第一話 三十節
「それからうちは綾緒の引き祝いの準備を始めた。」
千乃のお母さんはそう言って雪乃の隣にしゃがみ込む。
雪乃の頬にかかった後れ毛を整えながら続けた。
——
「真相を知る人間は極力少なくしとかなあきまへん。あんたと、うちの二人だけでやり遂げなあかん。」
千乃のお母さんはそう言った。
その日から雪乃は風邪をひいたことにして、奥の間に引き籠った。
綾緒名義の引き祝いの書付を、何百枚も書き続けた。
千乃のお母さんは各所へ引き祝いの連絡を入れ、その折に、「綾緒は足を怪我して、もう踊れんようになった」と言い添えた。
さらに、ごく一部の口の軽い者にだけ、「綾緒は雪乃に石段から突き落とされて、足を折った」という話を漏らした。
永田は、雪乃の嫉妬によるいざこざと聞くと、酷く愉快そうに笑った。官憲や新聞は自分が黙らせると言った。
引き祝いの当日、お母さんは雪乃の髪を綾緒と同じように整えて、顔に布をかけながら言った。
「一言も喋ったらあかんえ。」
髪を整える手にも、布をかける手にも、その声にも、迷いや震えを滲ませなかった。
それから人力車の隣に立ち、「流行り目に罹ってしもうて」と微笑んだ。
——
「堪忍。堪忍な。うちは……あんたの優しさに甘えて……あんたを……あんたを使うてしもうた。」
今、雪乃の後れ毛を撫で付けるその手は、一本を整えるのもままならないほどに震えている。




