第二六話 裏で動く者たち
ユカリが後宮より下がった。
その報は七里香の演出によって、翌日には宮中の隅々まで知れ渡っていた。
「聞いたか? 承香殿の新参女房。病で里に下がったとか」
「……まあ、あれほど噂になれば、気も病むでしょうな」
「菖蒲女御の監督不行き届きと言われてはいたが、結局、かわいそうな女房がひとり出たというだけのことだったな」
各所で交わされる殿上人らの会話を聞きつつ、七里香はほくそ笑む。
瓊花からの命は既に下された。
あとはそのように動く——いや、動かすだけだ。
七里香が承香殿へ戻ると、桔梗がふんわりと微笑んで迎えてくれた。
手応えあり、と表情だけで語り、七里香は頷いた。
桔梗は何度か頷いて、ほっとしたように睫毛を伏せた。
「けれど、驚きました。ユカリ殿がまさか——ねえ?」
菖蒲家当主の北の方、花影その人であったとは。
「あら、私はそうかなと思っておりましたけどね」
「まあ、何故?」
七里香はにんまりと笑った。
「ふふふ、それは秘すれば花ということで。——さて、桔梗さん。これから動きますわよ」
「何もかもが、ね。どうぞお気をつけあそばせ」
「お互いに、ね」
顔を見合わせて頷き合い、二人はそれぞれの役目を果たすべく、動き出す。
包囲網を敷くべく、七里香はそっと噂に色を足した。
「承香殿の新参女房に通っていた男の、正体が知れたとか。なんと相手は殿上人の何某とか」
宮中はまたひどく騒めいた。
誰、ということは明言されず。
けれど殿上人であることは間違いないらしい。
「ただの噂だろう」
「いや、出処が承香殿の女房だというから、確かなのでは?」
「結局のところ、誰なのだ? 一人か、多数か?」
「さて……。その内の一人、ということなのでは?」
噂は当然のこと、麗景殿にも届いていた。
大いに騒めく者らを尻目に、蛍袋は柱の陰で眉を寄せていた。
ゆっくりと崩れ落ちるように膝を折る。
(正体——本当にユカリのもとへ通っていた男が居た……。しかも、殿上人だとか。そこから真相が広まるのはまずいわね)
その男が言上げし、ユカリに通っていた男は一人であると明らかになれば。
噂を広げた蛍袋側が非難されてしまう。
(そう。私まで辿られなければいいだけなのだけど——)
蛍袋は親指の爪を噛んだ。
嫌な予感がする。
常ならば、噂の根源まで辿れる者は居はしない。
そして、辿られたとして、誤解だと煙に巻けばいいだけのこと。
(確かめなくては)
その「男」が誰なのか。
場合によっては抱き込んで、味方に引き入れてしまえばいい。
蘇芳女御の後ろ盾が得られるのは、男にとっても悪い話では無いだろう。
そこまで考え、蛍袋は立ち上がる。
蘇芳女御の不興を買ってはいけない。
今でこそ、蛍袋は使い勝手が良いと重用されている。
だがしかし。
役に立たぬ——いや、自身の弱みとなると判断されたなら。
蘇芳女御は容赦なく蛍袋を切り捨てるだろう。
里下がりを命じられるだけならばともかく、口封じに殺される可能性さえある。
(——捨てられてなるものですか!)
蛍袋は決然と歩き出した。
丁度その頃、蘇芳女御のもとには蘇芳木蓮が訪れていた。
蘇芳女御の前に平伏し、木蓮は穏やかに挨拶をする。
「女御様におかれましては、ご機嫌麗しく」
蘇芳女御は扇を揺らして小首を傾げた。
「何を堅苦しい。姉上とお呼びなさいな、木蓮」
二人はゆったりと寛いでいるように見えて、油断なく辺りを睥睨していた。
木蓮はちらりと承香殿の方向へと視線を向けた。
「承香殿が騒がしいようですね」
女御は微笑んで弟を見つめる。
「おや、他人事のように言うのね」
木蓮は目を細め、微笑んだ。
「他人事でございますから」
「ふふふ。悪い弟だこと」
蘇芳女御は袖で口元を押さえ、楽し気に笑って見せた。
すべては弟、木蓮の描いたように動いている。
「ですが、雑に描いた絵図でして、そろそろほころびが気になってまいりました」
木蓮は悲嘆にくれたような表情で、わざとらしく泣きまねをして見せた。
女御は大袈裟に驚くふりをしてみせ、心配そうに聞いた。
「ほころびとは、どこのことかしら。飛香舎の辺り? それとも——」
木蓮はすっと泣きまねを止め、鼻を鳴らした。
「あちこち、ですね。飛香舎より上げた煙は何やら立ち消えそうですし、承香殿が燃えるかと思いきや、あっという間に消し止めた。挙句——」
姉弟の視線がちらりと重なる。
「火元の女房に通っていた男が判明したとなれば、こちらまで辿り着く者がいないとは言い切れません」
「貴方がそう言うのは、新菖蒲中将殿のことかしら?」
木蓮はくすりと笑う。
「あれは、なかなか隅に置けない人ですよ。私の関与に気付いている」
女御はくすくすと楽し気に笑った。
「わざと気付かせてやったのではなくて?」
「ふふふ。どうでしょう。ともあれ、瓊花殿がどう動いてきますかね。件の男も、存外瓊花殿の息の掛かった人物かもしれませんし」
まさか瓊花本人だとは、思いもしない蘇芳の二人ではあった。
「判明したなら抱き込んで、良き様に使っておやりなさい。もしくは——」
女御の言葉に、木蓮はにこりと頷いて、扇を真横に動かした。
その眼には刃物の色が映っていた。
風が吹くたび、木々の梢が揺れ、色づいた葉が白砂へ舞い落ちる。
女房たちの笑い声が御簾の奥から漏れ聞こえ、宮中に柔らかな華やぎをもたらしていた。
承香殿。
いつものように忙しなく動き回る女房達。
一息ついたところで声が掛けられた。
「もし、そこの方」
桔梗が振り返る。
そこに居たのは蛍袋だった。
桔梗は少しだけ驚いたようにして、闖入者を見つめた。
「まあ、何の御用でしょう。——ええと、麗景殿の方、ですわね?」
何食わぬ顔をして、聞く。
蛍袋は何も知らぬような表情をして名乗った。
「はい。蛍袋と申します。先日、こちらに新しい女房が上がりましたでしょう? その方のことで、少し」
桔梗は内心では息を詰め、けれど柔らかく微笑んでみせた。
「ええ、はい。私でわかることでしたら」
蛍袋は口を開いた。
「実は——わたくし、ユカリ殿とは旧知の仲で」
無論嘘である。
「折角内裏にいらしたと思ったら、すぐに退出なさってしまって。結局お会いできぬままでしたの」
桔梗は驚いた顔を作り、ゆっくりと安心させるように頷いて見せた。
「まあ。それは残念なこと。ですが、病が癒えましたらばお戻りになられましょう」
ぴくりと蛍袋の頬が引き攣ったのが見えた。そこにあるのは焦りだ。
「すぐにお戻りになられますの?」
「すぐにとは……。ですが一日も早い快癒を願っておりますわ」
蛍袋は心底心配であるという風に頷いた。
「ええ、ええ。それは勿論。——ところで、ユカリ殿に幾人もの殿方が通われていたと、飛香舎の方にお聞きしたのですけれど、本当でしょうか」
(来た)
内心で思い、けれど表面では驚いたように目を丸くして、桔梗は首を横に振る。
「いいえ、まさか。ユカリ殿は承香殿に参じて間もありませんでしたし、そのような暇はひとつも。ただ——」
「ただ?」
何でもないようにひとつ、餌を落とした。
「旧知の方が一度お見えになられたと聞いておりますよ」
蛍袋はそっと聞いた。
「どなた?」
桔梗は肩をすくめる。
「さあ? そこまでは。私はさほど噂に敏い方では無いので……。ああ、七里香殿なら、ご存じかもしれませんね」
蛍袋が顔を顰めた。
「まあ。あの方とはそりが合いませんの。他に詳しい方はいらして?」
「さあ……私ではわかりませんわ。他に詳しい人も知りませんし——お役に立てませんで」
はぐらかして一礼して。
桔梗は渡殿の辺りへと向かい、紅葉を愛でる風を装って中空へと声を掛けた。
「——お聞きになられましたか」
それはまるで独り言。
けれど確かに応えがあった。
カンラン——瓊花の配下の影である。
蛍袋は麗景殿へは戻らず、飛香舎へと向かっていた。
例の「男」が誰かを知る者が、七里香以外に居ないのならば、目撃者を仕立てればいい。
それは飛香舎の者でなくてはならない。
衛士に砂金をいくばくか握らせて。
「いいわね。お前が見たのは何?」
「わしが見たのは、その女房の局にある男が入ろうとした所、既に別の男が居たので、慌てて逃げ去った場面であります」
蛍袋はにこりと笑った。
「そう。その通りよ」
例の「男」が居たのなら、それでいい。
その他の男の存在を浮かび上がらせるだけだ。
——噂が再燃すればよし。
しなくとも、ほんの一時。煙が上がればよいのだ。
そして次の火種を放り込む。
もう幾人か、飛香舎の者で目撃者が欲しいなと、蛍袋は思案する。
衛士ひとりではいかにも弱い。
距離もあった故に見間違いであろう、と片付けられてしまう可能性もある。
下臈の女房をもう一人、二人使えぬだろうか。
(丁度良い者が居たかしら——)
蛍袋は飛香舎を一瞥し、一旦は麗景殿へと退くことにした。
その一部始終を、カンランが影より窺っていたことには、気付かなかった。




