第一話 十節
松村亭は祇園の茶屋でも三本の指に入る大店である。
その晩、そこの座敷に呼ばれた華宮耶は、大店にしては素朴な設えの玄関の敷居をまたいだ。
玄関の脇には帳場があり、帳場裏の覗き窓から異様に大柄な番頭が顔を出す。
「華宮耶か。芙蓉の間ぁや。」
それだけ言って引っ込んだ。
芙蓉の間では既にだいぶ酔いの回った中年男性と青年が芸妓とお座敷遊びに興じていた。
「松一の華宮耶どす。今宵はおおきに。よろしゅうおたの申します。」
見事な三つ指の礼をする。
ただそれだけで男たちが息を呑むのが伝わった。
それからも宴は滞りなく進んで行った。
「まあ、ようおっしゃいますわ。豪気なこっちゃおすなぁ」
芸妓の艶っぽい笑い声が、お座敷の濃密な空気を揺らす。
膳には料亭から運ばれた贅を尽くした料理が並び、徳利から注がれる冷酒が小気味良い音を立てる。
男たちの気さくな哄笑と、紫煙、酒の匂いが混じり合う空間で、いかにも上機嫌な世間話が賑やかに続いていた。
その華やかな座の少し控えた場所に、華宮耶が小さく膝を揃えて座っている。
華宮耶は、重い衣装とだらり帯に包まれながら、お酌の間を測っていた。
男たちの世俗的な笑いと芸妓の洗練された艶が飛び交うこの空間で、華宮耶の纏う初々しい沈黙だけが飴細工のように置かれている。
男たちの視線が時折ちらちらと華宮耶へ送られていることに、その芸妓も気づいていた。
芸妓が横目でちくりと刺してくるのを、華宮耶は目を伏せて躱す。
青年が、笑いながらタバコを咥える。
華宮耶が燐寸に手を伸ばす。
青年の手も燐寸に伸び、偶然を装って華宮耶の手に重なった。
そのとき、華宮耶の視線が青年の手元でピタリと止まった。
青年の手首に包帯が巻かれている。
華宮耶はそっと手を引きながら、青年の手首をじっと見つめた。
「ん?おお、これか?昨日な、夜道で蹴つまずいてもうてな。石段でこのざまや。」
そう言って豪快に笑う。
よく見れば、捲った袖口から覗く肘にも、頬にも、細かい擦り傷がある。
「おまはん昨日もようけ飲んどったさかいなぁ。」
中年男性が言うと、
「それやとわてが飲んだくれみたいやないですかぁ。」
青年が笑う。
華宮耶はそっと青年の足首へ手を添えた。
「ここは?」
上目遣いで問う華宮耶に、
「お、おお、ここは大丈夫や。」
そう言って、ひこひこと動かして見せる。
「それは、ようおしたなぁ。」
ゆらりと、撫でるかのように手を離す。
華宮耶は、蕾がほころぶように微笑んだ。
賑やかさを増しゆく宴の中で、華宮耶だけは、何かに思考を巡らせていた。




