第一話 二節
「ほな。雪乃。『黒髪』や。」
お師匠が言って、三味線が奏でられる。
雪乃が舞い始めると、稽古場の空気がふわりと変わった。
羽根駒には、雪乃がまるで白粉を施し、髪を*先笄に結い上げて、黒紋付きの*引き摺りをまとっているように見えた。
係の芸妓が爪弾く稽古用の三味線の音は、いつしか*地方の三味へと変わり、味気ない稽古場の光さえ、お茶屋の薄明かりへと変わっていくように思えた。
間もなく*襟替えを迎える雪乃の赤い襟は大きく裏返され、白の割合を増している。
その細く残った赤色が、今宵限りの華やぎのように見える。
伸びた白い腕、ひらく扇、ふと落ちる肩。
流した涼やかな目線ひとつで、羽根駒の胸には憧れとも嫉妬ともつかない感情が湧き起こった。
艶やかに光る唇が、少し開いて、引き結ばれて、少し緩んでまた閉じる。
それだけで華が散るような輝きが放たれるのだった。
三味線の音が尽きると、雪乃は美しく三つ指をつき、深く頭を下げる。
羽根駒の耳には、その刹那、座敷いっぱいの拍手と嘆息が聞こえた気がした。
雪乃の背中からは、少女のあどけなさが、静かに溶けて消えていくようであった。
ぱちん。
お師匠が扇子を閉じると幻想が弾けた。
なおも呆然としていたのは、羽根駒だけではなかった。
しんと静まる稽古場のその中で、羽根駒は、雪乃の綺麗に揃えられた三つ指が、僅かに震えているのに気がついた。
「うちから言うことは何もおへん。ここから先は…雪乃。あんたが自分で決めなあかんえ。」
お師匠は、それだけ言った。
羽根駒が我に返りきらないうちに、次の名が呼ばれる。
羽根駒たち、若い舞妓の番だった。
隣で舞う華宮耶の舞は天才的だった。
嫌になるほど華やいでいた。
扇を操る手にも、形の良い大きな瞳にも、迷いはまったく見られない。
羽根駒は重ねた稽古と真剣さだけでそこに食らいつくしかない。
「羽根駒、そないな踊りでお座敷に上がろ思とるんか。あんたの代わりはなんぼでもおるわえ。」
お師匠の叱責は羽根駒を追い立てる。
追われるうちに雪乃の震える指先も、お師匠の言葉の意味も、胸の奥深くへ追いやられてしまった。
先笄=襟替えを間近に控えた舞妓が結う髪型。
引き摺り=裾を長く仕立て、室内では床に引いて着る着物。
地方=唄や三味線、鳴物などで舞を支える芸妓。
襟替え=舞妓が芸妓になる節目。赤い襟から白い襟へ替わることに由来する




