第三十話 つかまえた
承香殿。
蛍袋が買収した飛香舎の下臈が、何かを探すような素振りをしていた。
多くの女房たちは気にも留めない。
下臈の——下級の女房の顔など、いちいち覚えてはいまい。
(ところが、私はしっかりと、覚えているのですわ!)
七里香は親切を装って、彼女に近付く。
「何かお探しです?」
「ひっ」
下臈はびくりと肩をふるわせた。
「もしかして、お文を届ける先の局がわからないかしら? あなた、飛香舎の者よね」
にこにこと言い募る七里香に、下臈の顔色がどんどんと青くなっていく。
「えと、あの……」
「飛香舎の者が、どうして麗景殿の蛍袋さんのお使いなんてしてるんです?」
下臈の顔は青を通り越して白くなった。
「あ、あ、あの」
唇を震わせて、今にも失神しそうな下臈に、七里香はにたりと笑った。
獲物を見つけた猫のような顔だった。
扇の影で、密やかに、問う。
「承香殿で噂の女房、そこに通う男を見たと言え、とか言われました?」
下臈は息を呑み、そのまま失神した。
「おっとー。やりすぎちゃったか。失敗失敗」
意識を取り戻した下臈は、自分を見つめる顔に気付き、再度気が遠くなるようだった。
そこにあったのは七里香の顔だ。
「あ、こらこら、意識をしっかり」
「七里香どの、脅かさないの」
ぺちぺちと濡れた手巾で頬を優しく叩かれ、下臈は桔梗に抱き起された。
「大丈夫よ。落ち着きなさい。取って喰いやしませんよ」
「そうそう。まずは洗いざらい吐いてもらいましょうか」
「だから七里香どの、脅さない」
桔梗が溜息を吐いて、下臈に向き直った。
「飛香舎に仕える下臈ですね。貴方、頼まれたことをやり遂げたら、藤黄女御様に不利益であることは、わかっているかしら?」
「え、え——だって、蛍袋様が、私は”あくまで目撃者”だから、ただ言われた通りに言えば良いと——」
七里香は下臈の言葉を意図的に遮った。
「あなたそれ本当にそう思ってる?」
七里香に問われ、下臈はびくりと肩を震わせた。
ゆっくりと、噛んで含めるように七里香は、言う。
「本当はわかってますよね。あなた、使い捨てにされますよ」
桔梗も控えめに同意した。
「そうね。蛍袋どの——麗景殿に繋がる糸はすべて切られると思うわ。貴方を含めて。いいえ、蛍袋どのさえも、かもしれないわね」
下臈は震え出し、堪えきれずに泣き出してしまった。
「わたし、わたし……どうしたら……」
しゃくりあげる下臈に、七里香はさらりと提案した。
「助けてあげましょうか」
桔梗が言葉を添える。
「貴方がすべて、正直に話すというのなら、ですけれど」
下臈は嗚咽を噛み殺そうとするが、肩が小刻みに震えて止まらない。
相当怯えているなと、七里香は冷静に観察した。
「……わたし、そんなつもりじゃ……ただ、言われた通りにすれば……」
「ええ、ええ。そうでしょうね」
七里香は扇を閉じ、目線を合わせた。
声は先ほどまでとは打って変わって、やけに優しい。
「下臈の身で、命じられることを断るのは難しい。砂金を渡されて、名まで覚えられて——断れという方が酷です」
下臈は、驚いたように七里香を見た。
「……怒らない、のですか?」
「怒る理由がありませんわ」
七里香はにっこりと笑う。猫のような笑みだ。
「あなたは”噂を作った人”ではなく、”利用されかけた人”です」
桔梗が、そっと椀を差し出した。
「喉を潤しなさい。大丈夫、ご安心なさい」
下臈は震える手で水を受け取り、少しずつ飲んだ。
「……蛍袋様は」
幾分か落ち着きを取り戻した声で、下臈は語り始めた。
「承香殿の女房が、男と密会していたのを見た、そう言えと……男は一人ではなかった、と……」
下臈は、唇を噛んだ。
「それが、引いては藤黄女御様の御為にもなると、仰ってて……」
七里香は眼を細めた。
「麗景殿の蛍袋さんに、そう言われたと、証言できますか?」
そして桔梗が言葉を添える。
「証してくれるなら、守ってあげられますよ。飛香舎の方々への釈明も、承香殿が請け負います」
下臈は、椀を持つ手を強く握りしめた。
「……証言、など……」
喉が鳴る。声が震える。
「そんなことをしたら、わたしは……」
その様子を静かに観察し、七里香は息を吸った。
「切られるかしら?」
七里香は、あくまで穏やかに言った。
「そうでしょうね。麗景殿からも、飛香舎からも。——でも」
七里香は下臈から視線を外さない。
「何も話さなくても、切り捨てられますよ」
下臈の顔から血の気が引いた。目に見えて白い。
七里香は畳み掛ける。
「蛍袋さんは、”目撃者”を欲しがっているだけです。名前のある証人ではない。まして、守る価値のある存在でもない」
桔梗が、静かに続けた。
「貴方が役目を果たしたら、それで用済み。もしも、果たさないと判断されれば、別の都合の良い駒を置くでしょうね」
下臈の唇が震えた。その色も、血の気を失い紫に近い。
七里香は、ほんの少しだけ声を落とす。
「でも、承香殿は違います」
柔らかく、優しく、囁く。
「……え?」
「私たちが、欲しいのは”事実”です」
七里香は、にこりと笑った。
「あなたが正直に話すなら。誰に命じられ、何を言わされ、何を約束されたのか。そのすべてを語るなら——」
勿体ぶって間を取って、七里香は微笑んだ。
「あなたはただの“駒”ではなく、”真実の証人”になります。我々にとって、必要な人となるのです」
下臈の目に、再び涙が溜まった。
「……本当に、守ってもらえるのですか」
「ええ」
桔梗が、はっきりと頷く。
「承香殿の名において。あなたが飛香舎で不利益を被らぬよう、取り計らいます」
「里下がりも……?」
「必要とあらば」
七里香が続ける。
「名前を変えることも。配置を変えることも。あるいは菖蒲邸で働く、なんて道もあるかもしれませんね。まあ、それは上の方々のご意向次第ですけど」
下臈は、堰を切ったように泣き出した。
「……わたし、怖かった……」
「でしょうね」
七里香は、責めるでもなく受け止めた。
「では、話してもらえますね。例えば、菖蒲女御様の御前でも」
下臈は、何度も頷いた。涙を拭い、震える声で言う。
「話します……全部……」
「と、いう訳で。麗景殿の蛍袋さんが、色々と工作してくださってることを証言してくれるそうです」
下臈はフチナと名乗った。
菖蒲女御の前に引っ張り出され、額を床に擦り付けるようにして平伏している。
菖蒲女御の隣には瓊花が座していて。
王に次ぐとまで言われる菖蒲家当主の前に引っ張り出されたフチナは、風前の灯のように震えていた。
「すべて、佳いように取り計らおう」
瓊花は約束する。
麗景殿の女房、蛍袋に、承香殿で噂の女房——ユカリの局に通う男を見たと言え、と命じられた。
フチナは瓊花にそう証言した。
蛍袋——麗景殿の女房の一存では、あるまい。背後には蘇芳家が居ることが確実だ。
「だが、菖蒲家も正面切って、蘇芳家と遣り合いたい訳では無いのでな」
図面を描いたのが誰であれ、糸を引いたのは蛍袋。
そこさえ証しできれば十分だった。




