ぐりむとれ 1
生命の名は"グリム"、区別名を"シュタイン"。
その少女が生まれたのは、都市同士を繋ぐ街道の"輪の内側"だった。
そこは遺跡が多く点在し、獰猛な野獣が跋扈する危険地帯であり、人がほとんど足を踏み入れない領域だ。
そのようなところになぜ、両親は家を構えたのか。
答えは、彼女の持つ区別名というところにある。
シュタイン、とは誕生と共に子自らが発する生命の名の他に、後世【アトニム】において混血であることを区別するために親が伝える印だ。
それだけで、当時差別を受けるのに十分な理由であった。しかし。
少女の父は妖精だった。
その事実は、これ以上無く人々の差別意識を掻き立てる材料であり、二人は一緒になると決めたその時から、妖精の里にも【アトニム】のどの街にも住むことは考えられなかった。
自分たちの安全を確保する上で、やはり"輪の内側"に住むことが重要だったのだ。
幸い、リーンティルは優秀な戦士であった。
時折家の周辺を彷徨く適当な野獣ならば、優に圧倒できるほどの腕前。
そのため、子を作ると決めたそれ以降、ガド・ガドガはそれを心配する必要がなかった。
いや、それは心配がどうのというよりも、信頼だった。
ガド・ガドガが妻リーンティルを強く愛していたからこその。
だから、ガド・ガドガは一人娘をリーンティルに宿し、消えた。
そうして生まれた娘に、シュタインと付けることを母が躊躇したのは、娘の未来を考えたからだ。
一緒に生き続けることができないとわかっていたからこそ、一人になる娘には、幸運な未来を期待した。
そんな当たり前の願いがあったにも関わらず、当初リーンティルは娘に区別名の決まりを教えず、生命の名である"グリム"とだけ呼んでいた。
続く母と子二人きりの生活が十年目。
語られる昔話にのみ現れる、愛しい人、あなたのお父さん、という者についてグリムがようやく興味を持つ機会が与えられた。
それより以前にグリムが父のことを気にしなかったのは、それよりも目の前にいる母が幸せそうな姿をしていたからだ。
グリムは母が好きだった。
好きな人が語る好きな人の話は、何度聞いても飽きるものではなく。
時にはせがんでまで母と父の話を聞くこともあった。
それがグリム十歳のある日、娘の未来のためにという決意の下、母はグリムをとある街へ連れて行く。
そこは畜産、農業を主とする穏やかな街【ビッツ】。
母としては、そこならば娘に対する差別の目も薄いだろうという考えがあった。
娘には手製のローブを着させ、フードは目深にかぶって決して顔を晒すなと注意をして、母にとっては懐かしく、娘にとっては初めての街を歩いた。
実際、【ビッツ】でグリムを差別するような振る舞いはなかった。
母が娘に教えるのは、人里では欲しいものを手に入れる時に"交換"をしなければならないという規則であり、無闇に人に声を掛けてはいけないということ。
そして、名を聞かれたならリーンティルを名乗れということだった。
常識というものを知っている者ならば、まず間違いなく母リーンティルとしての行為に疑問を抱くだろう。
しかし、グリムは幼く、無知だった。
それもまた一つ、人里での決まりだと信じて疑わなかったのだ。
だが、そこには母の予想もしなかった毒があった。
それまで父という存在について、グリムは論理的に、そして母の表情や後ろ姿に何かを感じるだけだったが、街には幾つもの父が姿をもってそこにあった。
正確には、男の姿がだ。
男という性を知らなかったグリムにとって、自分より遥かに大きな人間の集団よりも、母とは違う匂い、姿をしたそういう人間の方が気になった。
強く逞しい母とも違うその圧倒的存在感に、グリムは興味を惹かれたのだ。
だから、夫婦に生じる"愛"という感覚について、グリムは母に問うた。
母はそれを、不可視のもの、と伝えた。
グリムは納得しなかった。
目に見えないものが存在するはずがない、というそれも幼さからだ。
それからグリムは、いくらも聞いてきた母と父の愛の話を思い出して記録し始めた。
そうやって両親の物語は、分厚い本の二冊分にはなった。
グリムはそれを、何度も見直し、何度も想像した。
本の隅に、時折行くようになった【ビッツ】という街で見かける男の姿を描き、隣には母の姿を描いたりもした。
その二人に自分の姿は描かなかった。
それが三年ほど経ち、グリム十三歳の時。
ついにグリムは巨大な疑問に行き着いたのだった。
どうして自分を生んだのか。
夫婦二人であれば、人を含む獣の何よりも大抵長く生きられたはずなのに、なぜ、自分を作ったりしたのか、生み出された少女はしばらくの間納得できなかった。
俗に思春期であり、しかし母と二人での生活が長く、社会を知らないグリムにとってその疑問はあくまで論理的な問題だった。
それ故の正論。
だが、母親にはそうは聞こえなかった。
「見えないことが恐ろしかった。どうしても、二人の愛をこの目で見たかった」。
母は悲しげな表情を浮かべ、まるで懺悔でもするようにそんなことを言った。
それを聞いてグリムが愕然としたのは、己が導き出した仮説が結論されたからだ。
仮説とは、父と母という二人の関係において、自分という存在には意味が無いのではないかということだった。
そのため母の発言は、父という存在を棒に振ってでも子を得たいという強欲の証明となり、つまり自分さえいなければ二人は永遠だったのだと、グリムにそう結論付けさせた。
その理解が、幼い少女に"死"を考えさせるには十分なきっかけだった。
リーンティルの発言以降、グリムは塞ぎ込み、ことあるごとに"死"を考え続けた。
食事に潜む死というありきたりなものから、風の果て、可視不可視、聞こえた後の音、匂いもまたそれと同等に未知の死の可能性だと。
およそ没頭という近く、グリムは死にのめり込んでいった。
それは母に向けられた不満が変貌してそうなったわけではなく、単に両親を愛していたからこそそういう発想になったのだ。
自分が"二人の愛の結晶"でさえなければ、父と母は二人で幸せだったはずなのに、と。
だから、グリムは自身の存在を恨んでいた。
自決という衝動さえ彼女の頭の中にあれば救われたのかもしれない。だが。
グリムはあまりにも自然的に生きてきたために、そういう人らしい手段を知らなかった。
そうしてグリムは、暗く深い闇の迷路を彷徨うようになる。
出口は欲さない。
永遠に、自分を恨み続けるためにだ。
リーンティルは、そんな娘の姿に己を憎んだ。
グリムは、そんな母の姿に己をさらに恨んだ。
いつしか二人が同じ闇の迷路を彷徨っていた。
互いを想い合う"愛"が、皮肉にも二人の関係を上手くいかなくさせたのだ。
そのまま、また十年の時が過ぎた。
グリム二十三歳。
お母さん、と呼んでいたグリムはリーンティルを"母さん"と呼ぶようになっていた。
奔放で笑顔の多かった娘は、いつの間にかニヒルな表情が似合う女に変わった。
母は、相変わらず自分を責め続け、娘に隠れて父のことを想うようになった。
そんな寂れた関係から逃れるために、グリムが近くの遺跡を探索するようになったのは、五年ほど前からだ。
グリムは、その時から"石"に惹かれていた。
最も欲するものと、石は似ていると思ったからだ。
いつもそこに在り、変わらず。
いつも同じ匂い、感触。
死から最も遠く、最も近い存在。
それぞれに一度持った違いを永遠に表現し続けるそれらは、彼女にとって憧れでもあった。
遺跡では、そこらを掘って出てくるものとは違う変わった石が採れることもあった。
艶がなく、透けて濁ったその石は、世に"コンセキ"と呼ばれる不可思議なもの。
あらゆる生物に存在し、生きた年月によってその純度と大きさが異なるコンセキは、当時栄養の一つとしての認識であり、物々交換の主流品だった。
遺跡ではその中でも、純度の高いものがよく採れた。
グリムが石を探すようになったのは、あくまで保存食としての理由からだが、いつか自分が母と一緒に住めなくなる時のことを考えての貯蓄でもあった。
母と離れるつもりなど毛頭なかったのに。
グリムが集めた石は、コンセキを含めてそうでない珍しいものも合わせると相当な量に及んでいた。
それが隠し場所の床下には収まらなくなってきた頃、グリムは石を【ビッツ】に売りに行くことを思いついた。
捨てるにも忍びない、かといってこれ以上石を採らずにもいられない。
そんなケチな発想からだ。
次の日の朝、母が地域に野獣が彷徨いていないか日課の見回りに出掛けるのを確認してからグリムは家を出た。
一人で街へ行くのは、これが初めてのことだった。
母が野獣掃討の見回りに出たのは、この日で三日目。
新たに縄張りを求めてやってくる野獣たちも母の手によって打倒され、地域の野獣たちの間にはまた新しく危険な縄張りとしての認識が広まる頃だと知っていた。
遠く視線の先に野獣が見えて、それがこちらを向いていたとしても、絶対に奴らは自分を襲ってきたりしない。
道すがらグリムが感じていたのは、恐怖ではなく、誇らしさだった。
母は強い。
言葉も通じない野獣にでさえ、それが伝わっているのだととても誇らしかった。
母は、近くにいずとも自分を守ってくれている。
一人で歩くことで広く、どこか殺風景に感じていた道が、明るく輝いて見えた。
難なく街に着き、いつもの店で買物をした。
母の好きなものばかりを買った。
ついでに、一人で酒を飲んでみたりもした。
その僅か二時間ほどの街歩きは、グリムが感じる初めての充実感を齎し、自分がもう大人になったんだと自覚させた。
だが、それと同時に独りになるということを少しだけ考えるようにもなった。
グリムが街を出た時、辺りはまだ昼過ぎの落ち着いた明るさがあった。
家までは片道で四時間は掛かる。
母が家に戻るのは日が沈む頃だとして、少し急いで間に合うかどうかの時間だ。
行きよりも少しだけ重くなった荷物を背負い、グリムは帰路を急いだ。
背後に街の姿が消え、周囲が少しずつ明るさを鎮めていく。
そうしてやっと家が見えた時、そこにはすでに灯りが点っていた。
多少緊張しながら家の扉を開くと、そこでは神妙な面持ちの母が待ち受けていた。
瞬時に察するのは、怒られるのだろうという未来。
だが、母はグリムを叱らなかった。
色々と予想していたグリムの想像の全てを裏切り、母は笑ったのだ。
涙を流しながら、笑っていた。
娘を抱きしめて、リーンティルは娘に「もう大丈夫」と声を掛けた。
娘には母の発言の意図が理解できなかった。
ただ唖然とし、きつく自分を抱きしめる母の胸に、随分久しぶりに感じた温かさを感じていた。
自然とこぼれた涙に意味なんかなかった。
何の意味もないのに、涙だけが溢れていた。
何も噛み合っていないのに、その日を境に二人の関係はまた幸福なものに変わった。
グリムは母を「お母さん」と呼ぶようになり、リーンティルは娘の笑顔を嬉しそうに眺めるようになっていた。
もう二度と変わることのないような幸福の日々が幾日か続き、そんなある日のこと。
いつも石拾いをする遺跡での発掘に底がみえたグリムは、気分転換も兼ねて少しだけ離れた別の場所を歩こうと思い立った。
とはいってもそこは、歩いても十分と離れていない巨大な遺跡群の別の区域だ。
その小さな油断が、普段なら自然と気にしていた母の野獣掃討の見回りの期間を有耶無耶なままで良しとさせていた。
グリムが遺跡探索を初めて一時間ほど、ようやく採掘できそうな場所を見つけて発掘に取り掛かっていたその時だった。
いつもは気にしないような僅かな物音にグリムは嫌な予感を覚えた。
微かに匂いがしたのだ。
母のものでもなく、石の放つものでもない。
不慣れな瓦礫の配置、それを頭に焼き付けながら恐る恐る覗き見たその向こう側には、やはり野獣の姿があった。
一週間ほど前に母が追い払った、三つの頭部が胴体上に不規則に並ぶ奇形の獅子だった。
それが所謂アンノウンだとグリムが知ったのは、後のことだ。
当時それをただの野獣としてしか認識していなかったグリムにとって、それらは一様に危険な存在であった。
だから、落ち着いて行動すれば何の問題もなく逃げ切れることを知っていた。
しかし、それはそこらが見知った場所であればの話。
野獣を警戒しつつ瓦礫の陰を移動していたグリムは、気が付けば道に迷っていた。
そもそも、崩れた壁が地面のあちこちに残るだけの迷路のような場所だっただけに、そこに慣れるためにはそれらを"見る方向"が重要だったのだ。
つまり、すぐそこにいつもの場所があったとしても、反対側から見るのは初めてだったこと、そして野獣の存在というストレスによって混乱していたグリムは、わけがわからなくなっていた。
どこもかしこもが知っている場所のようにも見え、どこにも知っている場所が無いようにも見えていた。
唯一の目印は、大概に砂色であるその遺跡において、一箇所だけ色の違う壁だった。
それは、リーンティルが縄張りの証として付けた竜人の匂いがついた特性の塗料で塗られた壁だ。
それを探す最中、グリムが思うのは母のこと。
お母さん助けて、とそればかりが頭に浮かんでいた。
しかし、そんな望みも今朝方に母が出掛けて行った方角を思い起こせば簡単に否定される。
結局は自分で生還する外無い。
混乱する頭を無理矢理に正し、グリムは母の残した縄張りの証を探した。
その時々に垣間見る野獣は、雑音じみた鼻音を鳴らし、グリムに気付いていることは明白だった。
続く緊張の時間は、一時間だったのか五分だったのか、グリムは覚えていない。
恐ろしく長い恐怖の時間が終わったのは、迷うまま無意識に母の縄張りに入り込んでいたのだと気付いたその時だった。
安堵し、崩れた壁に隠していた体を晒したグリムの視線には、小さく母と二人で過ごす家が見えた。
走れば五分ほどの距離。
頭に浮かぶ「お母さん」の言葉を口にしたか、それとも思い浮かべただけだったのか。
背後に聞こえた深い幾つかの唸り声に掻き消されてグリムは振り向きもせず、叫んでいた。
瓦礫を砕かんばかりに力強く踏みつける音、散乱する三色の吠え声、ローブ越しの背に触れた鋭い爪の感触と熱い傷の疼きは、それから随分年を取ったグリムの脳裏に焼き付いて今も離れない。
グリムは、結果的に救われた。
作業に一段落を付けたリーンティルが、たまたま娘を昼食に誘おうとしたことが幸いしたのだ。
娘の頭が噛み砕かれる寸前、駆けつけたリーンティルが野獣を殺し、深手を負ったもののグリムは一命を取り留めた、ということだ。
それから母は、これまでよりも入念に周囲の野獣に気を配るようになった。
しかし、その少し前からすでに異常は起き始めていたのだ。
それが異常だったのだとグリムが知ったのは、随分後のこと。
それまでは母を信じ、気をつけて生活することが全てだと、グリムはそう思っていた――。




