【29】面白くない主人公が生きている世界が、面白くてもいいじゃない
「……」
しばらく、声が出なかった。
脳が痺れて、情報を処理できていない。
開けっ放しの窓から、にゃーにゃーと、猫の鳴き声が聴こえてくる。
しばしイゼルは呆然とデスクチェアーに腰掛けて、天井を仰ぎ続けていた。
やがて……
「……いや、面白いじゃんって」
ぷっ、と。
思わず吹き出してしまう。
(え? 感想、それだけ?)
もっと言いようがあるはずだ。
むしろこんなの、荒らし扱いされるぞと。
文句が山ほど頭に浮かんでは、しかしそれらが、口から溢れ出ることはない。
代わりに……
「……うっ」
喉が、痙攣した。
情けない声が漏れた。
瞳から熱が溢れ出した。
「うぅぅぅ……あぁぁぁ……」
如何にも、彼女らしい感想だ。
言葉足らずで。
ぶっきらぼうで。
配慮がまるで足りない。
だけど、イゼルは知っている。
普段は呼吸をするように嘘を吐くメルルだが、創作に関しては、絶対に嘘をつかない。
彼女が面白いといえば、それは言葉通りの、素直な感想なのだ。
あんなにも、面白い作品を書き上げられる作者が。
こんなにも、卑屈で浅ましいイゼルの作品を。
『面白い』と、評価してくれている。
その事実に、感情が決壊した。
「あぁぁぁ……うぁぁぁ……」
「ちょ、おにぃ!? 大丈夫っ!?」
呻き声が漏れたのか……ドンドンドンッ!
扉の外からモエルの焦った声が、激しいノックの音と共に聞こえてくる。
「だ、大丈夫! ちょっと小指を、ぶつけちゃって!」
「いやそれめっちゃ痛いヤツじゃん! ちょ、入っていい!? 入るよ!?」
「いや、ダメ!」
ほとんど兄妹のようなものとはいえ、高校生と中学生、互いに思春期真っ盛りの少年と少女だ。
部屋の扉に鍵がないとはいえ、入室許可がないと勝手に入らないのは、最低限の共通認識だった。
「じゃ、じゃあ、絆創膏とかいる!? モエルとってくるよ!?」
「いや、大丈夫……大丈夫だから、ありがと……」
「そ、そう……」
その後もしばらくドアの向こう側に佇む気配があったが、部屋の中から反応がないことを察すると、足音が遠ざかっていく。
イゼルはその間も声を押し殺し、震えていた。
悲しいのではない。
悔しいのだ。
(あぁ……やっぱりメルルさんは、『面白い』人だなぁ……っ!)
感想の投稿日を確認すると、最後にメルルディスコで言葉を交わした日から数えて、三日後だった。
イゼルがメインで作品を投稿している投稿サイトではなく、こちらに感想を書き込んだのは、単純に彼女がこのサイトを利用しているからだろう。
初期の投稿作ということで、分量はさほど多くない。
読み慣れた人ならすぐに完走できる短編。
きっと彼女はあのやり取りの後で、この作品に目を通して、感想を書き込んだろう。
そう考えるのが自然だった。
(いや、一体何をどう考えれば、あの状態から、僕の作品を読もうだなんて展開になるんだよ?)
論理として、破綻している。
物語としての整合性がとれていない。
常人の思考と感性で、出来ることではなかった。
だからこそ……凄い。
面白い、と。
少なくともイゼルは、そう感じてしまっている。
(ははっ……完敗だ。いやこれは、勝てないって)
対等だとか。
負けたくないとか。
そんな風に対抗意識を燃やしていたことが、急に馬鹿馬鹿しくなった。
メルルは自分などとは、器が違う。
致命的なほど、人としての普通が欠けている。
だが彼女の場合は、それが良い方向へと作用していた。
だからこそ人間として面白くて。
魅力的で。
ちょっと怖くて。
であるからこそ、あんな作品を生み出せるのだ。
対してイゼルはどうだろうかと、我が身を振り返ってみる。
(小さな嫉妬に囚われて……なんだかんだで、逃げ口ばっかり探して……自分の弱さと、向き合おうとしていなくて……)
こんなの全然、面白くない。
もしこんなつまらない人間が主人公の作品があっても、読者は見向きもしないだろう。
でも……
(……この『物語』は、面白いっ!)
たとえ主人公が、つまらなくて。
凡庸で。
陳腐で。
失敗ばかりを繰り返して、面白くなくとも。
周りにいた人たちや、出来事や、関係性は。
間違いなく『面白かった』。
イゼル自身は面白くなくても、イゼルが生きている世界は、面白さと感動に満ち溢れていたのだ。
だから。
「……ッ!」
スリープモードへ移行していたPCを起動。
執筆ツールを立ち上げて、久方ぶりにプロットを書かず、思うがままに指を踊らせて打鍵した。
メルルと遭遇してからの二ヶ月ほどで、自分が経験したこと。
学んだこと。
驚いたこと。
嬉しかったこと。
怖かったこと。
悲しかったこと。
とにかく自分が『面白い』と思ったことを、思い出しながら、思いつくままに、真っ白な画面へと叩き込み続けた。
幸いにして明日からは、祝日を含めた三連休だ。
時間は十分に足りている。
イゼルは文字通り寝る間も惜しんで、モエルや家族からの心配の声や、ピアからの誘いを断ってまで、執筆に没頭した。
その甲斐あって執筆開始から三日目の昼には、文庫本一冊程度まで新作を書き上げていた。
過去最高の執筆速度であり、満足感である。
(……よし、あとはこれを——)
手癖でサイトに投稿しそうになったが、慌てて中止する。
(——いやいや、ダメだろ。っていうか頭、おっもぉ……)
エナジードリンクなどをぶち込みながらの、ほぼ二日の完徹である。
日頃から身体を鍛えているイゼルとて、もう限界だった。
だがこの作品を、このまま放置するわけにはいかない。
まだ完結していないし……何より実体験を元にしたこの作品は、投稿するのなら、事前に元となった人物に許可を取らなければならないだろう。
その場合、最初に許可を得るべきなのは……
「……」
重く鈍った頭で。
もはや、迷うことなく。
イゼルは特定のユーザーだけに確認できる『限定公開モード』に設定した新作を、メッセージにURLとして添付して、とある人物に送信した。
「……」
そのままゾンビのように立ち上がり、ベッドへと倒れ込む。
一瞬で、気絶したように寝落ちした。
目を覚ましたのは夜半である。
スマホを確認すると、イックスには【つーわ】と、簡素なメッセージが届いていた。
〈作者の呟き〉
筆が乗っているときの、作者の脳内麻薬分泌量は異常ですよね。




