第二八話 揺れる内裏・裏
麗景殿。
夕焼けの光が御簾越しに差し込み、室内を淡く染めていた。
香炉の煙はまっすぐに立ちのぼり、揺れひとつない。
蘇芳女御は脇息にもたれ、ゆるやかに扇を動かしていた。
その前に、蘇芳木蓮が静かに座す。
「……妙ですね」
最初に口を開いたのは、木蓮だった。
「何が妙なの?」
女御は興味深げに、しかしどこか退屈そうに問い返す。
「承香殿の動きです。噂の中心だった女房が下がったというのに、火が絶えない」
「火は絶えたのでしょう?」
蘇芳女御は肩を竦めた。衣が揺れ、ふわりと菊花香が香る。
「新しい薪をくべる者がいなければ、いずれ消えるものよ」
木蓮は微かに首を振った。長い睫毛が伏せられ、蘇芳女御から逸らされた。
だが、その視線の先には誰も居ない。
ただ几帳が、かすかに風に揺れた。
「いえ。消えたのではなく——抑えられています。意図的に」
その言葉に、蘇芳女御の扇が止まった。
ゆっくりと目が細められる。その様は猫に似ていた。
「……抑えられている?」
「ええ。完全に消し去るのでもなく、けれど決して大きくはならないように」
木蓮は指先で畳をなぞる。
「通常なら、”逃げた”、”やましいことがあったから下がった”、という声が先に立つ。ですが今は、”気の毒だった”、”病で下がっただけ”、”責めるほどのことではない”。——そういう反応が多い」
「そう……」
蘇芳女御は脇息から身を起こした。少しだけ態勢を変え、頬杖をつく。
「同情を誘う方向に、流れが変えられている……と?」
木蓮は静かに頷いた。
焦りは見えないが、少しだけ剣呑な光が眼に宿った。
「はい。しかも、それが自然に見える」
沈黙が落ちる。
女御はしばし考え込み、やがて小さく笑った。
その声は段々と大きくなり、ころころとした笑い声が響いた。
「面白いわ。菖蒲女御、そんな芸当もできたのね」
意外だった。
もう少し、浅い人物かと思っていたけれど、なかなか底を見せはしないらしい。
「ですね」
木蓮も同意する。
「しかし、承香殿の女房たちも、決して一枚岩ではない。かといって、女御ひとりの手腕とも思えない。となれば——」
姉弟の視線が絡み合う。
「——瓊花殿」
蘇芳女御は低く呟いた。蘇芳は頷く。
「ええ。あの方が裏で糸を引いていると考えるのが、最も自然です」
女御は扇で口元を隠し、くすくすと笑った。
「いやだわ。私、あの方を少し侮っていたかもしれない」
世の中はすべてつまらないことだらけ。
暇つぶしになるものは、ほんの幾許かのことだけ。
弟の遊びを横から眺めていることだけが、わずかな慰め。
そう思っていたけれど——と、蘇芳女御は弟を見つめる。
木蓮は唇の端を薄く持ち上げた。
「お認めになりますか」
「認めざるを得ないでしょう?」
蘇芳女御の声は、楽しげでありながら、どこか冷え冷えとしていた。
「承香殿の新参女房——ユカリ、でしたかしら。あの者を切り捨てるどころか、”守るために一度下げた”」
木蓮が静かに続ける。
「そして今、噂の出処を探らせている。蛍袋を泳がせ、こちらが動くのを待っているのでしょう」
「ふふふ……」
蘇芳女御は、笑みを深めた。
「随分と気の長い戦い方をなさるのね」
「短気な方ではありませんから」
木蓮は穏やかに言ったが、その目は笑っていない。
「それに——」
「それに?」
「おそらくは、こちらが”勝ったつもり”になった瞬間を、狙っている」
蘇芳女御は、ふっと息を吐いた。
「なるほど。では、あなたはどうするのかしら?」
木蓮は少し考え、やがて静かに答えた。
「蛍袋を、切り捨てるか。それとも——」
「それとも?」
「一段、強い手を打つか」
女御は扇を閉じ、畳に置いた。
「……どちらも、少し早い気がするわ」
「姉上?」
「瓊花殿は、証拠を欲しがっている。こちらが慌てて動けば、それを喜んで差し出すようなもの」
女御の視線が、御簾の向こうへ向けられる。
「ならば——」
木蓮が続きを促す。
「こちらは”何も知らぬ顔”で、もう少し様子を見ましょう。蛍袋がどこまで動けるのか。そして、承香殿が次に何を仕掛けてくるか」
木蓮は、薄く笑った。
「姉上のお優しさには感服致します。背筋が凍りそうだ」
「ふふ。上に立つ者は、慈悲深くなければならないわ」
蘇芳女御は微笑みながら、冷たい声で言った。
麗景殿の廂の一角、一瞬だけ影が揺れた。
誰にも気付かれぬまま、その影は静かに去っていく。




