第一話 十一節
座敷が引けたのは月も高く昇った頃だった。
華宮耶が松村亭の玄関をくぐると、大男が提灯を提げて待っていた。
松村亭の番頭、大和田稔である。
「ずいぶん、お疲れさんやなぁ。」
衣装の重みに足を引き摺るように歩く華宮耶を見て、大和田が言う。
「なんも。うちは普通にしとうだけや。」
華宮耶は能面のように表情を消してそう言った。
先に立つ大和田の後へ華宮耶が続く。
華宮耶のおこぼについた鈴がチリンチリンと音を立てて、祇園の夜に溶けてゆく。
華宮耶はふと何かを思い立って、大和田の背をどんと押した。
大和田はピクリともしない。
提灯の灯りはゆらりともしなかった。
「なんや?」
大和田が振り返りもせずに問う。
「なんもおへん。」
華宮耶は自分の両手を見つめ、頬を膨らませて答えた。
提灯が、暖かくも静かな光を放つ。
「うち……石油よりこっちがええ。」
何の意味もない呟き。
「ほうか……わいは石油も瓦斯も便利やと思う。」
大和田も何の意味もなく応えた。
やがて八坂神社の門前に差し掛かる。
「八坂さん……お参りしとうおす。」
華宮耶が言って勝手に道を折れる。
「ちょ……」
慌てて大和田が華宮耶を追った。
「大和田はんなら、ここから落ちても平気そうどすな……」
石段を見おろしながら華宮耶が呟く。
無意識に名を呼んでいることに気づかなかった。
大和田も特に気に留めない。
お参りをしたいと言ったはずの華宮耶は、本殿には近寄らず、さっきから石段のあたりばかりをうろうろしている。
「せやなぁ。受け身は得意やさかい。
落ちる言うても落ち方次第やさかい。
頭を庇いて腕を車輪と成せ。身の内に硬き骨あらば、たちまち地に砕かれん。ただ円かに、水が器に従う如く転がるべし……」
急に古めかしい文句を誦じ始めた大和田。
その傍で、華宮耶は黙って考え込んでいる。
チリン、チリンと鈴が鳴る。
華宮耶がしきりに足踏みをしているのである。
境内は暗く、灯りは大和田の持つ提灯だけだ。
遠くからは、未だ眠らぬ花街の喧騒が風に乗って響いてくる。
華宮耶は、急に羽根駒に会いたくなった。
大和田の袖口を摘んで言った。
「はよ……帰ろ。」
「お参りは?」
「ええ。はよ。」




