第一話 型破りな妻問い
月白家邸宅、西の対。塗籠。
「姫様、姫様、花影様! 大変でございます!」
「こら、埃が舞うでしょ。静かになさいな」
飛び込んできた女童は地団太を踏んで大声で叫んだ。
「ああもう、そんなこと言ってる場合では! 兎に角お早く釣殿へお越しくださいませ!」
今日も今日とて、書庫である塗籠に籠って読書三昧。
脇息に寄り掛かり、片膝を立てて本の頁を捲る。
とても良家の子女には見えない姿勢で花影は呻いた。
「私も三十になろうかという年齢よ。姫様でもないでしょう」
女童は無視して言葉を続ける。
「大殿様が参られました」
「また突然。隠居したのに、まあ相変わらず機敏でいらっしゃること」
「菖蒲中将様もおいでです」
女童の言葉に、花影は少し眉を寄せた。
「先日亡くなられてなかったっけ?」
「弟君が家を継がれて」
「ああ、そうだっけ。……で、何だって月白家当主の弟ではなく、この私に出て来いと」
引き籠りの本の虫。月白家の惣領姫は変わり者で名が通っている。
知識だけならば、そこらの学者にすら引けを取らない。
議論をすれば、学者たちも目の色を変えるほどの器量。
だが当世、女性がそれも身分高き姫たる者が学を付けるのは、はしたないこと。
漢字の一の字すらも読めぬふりをした方が可愛げがあるとさえ。
果ては噂ばかりが走り、口の達者な醜女であろうとか、男性を立てることを知らぬ矜持ばかりが高い女であろうとか。有ること無いこと吹聴されている。
「何の用よ。中将殿が名高き月白の引き籠りの醜女に」
その時、妻戸脇の几帳が除けられた。
恰幅の良い直衣の男性。耳慣れた低い声が響く。
「遅い。どれだけ待たせる気だ」
「勝手に来た癖に、何ですかその態度」
普通の男君は娘であろうと女人に直に対面はしない。
顔を隠して声すら、取次の女房を介す程で。
しかしながら花影は几帳の陰に隠れるでもなく、扇で顔を隠すでもなく、傲然と顎を上げて父親を睨み付けている。
「仮にも娘が父親に対してなんだその口は」
「前以てご連絡をと、何度申し上げましたでしょうねえ、父上様?」
「全く口の減らん娘だな。親の顔を見てみたい」
「どうぞ鏡をご覧ください」
親子の応酬に、最初は呆気に取られていた青年は、やがて口元を押さえて肩を震わせている。
「見苦しいものをお目に掛けました。申し訳ない」
「いえ、無理を押して参った私の方に非があります。こちらこそお詫びを」
繰り返すが、高貴な身の上の女人の顔を男性が見ることはまずない。有り得ない。
普通の姫君ならば、羞恥に打ちひしがれて気でも失っているだろう。
だが花影は、遠慮なく真っすぐに見知らぬ男の顔を見た。
目が合った。
睨み付けるかのような強い眼光に、菖蒲中将の方がたじろぐ。
「名乗るべきでしょうか?」
揶揄うような花影の台詞に、菖蒲中将は目を細めた。
「いえ、失礼を致しました。私は菖蒲家当主瓊花と申します」
花影は袴の裾をざっと捌き、袿の袖を翻すと見事な礼をしてみせた。
「月白家の花影。そこの前大納言万朶が一の娘でございます。よしなに」
先程までの粗野な振る舞いは何だったのかと瓊花は面食らう。
「まあ、こういう娘です。本当に良いので?」
万朶の台詞に花影は眉を跳ね上げた。
「——つまりどういう用件で?」
「花影殿」
瓊花は花影の前に跪く。近距離。
ふわりと優しい香りが鼻先を擽る。
「私の妻になってくれぬだろうか」
◆
塗籠から場所を移して。
月白当主、つまり花影の弟である槐も加わり、奇妙な取り合わせの四人が車座に座っている。
「恋文のやり取りも無く、いきなり妻問とは思い切ったことなさいますね、中将殿」
「御父上が、花影殿は和歌など見向きもせぬだろうと」
「語弊がある。和歌友達ならなれるだろうとは申しましたよ。好きだろう、和歌」
「ええまあ。居ますけどね、和歌友。それなりにいっぱい」
鷹揚に頷く花影に、槐は嫌そうに顔を顰める。
「姉上、そんなんだから嫁き遅れるんですよ」
高貴な女性の結婚適齢期は十代後半である。
「喧しい。結婚が女の幸せか? そうは思わない。私は実家で本に埋もれて死ぬのがいい」
万朶は溜め息をついて杯を干した。瓊花がそっとお代わりを注ぐ。
「こういう娘ですので、来る縁談を片端から蹴っておりまして、この十年はもはやなしのつぶて」
「和歌も楽も見事なものなのに、人格がこれですから、痛っ」
「喧しい」
「殴らないでくださいよ姉上」
花影は胡乱な目付きで真正面の瓊花を見る。
「そんな年増に型破りな妻問いとは、一体どういう魂胆です?」
「こら花影、失礼だろう」
嗜める万朶に瓊花は苦笑して見せた。
「いえいえ、そう思われるのも無理からぬこと。まずは当家の事情をお話しても宜しいですか」
「菖蒲家のことなら知らぬ者はこの都には居りますまいに」
飛ぶ鳥を落とす勢いの菖蒲家。
王家に近しく、正に今上の母は菖蒲家の出であるし、宮中を牛耳っていると聞く。
無論花影が入手できる噂程度に過ぎないが。
「そう。非の打ち所の無い我が兄、楝が身罷りました。楝には妻子が居り、私は甥にあたる藤波に、菖蒲の家をいずれ継がせたいのです」
花影は小首を傾げる。
「奥方を娶り、瓊花殿がその藤波殿を養子になされば良い話では?」
「それはそうなのですが、その……義姉が、兄以外に再嫁するくらいなら死ぬと申しまして……」
「それは……」
花影も吃驚な気性の女性である。
「義姉は主上の従姉妹にあたり、その——」
「我儘を言いなれていると」
「はは、手厳しい。ですがその通りです。決めた以上梃でも動かない」
「私としては好感を抱きますね」
「畏れ入ります。しかし、このままの状況では私が甥の邪魔になる」
「と、仰ると?」
「私の妻として、次代の菖蒲家当主を生ませたい家が、ごまんとあるということです。無論正室として。……実際に、進退窮まってきています」
花影はなるほど、と鼻を鳴らした。
「そこで私が丁度良い、と」
「はい」
「年増の私が子を産むことも無いだろうし、形ばかりの妻としては月白家の名は十分でしょうね。——でも、私の益は何なのです?」
花影は少し意地悪く言って見せる。
「父も弟も、厄介払いに嫁がせたいのでしょうけれど、ええ、寧ろ天下の菖蒲家となれば玉の輿」
「姉上、下品ですよ」
花影は無視した。
「体裁もいいし、言うこと無いでしょうね。私以外には」
「はい」
瓊花は悪びれずに頷いた。
「ですから、ここからは貴方に益のある話を致しましょう」
「ほう」
瓊花はずい、と膝を進めた。
ぶつかりそうな程に近くに殿方の顔があっては、流石の花影も落ち着かない。
が、動揺をみせるのも癪なので、丹田にぐっと力を込めて、努めて平静を保つ。
瓊花がふっと笑って見せた。
「我が菖蒲家の書物全て。花影殿が自由にご覧になれるように致しましょう」
花影の唇が小さく震えた。瓊花は更に言葉を続ける。
「秘伝の閲覧も許可します。当主権限で。そして、月白家の書物——勿論持ち出して良いものに限りますが、当家の書庫に移させて頂きます。あなたが嫁いだ後も、変わらず読み続けられるように」
すぱん、と扇が鳴った。
「乗りましょう、その話」
一も二も無く頷いた。
花影は満面の笑みを浮かべる。
無邪気な少女のそれに、男三人は呆気にとられ、うっかりと見蕩れた。
屈託のない笑顔は、それはそれは美しかったので。




