第一話 二十六節
「……違います。」
羽根駒の声は自身が思うよりも力強いものだった。
雪乃の笑い声が扇の奥でぴたりと止まる。
「何がどす。」
短く言った声は低い。
「今のお話、ほんまのことやおへん。」
羽根駒が言う。
「なにを根拠にそないなこと……」
雪乃が言おうとするのを遮って、
「辻占煎餅どす。」
羽根駒が言う。声は依然として力強い。
雪乃の扇が僅かに揺れた。
「雪乃さん姉さんが毎週水曜日に買うてはる辻占煎餅二つ。
あれは綾緒さんの分と違うおすか?
自分で終わらせたお人の分を、五年間も買い続けはりますか?」
羽根駒が言うと、雪乃は一瞬の逡巡の後、
「……供養どす。うちが殺し損ねた女への恨みを忘れんためのな。」
扇が細かに震えていた。
「ほな、なんでそんなに苦しそうなんどすか……」
羽根駒の声は、先ほどまでの力強さを失い、ただ、か弱いものをいたわるような響きに変わっていた。
「お指……真っ白どす。」
羽根駒の言葉に、雪乃は慌てて扇を持つ手を袂で隠そうとした。
「それに。」
華宮耶が一歩前へ出る。
「今のお話、筋が通っておへん。」
雪乃が華宮耶の顔を見る。
「雪乃さん姉さんは、綾緒さんの背中を押したと言わはった。せやのに、落ちていく顔を見たと言わはった。」
雪乃は顔を歪ませつつ、
「落ちながら振り向いたんや。」
と言う。
「さっきは背中を押した言わはりました。今は、落ちながら振り向いたと言わはるんどすな。」
華宮耶の視線が真っ直ぐ雪乃を射抜く。
雪乃はなにも答えられない。
「それから、雪乃さん姉さんは嫉妬やない、ただのお遊びやと言わはった。
でも、次には肩を並べたような顔が気に入らんかったと言わはった。」
華宮耶の顔は無表情であり、その目はますます強く雪乃を射抜いている。
「さっきから、うちらがなにかを訊くたびに話が増えていきます。
雪乃さん姉さんは、五年前のことを思い出して話してはるんやおへん。
今、この場で話を作ってはります。」
そう言った華宮耶を雪乃は鼻で笑う。
「なんや、言葉尻を捕まえて、賢うなったつもりかえ。
子供の考えることは可愛らしいなぁ。」
華宮耶は懐から一枚の手紙を取り出すと、
「大和田はん。」
と大和田に手を差し出した。
大和田も懐から一枚の紙を取り出した。
華宮耶はそれを受け取り、二枚の紙を並べて提灯の明かりにかざした。
「こっちは、雪乃さん姉さんから届いた呼び出しの書付。こっちは五年前、松村亭へ届いた綾緒さん姉さんの引き祝いの書付どす。この『き』の癖、同じどす。」
雪乃はしばらく紙を眺めた後、興味を失ったように目を逸らす。
「代筆くらい、誰でもしますやろ。」
「へぇ、それ自体は変なことやおへん。」
華宮耶は頷く。
「せやけど、噂がほんまやったとしたら、雪乃さん姉さんは綾緒さんを突き落とした本人どす。
そないなお人に、引き祝いの書付を代筆させるやろか?」
一瞬の間の後、
「お母さんに書けと言われたんどす。」
雪乃の視線は玉砂利の地面に注がれている。
「ほな、なんでお母さんは綾緒さんを突き落としたお人に頼まはったんどすか?」
雪乃は答えられなかった。
「雪乃。」
それまで黙っていた大和田が、再び口を開く。
低い声が境内の静けさに滲む。
「綾緒の引き祝いの日、あんたはどこにおったんや?」
雪乃は一瞬安堵の表情を浮かべたのち、
「なんや、番頭はんは知らへんかったんどすな。うち、その日は風邪をひきましてな。お休みさせてもろたんどす。」
と言う。
「それは知っとる。」
大和田の声は揺らがない。
「あの日、綾緒は顔を隠して、声も出さんかった。人力車からも降りへんかった。」
大和田に続いて華宮耶が問う。
「ほんまにあそこにいてたんは綾緒さんどすか?」
「黙りよし!」
初めて雪乃が声を荒げる。
雪乃が扇をばちんと閉じた。
扇の陰から現れた顔に、笑みはなかった。
羽根駒は真っ直ぐ雪乃を見つめる。
「雪乃さん姉さん。」
一度大きく息を吸う。
「綾緒さんは、あの日あの石段から落ちはったんやおへん。引き祝いより前に、もうどこかへ行かはったんと違いますか?」
雪乃の唇が震える。
「あの引き祝いで、綾緒さんの代わりに人力車に乗ってはったんは、雪乃さん姉さんやったんと違いますか?」
暫く誰も言葉を発さなかった。
やがて、境内奥の暗がりから、玉砂利を踏む足音が近づいてきた。
「もうええ。」
聞こえてきたのは千乃のお母さんの声だった。
「もうええんや。雪乃。」




