第二話 月白家の内情
「うわああああああああああん! 伯母上えええええ!」
幼い姫が倒つ転びつ走ってくる音がする。
普通、良家の姫は走ったりはしない。
しずしずと袴の裾を踏みながら、ゆったりゆったりと歩むものだ。
袴の裾を絡げて足音を立てるだなんて、とんでも無いお転婆である。
だが花影は柔らかく目を和らげる。
「よし、おいで、大姫」
両腕を広げて待ち受ければ、熱っぽい小さな塊が飛び込んでくる。
ぐしゃぐしゃに泣いた顔を上げて大姫、槐の娘、つまりは花影の姪は訴えた。
「いなくならないでくださいまし!」
鼻水を拭いてあげれば、あとからあとから大粒の涙がこぼれ落ちてくる。
「なぜおやしきから出られるのです? むこぎみが、おかよいになればよろしゅうございます! 伯母上をつれていくなんて、なんて……!」
虹霓国において、貴族は一般的には通い婚だが、流石に正妻となれば夫と同居が通常のことである。
例外もあるが。
「落ち着きなさい。大姫、貴方は月白当主の惣領姫。この館の、次の主ですよ」
「伯母上がいらっしゃらなくなったら、このいえはどうなってしまうのですか。つきしろけはかたむいてしまいます」
「槐の立場無いわよそれ」
「父上は、しょうしょうたよりのうございますゆえ」
あまりの台詞に花影は思い切り苦笑した。
花影は万朶が当主で在った頃から存分に辣腕を振るい、この月白家を仕切っていた。
通常、家のことは正妻が取り仕切る。
だが万朶の妻、花影と槐の母は深窓の令嬢らしく随分とおっとりしていた。
万朶も奥方の前ではなんでも頷く骨抜きっぷりで。
これは自分がしっかりしなくてはと、幼い花影が奮起するくらいには、のんびり穏やかなお花畑夫婦であった。
「貴方の母上がその分しっかりしてるから大丈夫よ。貴方も居るし。あれで槐も父上、お祖父様ににて無いことも無いし。立派に左中弁してるみたいよ」
「おじいさまも父上も、らつわんではありますが、伯母上がしったしなければ、あちこちかどをたててまわるにきまっています」
否定はしない。
いちいち一言多い男たちを思い、花影は苦笑しつつも頷いた。
唇を尖らせる幼い姫の頭をぐりぐりと撫でる。
愛しい姪っ子。賢く可愛い大姫。
子が無い花影は自分の子の様に、それ以上に愛情を注いでいた。
「我が姪ながら慧眼。偉いわ大姫。その調子でこの家を牛耳りなさい」
「いやです! 伯母上がいなくなるなんていや! ずっとおそばにおいてくださいまし! まいにちいろんなおはなしをしてくださいまし!」
「大姫も自分で御本を読めるようになりなさい。私の語ることはすべて、本に書かれていたことよ。私が居なくなっても、本があれば何も欠けないわ」
そう言いながら、大部分の書籍は自分と共に菖蒲邸に移ることを思い出した。
「漢文をすらすらよめるにょにんなど、伯母上のほかにはおりませんし、伯母上ほどおはなしがじょうずなかたも、おりません!」
「いやいやいや、意外と居るって。宮仕えの女官たちとか。きっと大姫も漢文すらすら読めるようになるわよ」
「わたくしはまだ、仮名文字のいろはすら、あやういのでございますよ」
「努力なさい。何遍も練習して、繰り返してくりかえして。そらで言えるくらいになりなさい。私はそうした」
それがたとえ世に後ろ指さされるようなことだとしても、花影は貫いた。
世の中の書物を男だけが独占するなど許せるものか。
読みたい。知りたい。もっとずっと多くを。
そしてそれは花影の疵にもなったが、同時に大きな力ともなっている。
例えば父と弟の政治談議にまざろうとも、決して見劣りするものではない。
まあ、月白の家の中でだけの、小さな秘密の楽園であったわけだけれど。
そう。此処だけ。狭い世界の中でだけ。
花影が自由に振舞えるのは、この月白の邸の中だけ。
菖蒲での自由を瓊花は保証してくれたけれど、果たしてどこまでが許されるだろう。
うっかり目の前の餌に目が眩んで頷いたが、早計だったかもしれない。
いや、明らかに考えが足りなかった。
だがしかし、菖蒲家秘蔵の書物が読めるのだから、十分な益ではある。
釣りがくるほどだ。
怯むな。怖じるな。
いついかなる時も顔を上げて。
自身に言い聞かせるように花影は大姫を抱き締める。
温かい。
子供の体温は、触れているだけで愛しさが溢れ出てくる。止め処なく。
ふわり、と清しい香りが悶々とする花影の意識を現実に引き戻した。
鈴を鳴らすような美しい声。
「そうですよ大姫」
静々と槐の妻、この邸の本来の主が現れる。
「義姉上、お騒がせを致しまして」
頭を下げる義妹に、花影はひらひらと袖を振ってみせる。
「母上も伯母上をとめてくださいまし!」
花影にしがみついたままの娘に、義妹、薄氷は静かに否を告げる。
「そうは参りませんよ、大姫。伯母上は大事なお役目を果たすために、菖蒲に嫁がれるのです」
「だいじなおやくめ……?」
「国家の安寧が掛かっているのです」
それは少々大仰だが、菖蒲家当主の妻の座を狙う不穏な動きは活発であるし、菖蒲家の動きひとつで、この虹霓国が揺らぐのは間違いではない。
「今まで出しゃばってて悪かったわね、薄氷殿。月白の家、宜しくお願い致しますね」
薄氷はきりりと居住まいを正し、両手をついた。
「義姉上には遠く及びませぬが、身命を賭して」
最上の敬意を込めて頭を下げる。
「いや、大袈裟だわ。ていうか貴方が言うと洒落にならないわ。適当に。ほどほどに頼むわ」
薄氷は花影をみつめ、そっと困った様に微笑んだ。
「殿方はわかっておられませんのよ。義姉上が、今日までどれだけ、この月白家を支えておられたのかを。わたくしも、勿論全力を尽くすつもりでございますれど、果たしてどれほどのことができるやら」
花影は照れて、ぞんざいな仕草で頭を掻く。
「いやあ、ただのご意見番だし。割と適当にあれこれ言ってたし」
花影は薄氷の手を取り、そっと握った。
「家の差配はすべて、貴方の良いと思ったように。頑張ってね。一応引き継ぎ手引書作っといたけど」
当主の正妻は内向きの最高権力者だが、主だったことは家司や女房長がやってくれる。
最終決定と責任を負うのが役目だ。
とはいえ人間関係の仔細は知る限り記しておいた。
槐や万朶と付き合いのある貴族たちの好みやらなにやらも、把握していている限り事細かに。
「恐れ入ります。百人力ですわ」
「家司のキチコウも女房長のアワギも心得てる。必ず力になってくれるわ」
すんすんと鼻を鳴らしながら大姫が振り仰ぐ。
「どうしても、だめなのですね?」
「ごめんね。でも大姫、覚えておいて。別れはいつか必ず来るものよ。遅いか早いかはわからない。けれど、誰にでも訪れる。だから」
姪の頬を両手で挟んで、花影は涙で潤んだ大きな瞳を覗き込んだ。
「後悔しないように。毎日を生きましょう。好きな人には好きと伝えて。大切なものは大切にして。欲しいものがあれば、手を伸ばしなさい。余計なものに拘っている暇は無いわ」
大姫はまだよくわからないといった表情で、けれど真剣に頷いた。
「はい。伯母上のおおせのとおりに」
次に会う時、どんな少女になっているだろう。
次はいつ、会えるだろう。
「どうか貴方たちの未来が幸いに満ちて居ますよう。龍神様のご加護があらんことを」




