第一話 二十八節
「私は今晩、花街を出る。」
雪乃の手の中で渋紙の袋がくしゃりと鳴った。
「……誰と。」
綾緒は答えず、石段の方へ目を向ける。
夜の底に、一人の男が立っていた。
遠目にも上等とは言えぬ着物を着て、こちらを見ている。
「まさか……あの人と行く言うんか。」
雪乃が一層声を低くして言う。
「へぇ。」
綾緒の声に感情は滲まない。
「どこへ。」
「東京どす。あの人、向こうで店を持つつもりなんや。」
「店ぇ?」
雪乃は思わず笑った。
「そないな夢みたいな話、信じたんか。永田様に見つかったらどうなると思うてる。あんただけやない。あの人も、千乃も、みんなただでは済まへんのやで。」
「わかってる。」
「わかってへん!」
雪乃の声が夜の境内に響く。
「うちが何のために永田様に頭下げたと思うてるんや。あんたも引き上げておくれやす言うて、どれだけ頼んだか。二人で一緒に芸妓になるんやろ。ここで約束したやないの!」
綾緒は俯いた。
「……堪忍な。」
「堪忍で済むかいな!」
「雪乃が、うちのためにしてくれたことはわかってる。」
綾緒は顔を上げた。
その目に涙はなかった。
「せやから、言えんかったんや。」
雪乃の胸が強く締め付けられた。
「雪乃と一緒におりたかった。立派な芸妓にもなりたかった。これはほんまどす。」
「やったら……」
「でも、永田様のものになるんは……堪忍して……」
雪乃はなにも言えなくなった。
綾緒の言葉は雪乃を責める響きを持たない。
それだけに強く雪乃の胸に突き刺さる。
「あの人と行ったかて、幸せになれるとは限らへん。」
ようやく出た一言は酷く掠れていた。
「へぇ。明日のご飯にも困るかもしれへん。」
対して綾緒の声は落ち着いていた。
「ほな……なんで。」
「うちが決めたことやから。」
綾緒が微かに微笑む。
「どうせ後悔するんやったら、うちはうちが決めたことで後悔したい。」
綾緒が再度夜の底へ視線を送る。
遠くで男が小さく頭を下げる。
雪乃は綾緒の腕を掴んだ。
綾緒の顔が痛みに歪むほど強く。
この手を離さなければ、綾緒は行けない。
ずっと一緒にいる。
二人で芸妓になる。
それは雪乃のたった一つの希望であった。
しかし、綾緒の腕を掴む自分の手が、何故か永田の手と重なって見えた。
これまで目にしてきた、無数の手。
それらと同じものに見えた。
雪乃はゆっくりとその手を離す。
「辻占煎餅……まだ食べてへん。」
「うん。」
「約束、破るんやな。」
「堪忍。」
雪乃は、渋紙の袋から一つを取り出し、綾緒の手に握らせた。
それから綾緒の背後に回り、そっと背中に両手を添える。
「……行きぃ。」
その声は驚くほど穏やかで、優しかった。
「後は、うちがなんとかするさかい。」
綾緒の背中を、雪乃はただ静かに、暗闇の向こうへと押した。




