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舞妓探偵  作者: 掛出すみれ
雪乃編
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28/33

第一話 二十八節


「私は今晩、花街を出る。」

雪乃の手の中で渋紙の袋がくしゃりと鳴った。

「……誰と。」

綾緒は答えず、石段の方へ目を向ける。

夜の底に、一人の男が立っていた。

遠目にも上等とは言えぬ着物を着て、こちらを見ている。

「まさか……あの人と行く言うんか。」

雪乃が一層声を低くして言う。

「へぇ。」

綾緒の声に感情は滲まない。

「どこへ。」

「東京どす。あの人、向こうで店を持つつもりなんや。」

「店ぇ?」

雪乃は思わず笑った。

「そないな夢みたいな話、信じたんか。永田様に見つかったらどうなると思うてる。あんただけやない。あの人も、千乃も、みんなただでは済まへんのやで。」

「わかってる。」

「わかってへん!」

雪乃の声が夜の境内に響く。

「うちが何のために永田様に頭下げたと思うてるんや。あんたも引き上げておくれやす言うて、どれだけ頼んだか。二人で一緒に芸妓になるんやろ。ここで約束したやないの!」

綾緒は俯いた。

「……堪忍な。」

「堪忍で済むかいな!」

「雪乃が、うちのためにしてくれたことはわかってる。」

綾緒は顔を上げた。

その目に涙はなかった。

「せやから、言えんかったんや。」

雪乃の胸が強く締め付けられた。

「雪乃と一緒におりたかった。立派な芸妓にもなりたかった。これはほんまどす。」

「やったら……」

「でも、永田様のものになるんは……堪忍して……」

雪乃はなにも言えなくなった。

綾緒の言葉は雪乃を責める響きを持たない。

それだけに強く雪乃の胸に突き刺さる。

「あの人と行ったかて、幸せになれるとは限らへん。」

ようやく出た一言は酷く掠れていた。

「へぇ。明日のご飯にも困るかもしれへん。」

対して綾緒の声は落ち着いていた。

「ほな……なんで。」

「うちが決めたことやから。」

綾緒が微かに微笑む。

「どうせ後悔するんやったら、うちはうちが決めたことで後悔したい。」

綾緒が再度夜の底へ視線を送る。

遠くで男が小さく頭を下げる。

雪乃は綾緒の腕を掴んだ。

綾緒の顔が痛みに歪むほど強く。

この手を離さなければ、綾緒は行けない。

ずっと一緒にいる。

二人で芸妓になる。

それは雪乃のたった一つの希望であった。

しかし、綾緒の腕を掴む自分の手が、何故か永田の手と重なって見えた。

これまで目にしてきた、無数の手。

それらと同じものに見えた。

雪乃はゆっくりとその手を離す。

「辻占煎餅……まだ食べてへん。」

「うん。」

「約束、破るんやな。」

「堪忍。」

雪乃は、渋紙の袋から一つを取り出し、綾緒の手に握らせた。

それから綾緒の背後に回り、そっと背中に両手を添える。

「……行きぃ。」

その声は驚くほど穏やかで、優しかった。

「後は、うちがなんとかするさかい。」

綾緒の背中を、雪乃はただ静かに、暗闇の向こうへと押した。


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