第二五話 瓊花の策
承香殿に用意された局で、ユカリはひとり、筆を手にしていた。
報告書に書き足すのは気が重いが、事実なのだから仕方がない。
——噂は拡大中。意図的なものと所感。出処未だ不明。
筆を止め、墨を拭う。
ユカリ——花影はあの夜の、瓊花の穏やかな微笑みを思い出していた。
(私の存在そのものが、菖蒲の弱点になっている)
北の方とはそういうものだ。
そういう立場にあることを、常に心に止めておかなければ。
(そういう契約なのだから、負い目に思うことも無い)
(……とは言ってもねえ)
貶されれば傷付くし、殴られれば痛いのだ。
(まだまだ甘いわ。強くならなくては)
噂の出処を捕まえて、洗い浚い吐かせる心持ちでいなくては。
菖蒲の北の方として、役割を全うしなくてはならない。
いずれ訪れるその日まで……。
花影は拳を固めた。
女房装束が行きかい、承香殿は雅やかな色彩に満ちている。
菖蒲女御が菖蒲中将瓊花を迎え、殿舎はいつになく華やいでいた……訳ではなく。
実際には岩鏡とユカリを除き、すべての女房が下げられていた。
広い室だが、皆が声を落とし、低く囁き合っている。
目の前に座した瓊花を見つめ、菖蒲女御はゆっくりと頷く。
「そう。麗景殿でしたの」
瓊花は重々しく肯定した。
「ええ。蛍袋という女房が噂の出処です。それを掴んだ以上は——」
菖蒲女御は扇を広げ、丸く吐息を零した。
「折角来てもらったというのに、ユカリはもう居なくなってしまうのね」
女御の脇に控える岩鏡が、こほんと咳払いをする。
瓊花は苦笑を隠さない。
従姉妹のこういう性格はとうに承知済みだ。
女御は残念そうに、いや、つまらなそうに唇を尖らせた。
「御座所をお騒がせ致しましたこと、お詫び申し上げます」
平伏するユカリに、女御は小首を傾げて見せた。
「——噂の責任を取り、そなたが一時、宮中より下がる。本当にそれが一番の手段であると?」
不満げな声音に苦笑を隠しつつ、ユカリは言った。
「御意にございます。この騒ぎの責任を、”負うべきものが負った”という体裁が必要かと」
「そもそもが、菖蒲家への攻撃の根本を探る目的でしたので、出処が麗景殿とわかった時点でもう、ユカリ殿の役目は終わったも同然。早々に我が邸へとお戻し頂きたい」
瓊花の、険しさを覆い隠した作り笑顔に、菖蒲女御——飛英は目を細めた。
「従兄弟殿、今日は一段とご機嫌麗しくいらっしゃるのね」
「どうもありがとう、女御様。相変わらず性格が宜しいようで何よりだ」
表面上は柔らかく、けれど鋭い棘を含んだ応酬に、ユカリはちらりと岩鏡を窺った。
困ったものだ、と言いたげに岩鏡は頷く。
そして瓊花へと視線を遣った。
「ご当主様」
瓊花が頷く。
ユカリは追い落とされ、承香殿は弱体化したと見せ掛ける。
そして。
きっと、追撃の一手が放たれる。
「そこでその動きこそを、証拠として掴もうというのですね」
花影はやれやれと頭を振った。
「私——ユカリが潔白を主張しないことで、争う意思がないと見せ、承香殿は沈静化に動いたと評判を上げる。どれも菖蒲家の益となるわけで。更に撒き餌で魚をも釣りあげてしまおうだなんて。……瓊花殿はまったく豪胆でいらっしゃる」
瓊花はにっこりと、屈託のない笑みを花影に向けた。
「誉められているのですね。嬉しいです」
花影は頭を振る。
「——呆れているのですよ」
「ふふふ」
心底嬉し気な瓊花に、花影は眉を寄せた。
「しかし……本当にご機嫌ですね」
瓊花は頷いた。
「ええ。貴方と、またこうしてお話しできるのが嬉しくて」
花影が目を剥く。
臆面もなく惚気られ、岩鏡は目を細め、女御はくつくつと笑った。
「従兄弟殿がここまで骨抜きにされているとは思いませんでしたわ。良いものを見せて頂きました。ええ、本当に」
「お戯れを」
花影が溜息を吐いて目を覆い、瓊花はやれやれと頭を振った。
「こうして、本気にはしてもらえていないのだけれどね」
菖蒲女御はにっこりと目を細めた。
「日頃の行いの所為でしょう。反省なさったら?」
瓊花はそれに応じ、満面の笑みを返した。
「ははは、貴方にだけは言われたくないな」
バチバチと火花が散るようだ。
岩鏡は頭を振った。
幼い頃から、この二人は仲が良いのか悪いのか。
何かというといがみ合うというか、じゃれ合うというか——。
「いい加減になさいませ、御二方。一向、話が進みませぬ」
菖蒲女御は肩を竦め、瓊花は扇を口元にあてた。
「本題に戻りましょう。花影殿——いいえ、ユカリ殿」
がらりと空気を変える瓊花に、花影は目をぱちぱちと瞬いて。
コホンとひとつ咳払いをした。そして、頭をユカリへと切り替える。
「つまり、ここからは”静かに見守る”ことで、待ち伏せるのね」
菖蒲女御の言葉にユカリが頷く。
「承香殿は落ち着いて揺ぎ無い。菖蒲家は盤石。一件落着したように周囲へと印象付けましょう」
ユカリの言葉を引き継ぎ、瓊花が続ける。
「その裏で、我が配下が蛍袋を監視。動きがあればすぐに、捕らえます」
そして、と岩鏡が静かに締めた。
「誰の指示で何をしていたか、を告白させ、それを公に広める——ということで宜しいのですね?」
ユカリがそっと首を垂れる。
「この身、どうぞ良き様にお使いくださいませ」
菖蒲女御は目を細め、少しだけ残念そうに笑った。
「もっと、長く居てくれたらよかったのに。そなたと話したいことや、やりたいことがたくさんあるのよ。必ず戻っておいでなさいね」
瓊花が眉を寄せた。
「はい、必ずや」
ユカリの返答に、眉間の皺はますます深くなった。
最後の仕上げにユカリ——花影の登場が必要となるだろうことからの返答だったのだが。
瓊花はそれすらお気に召さないらしい。
「では準備を。ユカリ殿、貴方は今日の内に下がりなさい。表向きは病を理由に、騒ぎを避けるための自発的な里下がりです」
ユカリは力強く頷いた。
「桔梗、七里香を召してください。私から指示を出しましょう。女御様、ご同席を」
菖蒲女御は脇息にもたれかかると、少しだけ棘を込めて言った。
「まったく、ここは従兄弟殿の菖蒲邸ではなく、私の殿舎ですのに。まるで、主のような振る舞いですことね」
瓊花はさらりと無視をした。
「承香殿は通常通り。決して慌てることなく過ごされよ」
菖蒲女御がにこにこと笑う。
「さて。誰が一番滑稽な様を見せてくれるかしら。楽しみね」
「貴方にならないことを願いますよ、女御様。調子に乗って粗相をなされますな」
「あら。従兄弟殿こそ、仕損じませんようにね」
ほんの束の間。
二人の間に火花が散ったように見えた。
ユカリはこっそりと呆れてしまった。
菖蒲の家の者は、本当に、一筋縄ではいかない。
ユカリは荷物を纏めるふりをし、数名の女房にだけ別れを告げた。
「残念ですわ」
桔梗が眉を下げ、七里香がすべてわかっているように、微笑んだ。
「大丈夫ですよ。ユカリさんはこれから逆襲の準備に入るのですもの」
——本当に。
七里香は何をどこまで把握しているのだろう。
曖昧に微笑みながらもユカリの頬は引き攣るばかりだ。
「どうぞ、後を宜しくお願い致します」
ユカリは楚々と頭を下げた。
次の朝には、ユカリが下がったことが噂として広まり始めるだろう。
七里香が片目を瞑った。
任せろ、とでも言いたげな、自信たっぷりな表情だった。




