第一話 十六節
その晩、羽根駒は松村亭の座敷に呼ばれた。
しかし、なぜか今、帳場奥の隅に座っている。
座敷に上がらなければならない。
頭ではわかっているのに、脚だけは畳に縫い付けられたかのように動かないのだった。
急にふらりと入って来たきり、動かない羽根駒に対し、大和田が言う。
「なんや?迷子か?ここは、支度の間ぁやあらへんぞ。」
揶揄うような台詞だが、声の調子は心配気である。
「へぇ……迷子どす。」
そう言った羽根駒の目は畳をじっと見つめて動かない。
「……待っとき。おぶでも、淹れるさかい。」
そう言って大和田は帳場を後にした。
「堪忍。頼むさかい、これ以上は一歩も進まんといて。うちと約束して。な、そうして。お願いやさかい……!」
千乃のお母さんの名を明かした後、別れ際に豊藤が縋るように繰り返した言葉が、頭から離れない。
「お大尽方にはお衣装の紐が切れた言うてあるさかい……後で話合わせるんやで。」
戻った大和田が、盆に乗った茶碗を差し出しながら言う。
お茶を受け取るも、それを膝に置いてそれっきり動かない羽根駒。
「……はぁー。昨日は華宮耶が八坂さんで妙な顔をしとった。今日はあんたが帳場で座り込んどる。二人して何をしとるんや?」
問う大和田に、
「……言えへん。」
羽根駒が答える。
大和田は、しばらく宙を睨んだ後に、
「……昔もなぁ。そないな顔してここに座り込んだ子ぉがおった。」
そう言って、文机に向き直る。
「その子も、何も言わんかった。おぶを膝の上で冷ましとるところまで、あんたとそっくりや。」
そう言って僅かにくつくつと笑った。
「あの子は、座敷ではよう笑うんや。できた子やさかいな。客が何を言うても、芸妓が横で息を呑んでも、にこりと笑う。せやけど、帳場へ来ると、茶碗持ったまま動かへん。」
そこで暫く間が空いた。
「誰も表では言わへん。せやけど、言わへんことの方が耳につくこともある。あの子は、そんな中でも座敷に戻っていったんや。」
そして顔だけを羽根駒へ向けた。
「あんたら舞妓は、ほんま強いなぁ。動かれへん顔しとっても、最後には自分の足で座敷へ戻りはる。」
大和田が誰のことを思い出しているのか、羽根駒にはなんとなく察しがついた。
それでも、雪乃の苦しみを思えばこそ、どうしていいかがわからない。
そんな羽根駒の視線と畳の間に、分厚い手のひらが割り込んだ。
見上げると大和田の目が羽根駒を射抜く。
その顔には、いつもの惚けた番頭の面影はなかった。
「わいには難しいことはわからん。無理に戻れとはいわん。けどな、ひとつだけ言える。恐れるのは、顔を見てからでも遅うはない。せやろ?な?」
その瞬間、羽根駒は胸のつかえが、すっとおりていくのを感じた。
「大和田はん。おおきに。」
深々と礼をして帳場奥を後にする。
——そうや。うちはまだ、千乃のお母さんの顔も、雪乃さん姉さんの顔も、「この先」の顔もちゃんと見ておへん。




