【21】イゼルくんの優雅な日常
夏休みに突入してからも、イゼルの朝は早い。
学校があるときと、同じ時間帯に起床。
支度を整えて、近くの公園へと向かう。
(今日も暑くなりそうだなぁ)
早朝の涼しい空気の中に、早くも夏の熱気が籠り始めていた。
季節の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、軽く柔軟をしていると……
「……おは」
「ん、おはよう、ピア」
とくに待ち合わせなどしている訳ではないが、当たり前のように、爽やかな空気を纏った透明感のある幼馴染が公園に姿を現した。
そのまま自然と二人並んで、ジョギングを始める。
「今日も部活だよね?」
「……ん」
「おにぎりの具、シャケと梅干し、どっちがいい?」
「……どっちも」
「欲張りさんだねぇ」
「……美味しすぎる、ゼルくんのおにぎりが悪い」
他愛のない会話を交えながら、いつもの経路を、いつも通りに無理なく走り続けるイゼルとピア。
「おはよー」
「おはようございます!」
「おはようさん。今日も元気だねー」
「……おはよう、です」
見慣れた少年と少女の姿に、散歩中の老人や、商店街のおじさんなどが声をかけてくる。
二人とも、慣れた態度で挨拶を返していく。
ここ数年、ほとんど毎日繰り返されている、少年と少女の日常だった。
「……ん、じゃあ僕はこの辺で」
「……また、後でね」
イゼルは途中でコースを自宅がある方向へと変更するが、陸上部であるピアは、もう少し走り込みを続けるらしい。
少女と別れた少年は、十数分ほど走り続けて、無事に帰宅を果たした。
すぐにシャワーで汗を流して、ドライヤーで髪を乾かすと、台所に立って朝食の準備を始める。
共働きの両親のため、可能な限り家での食事は、イゼルが作るよう心掛けていた。
「……あー、良い匂いーがするー」
「おはよ、モエル。今日はこの前試作したベーコンを焼いてるんだよ」
「それ絶対うまいやつー」
フラフラ、と。
頼りない足取りで台所に現れたモエル。
はだけたパジャマ姿のまま、調理中のイゼルの背にもたれかかってきた。
「ちょ、邪魔」
「おはよー、おにぃー」
人の話を聞いていない。
まだ半分夢の中だ。
正直危なっかしいが、ここで無理に引き剥がすと拗ねてしまうので、しばらく好きにさせておく。
「んー、じゅうでんかんりょー」
謎のエネルギーを補填したらしいモエルが、ようやくイゼルから離れて、洗面台へと向かっていった。
その隙にイゼルが両親とピアの弁当を詰めていると……ピンポーン。
いつもの時間に、チャイムが鳴る。
「はいはーい。今行くー」
出来たばかりの弁当箱を持って玄関に向かうと、扉の向こうには、部活用に身支度を整えた幼馴染の姿があった。
「はい、部活頑張ってね」
「……ん、頑張る」
ギュッと。
手渡された温度を確かめるように。
両手で弁当箱を包み込んだ少女の顔に、小さな笑みが咲く。
表情の乏しいピアにとっての、最上級の笑顔だった。
「ほらピアねぇ、弁当受け取ったんだから、さっさと部活に行くの!」
直後に……ドスン!
背後から衝撃がイゼルを襲った。
洗面所から玄関まで直行したモエルが背中に抱きつき、横からナマイキそうな瞳で、すでに無表情を取り戻したピアを睨みつけている。
「……まだ寝癖、ついてるよ」
「……っ!?」
華麗なる反撃に、モエルの表情が強張った。
「え、うそっ!?」
「……うん、嘘」
「……っ! もう、いいから早く部活行ってよ! ピアねぇがいると、モエルのご飯が準備してもらえないの!」
「……少しくらい、自分で作ったら?」
「おにぃがいるから、必要ありませ〜んっ♡」
「いやそこは、少しは自炊しようよ。将来のためにさぁ」
イゼルが建設的な意見を述べるが、残念ながら、視線で火花を散らす少女たちには届かない。
その後も少し、いつものいがみ合いを済ませてから、ピアは学校へ、モエルは食卓へと向かっていった。
「……じゃ、またね」
「うん、いってらー」
「おにぃ、早く早く! モエルもぉおなかペコペコだよぉ!」
「はいはい」
そうしてイゼルの日常は、今日もまた穏やかに、始まりを告げるのだった……
⚫︎
『……ふっざけんなぁアアアアアッ!』
そんな平穏な日常は、非常識が擬人化したような少女によって、容易く粉砕される。
だが今回ばかりはその憤りに、イゼルも深く共感していた。
「これは……酷い」
『うわー。ホントにこういうの、あるんだねー』
『うーん、一体何を目的としての、行為なんでしょうかね?』
【馬鹿の行動に考えなんてないよ】
メルルに呼び出されてディスコサーバーに集まったムーンにヤスオ、ロッキーも、きっと画面の向こう側で顔を顰めているのだろう。
それほどまでに、メルルがWebサイトに投稿したばかりの新作に寄越されたレビュー……
否。
もはや『怪文書』と呼ぶべきそれは、常軌を逸した内容だった。
(どうして……この人は、こんなことができるんだろう)
Web作家にとってレビューとは、単なる数字ではない。
自分の作品を読んだ読者が、わざわざ時間を使って残してくれた評価の証だ。
だからこそ、たとえ厳しい内容であっても。
それが作品を読んだうえでの評価ならば。
真摯に受け止める作者は少なくない。
だが今回の怪文書は、そもそも作品を読んですらいなかった。
記載内容は作品とは全く関係ない『電撃引退した某アダルト女優に対する個人的な誹謗中傷』を、長々と書き連ねたものである。
(自分が傷ついたからって、他人を傷つけていいわけがないのに)
見る堪えない文面を、吐き気を抑えてなんとか読み切る。
どうやらこの怪文書の投稿者は『推していた女優に裏切られた憤り』を、語っているようだった。
ふざけるな、と。
怒鳴りつけてやりたい。
作者の大事な作品に、醜い汚物を投げつけるような所業をしたところで、一体誰が救われるというのだろうか。
しかも使い捨てのアカウントで投稿された怪文書は、メルルの作品だけでなく、十数作品に向かって一斉に投げつけられていた。
匿名性を利用した、純然たる悪意である。
なんの前触れもなく、理不尽な事故に遭ったかのような衝撃だ。
世の中には、他人の痛みを想像できず、こういうことを平気でする人間が本当に存在している。
『うわー、イックスでも話題になってますねー』
ヤスオの報告通り、この怪文書の被害者たちが、SNS上でやるせない憤りを語っていた。
なかには初めてのレビューで、このような悪意を叩きつけられたことで、もう投稿を止めると宣言してしまった作者もいる。
「……とりあえず運営に通報しましょうか」
『それじゃあ生ぬりぃよ! ロッキー、ハッキングとかで犯人特定できねぇのか!?』
【無茶言うな】
『でも今は、開示請求? ってやつができるんでしょー?』
『確かに昔より手続きは簡略化されていますが、それが権利侵害だと認められるかは、また別問題ですよ?』
この程度では、犯人を法的に追求することは難しい。
きっと犯人も、その隙間を理解したうえでの犯行なのだ。
そして何よりも、悪質なのが……
「……それで、どうしますかメルルさん? 消します?」
『え、そんなの消す一択じゃないのー?』
『でもそうすると、せっかくのポイントも消えてしまうんですよ』
胸糞悪いことに。
怪文書には、ランキングに必要な高評価が付与されていた。
作者たちはこのポイントのせいで、怪文書を、消すか消さないかの葛藤を強いられているのだ。
『消すよ! ウチの作品に、こんなゴミはいらねぇ!』
「……そうですよね」
すでに他の読者から真っ当なレビューを頂戴しており、連日の広報活動の成果もあって、順調にランキングを駆け上がっているメルルに迷いはなかった。
有言実行。
次の瞬間には、画面から削除された怪文書。
果たして自分ならどうするかと、イゼルは考える。
(たぶん……すぐには、消せないな)
少なくとも。
ポイントが正式に加算される、日付変更までは。
この重苦しい気持ちを抱えながら、怪文書を残してしまうことだろう。
そんな弱小読者たちを嘲笑うように、怪文書の投稿者は、日付が変わる直前に自らそれらを削除していた。
⚫︎
そして……皮肉なことに。
この怪文書事件の被害者として注目されたメルルの新作は、一気にランキングを駆け上がった。
〈作者の呟き〉
こうした悪質な利用者への対策は、もう少し強化されて欲しいものですね。




