第三二話 帰る場所
承香殿での役目を終え、花影は正式に菖蒲邸へと帰還した。
牛車が階に着くなり、階隠の間へとシヲンが転がるように駆けてくる。
「お帰りなさいませ、奥方様。……今度こそ、本当に」
先日、束の間の帰還を果たしたが、それは羽休めのようなもの。
すぐに宮中へと戻らなければならない、慌ただしいものだった。
花影はゆったりとした動作で牛車から降りた。
シヲンがすぐに手を差し出し、介添えする。
「ただいま、シヲン。今回女房をやってみてわかったのだけど」
花影は大きく息を吐いた。
「あなたのすごさがよくわかったわ。本当に、よくやってくれていたのね、シヲン。ありがとう。私は貴方の足元にも及ばないわ」
シヲンは苦笑しながら首を横に振った。
「勿体ないお言葉でございます。シヲンは奥方様にお仕えでき、実に幸せ者でございます」
うっかり涙をこぼしたシヲンを花影が労っていると、ぱたぱたと軽い足音が近付いてきた。
そして途中で転んだ。
「花影おばうえ! おかえりなさい!」
藤波だ。
「ただいま戻りました、藤波殿」
跪いて腕を広げてみせると、藤波は迷いなく飛び込んできた。
「うふふ。ひさしぶりだね、やっと帰ってきた! 僕、まちどおしかったのよ」
頬を寄せ、嬉しそうな藤波に、花影も顔をほころばせた。
「はい。やっと戻りました。ところで藤波殿、先程転ばれませんでした? どこか痛いところは?」
藤波はにっこりと笑って花影の首に抱き着いた。
「ぜんぜん、なんともないよ。花影おばうえは、あいかわらずしんぱいしょうね」
無邪気な声が、身体の芯に残っていた緊張を溶かしていく。
帰って来たのだと、思う。
ここ菖蒲邸が、花影の帰る場所になっていたのだと、改めて思った。
(私はもう、月白の者ではなくて、菖蒲の北の方なのだわ)
理屈ではなく感情で、そう思う日が来るなどと、想像もしなかった。
「花影おばうえ、こんなところにいたら、冷えちゃうよ。はやく、奥へまいりましょう。いつ帰ってきてもいいように、ととのえてあるのよ」
花影はシヲンを見た。
シヲンは得意げに頷く。
「万端整っております」
「花影おばうえと食べようとおもって、お菓子を用意してあるのよ。さあ、はやく」
うきうきと手を繋いで先導してくれる藤波に、花影は少しだけ腰を屈めて続く。
シヲンが涙を拭きふきその後ろに従った。
久し振りの自分の室は、随分と広く感じられた。
女房の局と比べれば雲泥の差だ。
「やっぱり、北の方って贅沢な暮らしをしているわね」
「何を仰いますやら」
シヲンが何度目かの苦笑した。
「女房修行に行っておられたのではないのですから、心を確とお戻しくださいませ、奥方様」
「そうよ! 花影おばうえは菖蒲の北の方よ! このやしきで一番えらいのよ!」
「一番は、瓊花殿でございましょう。……いや、もしや初霜様が?」
「何を戯けたことを言っておる」
呆れた声が掛かり、振り返ればそこに初霜が居た。
サキクサが深く頭を下げる。
「お帰りをお迎えするのだと仰いまして——お疲れのところを急襲し、申し訳なく」
花影は苦笑した。
「サキクサも、相変わらずの様で何よりだわ。義姉上様、わざわざのお出迎えをありがとう存じます」
「うむ、悪いかとも思ったのだが、やはりきちんとそなたの顔を見なければと思うてな」
初霜は許可も得ずに茵に座り、サキクサに小言を言われていた。
(——やはり、菖蒲邸で一番偉いのは義姉上様で間違いはないわ)
花影も苦笑しながら座った。
途端に初霜に怒られる。
「何をしておる。そなたが座るのは上じゃ、上。ここではそなたが主ぞ」
ぺちぺちと畳と茵とを叩いて、初霜が怒った。
花影は頭を下げつつ茵に座り直した。
「さて、藤波。母はこれから叔母上と、少々小難しい話をする。しばし下がれ」
藤波は頬を膨らませた。
「えー、花影おばうえは、これから僕とお菓子をたべるのよ」
「後にせよ。菓子は逃げぬ」
「……はーい。じゃあ、おばうえ、あとでね」
「はい。後ほど」
サキクサに連れられ藤波が下がり、シヲンも一礼して下がった。
初霜が姿勢を正した。
「まずは、長の役目、ご苦労であった」
「畏れ入ります」
「凡その顛末は瓊花に聞いておるが、そなたには辛い思いをさせた。すまなんだ」
初霜が頭を下げ、花影は驚いて膝立ちになった。
「何を仰います! 頭をお上げください、義姉上様!」
「わたくしの見立てが甘かった。すまぬ」
「いいえ、義姉上様。良い経験でございました。宮中女房の真似事もできましたし、知らぬことをたくさん学んで参りました。そして、私への中傷もどうやら収まりそうでございます。万事義姉上様の御口添えがあってのこと。どうか、謝らないでくださいませ」
初霜は頭を上げ、苦笑を深くした。
「そなたは、本当に良い女子じゃの。まったく、また女振りを上げおった。これでは瓊花はますます骨抜きとなろう」
花影は困ったような照れたような表情をして、視線を逸らせた。
初霜は珍しいものを見たと、目を丸くした。
「そなた、ようやっと瓊花の想いに気付いたか」
「……ええと、あの——。はい。大切に思ってくださっていること、嬉しく思います」
初霜は深く頷いた。
「よかった。よかった。これで丸く収まるな」
だが、花影の複雑な表情に気付き、初霜は目を細める。
「——そなたは」
「はい」
「瓊花はともかく、そなたは瓊花をどう思っておるのじゃ」
曖昧な笑みを浮かべ、花影は言葉を選んだ。
「正直、まだ、よく、わかりません」
ゆっくりと言葉を探し、花影は視線を揺らした。
「瓊花殿は良い方です。素晴らしい夫です。そのことは間違いないのですが——」
この気持ちが何なのか、まだわからない。
良い人だと思っている。好きか嫌いかで言えば好きだ。
けれど、それが恋やら愛やらとなると、判断がつかない。
「良い年をして、己の気持ち一つわからぬ未熟者でございます」
初霜は柔らかな微笑を浮かべ、そうか、と一つ頷いた。
その日、月白邸からも文が届いた。
弟夫妻と大姫から、合わせて三つ。
まさか宮廷に居たとは知らなんだ、という驚きと、無事でよかったという安堵と、宮廷に出かけるのならむしろ月白邸へと遊びに来い。
そんな催促の文面に、花影は大いに笑った。
笑いながら、涙がぽろりとひとつ零れた。
大姫の文は仮名文字ばかりで、拙い手蹟だったけれど、会いたい、と一生懸命に思いが綴られていた。
「わたくしは、まいにちてならいをしております。おばうえのいうことをちゃんとまもっております。ですから、おばうえにみていただきたいことが、たくさんたくさんできました。はやく、おあいしたいです」
花影は大姫の文を抱き締め、泣いた。
愛しい姪の、精一杯の愛情を感じ、今すぐに抱き締めに行ってやりたいと思った。
もう二度と、会えないことすら覚悟して出て来たけれど、どうやらまだ、別れは先のことのようだ。
内裏に行けたのだ。月白邸に行くことなど、何の障りもない。
花影はもう一度文を抱き締めると、大切に文箱へとしまった。
夜になり、瓊花が戻った。
花影が出迎えると、蕩けるような笑みを浮かべ、そっと手を伸ばしてくる。
花影は邪険に振り払わず、そっとその手を取った。
「やはり、あなたがこうやって出迎えてくれるのが、一番良い」
瓊花が心の底からといった風に呟いて、花影は少しだけはにかんだように笑った。
「もう、離したくありません。どうかずっと、このまま菖蒲に居てくださいね」
花影は答えなかった。だが、契約だからと切り返しもしなった。
ただ微笑んで、瓊花の手を握る。
瓊花も深追いはしなかった。ただ、手を握り合い、微笑み合う。
それだけ。
それで十分。
(駒だからではなく、私は、私として、ここに居たいと思っております)
心の中でだけ、そっと囁き、花影は瓊花を見上げた。
視線に気付き、瓊花は柔らかく微笑んで——
空気は乾ききり、星々は吸い込まれそうなほど鮮明に瞬いている。
月光は白木の柱や簀子を淡く照らし、すべてを静謐な色へ染めていた。
麗景殿。
蛍袋の姿はそこにはない。蘇芳女御は静かに灯を見つめ、唇の端を持ち上げた。
「さて、次はどうするか……」
柔らかく穏やかな声音だが、芯は外の空気よりも冷え冷えとしていた。
冬の闇は深く、それでいてどこまでも澄み、心まで洗われるような静けさを湛えていた。
夜は、月光と静寂だけを伴いながら、音もなく更けてゆく。
けれど菖蒲邸の灯りは温かい。
花影は瓊花の隣で、その灯を静かに見つめていた。
第一部 了。




