第三一話 名乗り出る時
夜明け前。
承香殿は、まだ薄闇の中にあった。
「お戻りです」
その一言で、殿内の空気がわずかに張る。
几帳の向こうから現れたのは、花影——ユカリだった。
装いは以前と変わらない。
乱れもなく、俯きもせず、淡々と歩を進める。
「ご不便をおかけいたしました」
それだけを告げ、静かに座に着く。
誰も、噂のことを口にしない。
慰めも、詮索もない。
この場にいる者たちは理解していた——
ここで余計な言葉を重ねることこそ、無粋であると。
承香殿は、何事もなかったかのように、朝を迎えた。
殿上の間。
殿上人たちが居並ぶ中、菖蒲中将瓊花が進み出た。
私語が止み、視線が集まる。
瓊花は、ゆっくりと一礼する。
「近頃、宮中に流れている噂について、申し上げたい」
騒めきが走る。
「承香殿の女房が、男と密会していた。その男が誰であるのか、様々に憶測が飛び交っているようだが——」
瓊花は顔を上げ、まっすぐに殿上人たちを見据えた。
「その男は、他ならぬ私である」
空気が凍り付いた。
「そして、噂の女房——ユカリは花影であり、私の北の方だ。仰々しく参内するのを控えたため、余計な誤解が広がったようだが」
一拍の沈黙。
否定も、言い訳もない。
声は低く静かで、だが揺るぎがなかった。
「正当な夫婦の往来を、乱行と呼ぶのであれば。それは、私への非難として受けよう」
瓊花は、わずかに視線を巡らせる。
「だが、妻の名誉を貶めることは許さぬ」
扇を閉じる音が、殿上の間に響いた。
「以上だ」
それだけを言い残し、瓊花は下がる。
殿上の間には、しばし誰も言葉を発せぬ沈黙が落ちた。
噂は、ここで終わった。
殿上の間の騒ぎは、当然王の耳にも届く。
「瓊花が宣言したようだね」
楽し気な王の言葉に、蔵人頭が静かに頷く。
「蜂の巣をつついたような騒がしさでございますな」
「渦中の女房ユカリが、菖蒲の北の方、花影だったとはね。藤黄青星も驚いたんじゃないかな」
「で、ございましょう。——噂の根を断つには、最も明確な手でございますな」
「うむ」
王は、扇をゆっくりと閉じた。
「正当な夫婦であるのだ。非難の余地はない。むしろ、噂を弄した者の方が、慎むべきであろう」
それ以上は語らなかった。だが、王の判断は既に示されている。
——この件は、菖蒲家に非はない。
それだけで、十分だった。
麗景殿では、蘇芳木蓮が笑い転げていた。
「ははは、まさか、北の方だったとはな! 私もその場に居たかった。ああ、瓊花殿はどんな顔をしておられたのやら」
「木蓮、笑い過ぎよ」
そう言う蘇芳女御も、唇の端を緩めている。
予想外の出来事だった。
だが、この姉弟にとっては、思ったよりも面白いものが見られて上々、といったところだ。
「しかし」
木蓮は笑いを収め、扇を指先で弄びながら言った。
「綺麗に噂を潰されましたね。火が上がる前に、水を被せるどころか、火元ごと消された」
「ええ」
女御は、静かに頷く。
「殿上の間——王の御前で名乗り出る。しかも”噂の男”として」
ふ、と小さく息を吐いた。
「まったく見事な手腕ですこと」
「殿上人たちの目も、すっかり菖蒲に傾きました。そして、”噂を流したのは誰か”という視線が、今度はこちらに向き始めている」
蘇芳女御は、ゆっくりと扇を閉じた。
「藤黄青星は存外使えぬ男だったわね」
「月白憎しの一直線な方ですからね」
「お父様にも、度を越さぬよう釘を刺されてしまったし——今回はここで幕引きかしら」
「では、如何致しますか。蛍袋を」
「そうね」
蘇芳女御は扇を弄び、小首を傾げる。
「麗景殿まで辿られても面倒ね」
木蓮は肩をすくめた。
「辿られておりましょうけれど」
蘇芳女御はにっこりと微笑んだ。その笑顔に一点の曇りもない。
「裏で何を握られようと、表沙汰にならねば良いのよ」
「ふふふ、恐ろしい女御様だ」
木蓮はうっすらと唇を笑みの形に引き上げる。
だが目は冷ややかなままだった。
「——此度、菖蒲は確と”守った”。なら、次は」
「ええ。そうね」
女御の声は、ひどく穏やかだった。
「守らせ続けて差し上げましょう。どこまで耐えられるか、見物ですもの」
ふふふ、と。
笑いが溶けて消えた。
殿上の間で宣言をしてすぐに、瓊花は承香殿へと足を運んだ。
協力してくれた皆に、特に菖蒲女御には顛末を伝えなければならない。
迷いなく歩みを進める瓊花の視線の先、艶やかな女房装束が揺れた。
瓊花の目元が和らぎ、ふわりと溶ける。
出迎えに出たのはユカリ。
彼女は微笑み、そっと頭を下げた。
「ご案内致します」
瓊花は頷いた。
「宜しく頼む」
導かれた菖蒲女御の側には、女房達が整然と控えていた。
岩鏡、七里香、桔梗、そして尽力した幾人かと、末席にはフチナ。
菖蒲女御が微笑む。
「お疲れ様でございました。首尾は?」
「上々」
瓊花は座につき、その隣にユカリが座した。
瓊花はそれぞれの顔を一人ずつ、見つめた。
「皆、よくやってくれた」
そして協力してくれたすべての女房たちへ向けて、瓊花は労いの言葉を掛けた。
「菖蒲は瑕疵一つなく、事を成し終えた。我が北の方、花影への中傷も遠からず消え去ろう」
菖蒲女御が満足げに頷いた。
「褒美を授けましょう。何が良いかしら。衣、薫香、それとも絹布? 調度や品々、望みの物を言いなさい。瓊花殿が叶えてくれてよ」
ユカリが苦笑し、瓊花は片眉を上げた。
「女御様、あまり大きなことを仰られても困ります。菖蒲とて打ち出の小槌ではないのだから」
「あら、女房達の望むものくらい、難なく出してくれましょう?」
またも火花を散らしそうな二人に、岩鏡が額を押さえた。
ユカリが堪えきれずにくすりと笑い声を零す。
瓊花はそれを見、柔らかく微笑んだ。
「我が愛しき妻が笑ってくれるなら、安いものか。良かろう、望みの物を言うがいい」
楽し気な笑い声が幾重にも承香殿に響いた。
白砂には散り敷いた紅葉が彩りを添え、錦を広げたような趣を見せている。
菊だけがなお凛として咲き、過ぎゆく秋の名残を留めている。
時折、小鳥が枝から枝へ渡る羽音だけが澄んだ空気を震わせていた。




