第一話 二十九節
「その晩、雪乃は一人で屋形へ戻ってきた。」
千乃のお母さんの声が、再び夜の境内に響いた。
雪乃は羽根駒の袂を握ったまま、顔を伏せている。
「最初はずーっと黙っとった。
それからようやく、綾緒が駆け落ちしたことを、この子から聞かされたんや。」
千乃のお母さんは、雪乃の肩に置いた手に力を込めた。
「ほんで、この子がうちに言うたんや。」
——
「うちが綾緒を突き落としたことにしておくれやす。」
そう言った雪乃の視線は揺るぎなく千乃のお母さんを捉えていた。
両の拳は震え一つなく、膝の上に置かれていた。けれど、爪は掌に血が滲むほど深く食い込んでいた。
「旦那様に事の真相が伝われば、綾緒もあのお人も無事には済みまへん。
もちろん、千乃も、お母さんも、うちも……
でも、事が『舞妓同士のいざこざ』であれば、旦那様は御自分の名に傷がつかんよう、揉み消しはると思います。旦那様のお力なら、それくらい容易いことどす。」
そこまで言って、雪乃は一度息を吐いた。
「せやから。うちが綾緒を突き落とした。綾緒はそれで踊れんようになった。そういうことにしておくれやす。」
——
「うちには、それしか道が残されてへんように思えた。」
千乃のお母さんの声は、境内に満ちる葉ずれの音にも負けそうなほど細かった。
「うちは……千乃を守るために、綾緒を守りたいいう雪乃の気持ちを利用したんや。」




