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第二九話 夫婦の会話

 秋の夜はどこまでも長く、時の流れさえ緩やかに思われる。

 菖蒲邸の奥。

 灯りは最小限に抑えられ、几帳の内には二人だけが居た。

 花影(はなかげ)は、茵(しとね)に座したまま、しばし沈黙していた。

 対面に座る瓊花(けいか)もまた、扇を膝に置いたまま口を開かない。

 虫の音が絶え間なく響き、夜の深さをひとつずつ刻んでゆく。

 柔らかな菊花香がほんのりと漂い、夜の澄んだ空気へ溶け込んでいく。

 先に息を吐いたのは、花影だった。

「……想像していたより、厄介なことになりましたね」

 声は静かで、淡々としている。

 抑えようとしているというよりは、溢れ過ぎていて、却って静かに感じられる。

「後宮は、思っていたよりもずっと、誰しもが牙を研いでいるのですね。私は覚悟が甘かった」

 瓊花は、ゆっくりと首を横に振った。

「違う」

 短い否定だった。

「あなたのせいではありません。標的は最初から“菖蒲家”だ。あなたは……その盤面に、丁度よく置かれてしまっただけです」

 そして、そこに置いたのは瓊花自身だ。

 灼けるような後悔が身を苛(さいな)む。

 その痛みを感じ取り、花影は僅かに目を伏せた。

 雁の声が遠く響き、胸にもの寂しさを残して消えていった。

「それでも、噂の渦中が”私”であることには変わりありません」

 膝の上で、指先がきゅっと結ばれる。

「私でなければ、菖蒲家にこのような傷はつかなかったでしょう」

 悪評高い月白の姫。年増の醜女。気性は荒く気難しい。

 花影を罵る言葉は限りなく湧いて出る。

 かつては気にならなかった。

 傷付かないわけではなかったけれど、そこまで心に止めることもなかった。

 けれど、今は。

 花影は吐息と共に、その言葉を零した。

「——月白の姫は、菖蒲の北の方に相応しくはない」

 瓊花のこめかみが、かすかに引き攣った。

「……それを、あなたが言わないでください」

 低い声だった。

 花影は、驚いたように顔を上げる。

「瓊花殿?」

「あなたは、十分以上に役目を果たしている。危険を承知で、矢面に立ってくれている。それを“自分のせい”などと言われたら——」

 言葉が途切れた。

 喉が震える。

 瓊花は、一度だけ深く息を吸った。

「私は、一体何のために怒っているのか」

 御簾が風に揺れ、月影が室内へ細く差し込んだ。

 花影はしばらく瓊花を見つめていた。

 そして、ほんの少しだけ、表情を緩める。

「……怒って、いらしたのですね」

「当然です」

 即答だった。

「あなたの名誉を踏みにじられた。それだけで、十分すぎる理由だ」

 花影は静かに笑った。

 柔らかく、優しく、そして哀しく。

 瓊花は言葉を続ける。

「あなたは私の妻です。私が守る。そう決めたというのに——実際のところ、どうです。菖蒲の名はあなたを傷付けてばかりいる。私は、菖蒲の当主だというのに……」

 瓊花は、そこで言葉を切った。

 扇を握る指に力が籠もる。

 みしりと扇が軋む音がした。

「私は、なんと無力なのか——」

 花影の肩が、ほんのわずかに揺れた。

 瓊花は懺悔するように言葉を続けた。

 止まらなかった。止められなかった。

「名を持ち、権を持ち、剣をも持つ。それでもなお、あなた一人を、穏やかな場所に置いて差し上げられないとは——」

 声は低く抑えられていたが、滲むものは隠せていない。

 瓊花は瞼をぎゅっと閉じた。

 口にしたくない言葉だが、口にせざるを得なかった。

「やはりあなたを選んだのは、私の罪ではないか——そう思う瞬間が、正直、あります」

 そう。罪。

 すべてを甘く見積もっていた。

 幼い頃の憧れを手に入れたかった。

 こんなにも惹かれるとは思っていなかった。

 襲い来る障害が、ここまで痛みを伴うとは思ってもみなかった。

 すべてが見込み違いだ。

 読み間違えた、己の咎だ。

 けれど、花影はゆっくりと首を振った。

「いいえ」

 否定の言葉だが、声音は柔らかい。

「それは違います、瓊花殿」

 瓊花が顔を上げる。

 泣きそうに潤む眸に、愛しい顔が滲んで見える。

 花影はそっと唇を開いた。

「私は自分で選びました。貴方の提案に乗ることも。菖蒲の北の方になることも」

 花影は、真っ直ぐに瓊花を見据えた。

 その眸は澄み切っていて、嘘はない。

「後悔はしておりません。傷も痛みも、受けることは承知の上。その上で、私は選んだのです」

「……ですが」

 言い募る瓊花の言葉を、花影はそっと袖を上げて遮った。

「ただし」

 花影は、言葉を重ねた。

「一つだけ、訂正してください」

 強い意志を込めた言葉に、瓊花は黙って続きを待つ。

「菖蒲の名が、私を傷付けているのではありません」

 花影は、静かに息を整えた。

「私を傷付けているのは、菖蒲を狙う者たちの悪意です。そしてそれは、貴方の罪ではありません」

 瓊花の目が、僅かに揺れる。

「私は、矢面に立つ覚悟があります。けれどそれは、”捨て身”ではありません」

 花影は、そっと茵の縁に指を置いた。

「私は、無事に戻ってきます。必ず、こ(・)こ(・)へ」

 その言葉に、瓊花の喉が小さく鳴った。

「……強いな、あなたは」

 泣きそうに笑って、瓊花は言った。

 花影は少しだけ冗談めかして肩をすくめた。

「強がりです。でも、それも踏まえて私です」

 花影は微かに笑う。

「ですから、瓊花殿も——一人で背負わないでください」

 瓊花はそっと吐息を零す。

「私が、菖蒲の当主だから?」

 花影は首を横に振った。

 静かだが、確かな否定だった。

「いいえ」

 花影は、ほんの一瞬、視線を逸らし、そしてまた戻した。

「私の夫だからです」

 沈黙が落ちた。

 人の声が絶えた邸には、夜そのものが静かに満ちていた。

 やがて、瓊花は扇を閉じ、膝の上に置いた。

「……約束します」

 低く、確かな声だった。

「あなたを守ります。ですが同時に、あなたの覚悟を、踏みにじらないと誓います」

 花影は、静かに頷いた。

「それで十分です」

 二人は、それ以上言葉を交わさなかった。

 だがその沈黙は、先ほどまでの重いものではない。

 互いに、同じ戦場に立っていると感じた。

 その確認だけで、今夜は足りた。

 長い秋の夜は、二人の心に寄り添うように、静かな余韻を残し続けていた。

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