリムはヒイラギを大切に思うようになった。

 それが愛なのだと気付き始めた頃。


 グリムは三十三歳。


 危険な"輪の内側"を離れ、街の片隅に家を持とうと考えていた。

 それが一体どれほどの価値なのか知らなかったが、石だけは十分に持っていたから、きっと上手くいくだろうとそういう自信だけはあった。


 それまでも何度かヒイラギと【ビッツ】へ行ったことはあったし、ヒイラギが街の人々敬遠されるようなこともなかった。

 だから、何もかも上手くいくのだとそう思っていたのに。


 突如ヒイラギは姿を消した――。


          ◯


「もちろん、【ビッツ】にも彼を探しに行ったわ。けど、見つからなかった。

 他に行ったことのある街は無かったし、そこにいなければまた"内側"に戻ったか、それとも両隣の【アーハイム】か【コルト】に向かったのか……。 

 結局、アタシはヒイラギのことを何もわかっていなかったのよ。

 彼を好きだったけど、好かれているかなんて考えもしなかった。


 そんな身勝手さを見抜かれたのね。

 ヒイラギは【コルト】にも、そして【アーハイム】にもいないの。

 非力だったし、また"輪の内側"に一人で戻るなんて怖くてできなかった。

 アタシが【アーハイム】に住むことにしたのは、だからよ。

 人が多くて、いつも騒がしくて……。

 

 いつかまた会えるんじゃないかって……まだ時々そんなことが頭を過るの。

 だけどさ、アタシももうそんなに若くないわ。

 ヒイラギを待つのだって、惰性みたいになってるのよ。 

 心が、微動だにしないの……。だから、もう大丈夫。

 

 この街に未練なんか無いわ。

 それよりも、お前に後悔させたくない。だから。

 行くのよ、アレを探しに……」


 いい加減機嫌直さないと"紐"つけてでも連れてくわよ。

 グリムはそう言って背をもたれていたラナイの脚を小突き、ラナイの顔を見上げた。

 光を受けてぼんやりと輝く薄緑色の瞳には、黒みが多い原石に包まれた歪な頭が映り込んでいる――。

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