第二四話 新たな噂
最初は些細な囁きだった。
「承香殿の新しい女房に、夜毎通う人があるらしい」
それが次第に形を変えながら、膨らんでいく。
後宮を飛び出して、殿上の間へ、更にはもっと広く。
「どうやら、それも一人ではないらしいぞ」
「引く手あまたということか」
「好色な女房とは、はは、一度お逢いしたいものだな」
男たちが軽口を叩き、それがまた、後宮へと。
形を変えて舞い戻った噂を、女房達が更に広げていく。
「女御様付の女房が、品格の無いこと。はしたない」
「承香殿は、どうも規律が緩いのではなくて?」
「岩鏡殿の監督不行き届きでしょう。いくら菖蒲女御様ご自身が素晴らしくても、あのような者を抱えては——」
密やかに、しかし確実に。
新参女房の噂は、菖蒲女御の怠慢へと形を変えていく。
片鱗をいち早くとらえたのは、やはり七里香だった。
「うーん。気になる話が流れてますねえ」
ユカリと桔梗とを前に、七里香が眉を寄せる。
「ユカリさんの所に通う殿方が数多居て。それを女御様は黙認なさっている。——承香殿は風紀の乱れがひどいのではないか」
桔梗が眉を寄せ、ユカリは額を押さえた。
(瓊花殿……早速、大変なことになってます)
「数多の殿方とは、一体どこから湧いて出たのでしょうね」
「ユカリ殿、遠い目をなさっても噂は消えませんわよ」
桔梗に喝を入れられ、ユカリは表情を改めた。
「女御様にご報告申し上げましょう。私のことでご迷惑をお掛けするわけには参りません」
澄んだ風が袖をかすめ、ほのかな冷たさを残して通り過ぎた。
簀子をかすめて、枯れ葉がひらりと舞い落ちる。
菊の香が風に溶け、ほのかに漂った。
「——ほう、そのようなことに」
平伏するユカリと七里香の二人を前に、菖蒲女御はころころと笑った。
驚くほど穏やかで、朗らかだった。
女御の側に控える岩鏡が軽く窘めた。
「面白がっておられる場合ではございませぬ」
菖蒲女御はふと、思案顔をして七里香を近くまで呼び寄せた。
「誰が申しておるのかは、わかりますか」
七里香は迷わず答えた。
「麗景殿の方より広まった、と思われます。——確証はございませんが」
菖蒲女御はにこりと笑う。
「そなたの耳の早さは信頼しておりますよ、七里香。そなたが言うならそうなのでしょう」
菖蒲女御はユカリを見、眼を細めた。
内心、冷や冷やしながらユカリは平伏している。
「人の噂も七十五日。放っておきなさい。煽れば余計に燃え上がるでしょう」
しかし、と菖蒲女御は軽く吐息する。
「ユカリの夫が耳にすれば、きっと憤懣たる思いでしょうね」
明らかに面白がっている。
岩鏡も菖蒲女御の思いを正確に量り、やれやれと首を振った。
(女御様はこの噂でご自身が傷付くことよりも、瓊花殿がどんな反応をするのかの方が重要らしい……)
そして。
ユカリの浮名と承香殿の風紀の乱れは、その日の内に、しっかりと瓊花のもとへと報告されたのだった。
その日の夜、菖蒲邸。
承香殿よりの報告書を受け取った瓊花は、少し眉を顰めた。
——承香殿の新しい女房に浮名あり。女御の監督不行き届きとの声も。
「花影殿ばかりではなく、今度はユカリ殿もか」
同一人物なだけに、一層頭が痛い。
花影を傷付けたくないがための措置が、却って彼女を傷付けている。
「しかし早いな」
初霜が首を捻った。
「悪意ある風は早く吹くものだそうですよ」
瓊花は深々と溜息を吐いて、文を畳んだ。
——本気で潰しに掛からねば。
初霜はそんな瓊花の横顔を見、苦笑する。
(本当に、菖蒲の男というものは……面に出さぬ情が激しいことよ)
それから暫く後。
瓊花は内裏での警邏中、ひとつの文を受け取った。
——例のこと、飛香舎より出づるとの風聞あり。広めたる者の名を麗景殿の蛍袋。
瓊花は静かに瞼を伏せた。
藤黄家が黒幕であると思わせて置きながら、本物はその陰に隠れていたわけだ。
(本命は菖蒲女御の力を削ぐこと。黒幕は麗景殿——蘇芳家か)
藤黄が蘇芳と手を結んでいるという線も、無いわけではない。
だが、当主である藤黄青星の性格上、王以外の誰かに従うなど到底できまい。
(きっと、良い様に惑わされ、言い包められ、操られているのだろうな。……青星はまっすぐ過ぎる。悪く言えば無垢で愚かだ)
瓊花は中空を見つめ、名を呼ぶ。
「カンラン」
「ここに」
気配すら感じさせず、影は応えた。
「麗景殿に出入りする者を調べよ。蛍袋という女房周りを念入りに」
「御意」
けれど去った形跡もないカンランに、瓊花は少しだけ苦い物言いで言葉を足した。
カンランの懸念もわかる。
「何も蘇芳女御と蘇芳家を、面と向かって敵に回す気はない。まずは調べよ。それからだ」
カンランは今度こそ、去った。
瓊花は滝口陣に戻ると、何気なく外を眺めるふりをして、麗景殿の方へ視線を遣る。
(蘇芳女御が黒幕か。はたまた、蘇芳家当主か……)
清涼殿。殿上の間はいつも噂で持ち切りだ。
「聞いたか? 承香殿の新しい女房、男の影が絶えぬとか」
「年増だが、美しいそうだな。手蹟も、容色も」
「新中将殿はご存じか? 菖蒲邸より上がったと聞くが」
瓊花はちらりと視線を遣った。
冷たい光に公達はびくりと肩を震わせた。
「後宮に在るものはすべて、王の御もの。軽口で穢して良いとは思いませぬが」
一瞬の沈黙。
その後、囁きが走る。
「……ほら、新中将殿は北の方の評判が——」
「不機嫌でいらっしゃるのも無理は——」
騒めくのは花影の話で。
瓊花はこめかみが引き攣るのを抑えられなかった。
袖の内側で、きつく、拳を握る。
ふと視線を感じ、顔を上げれば。
にこやかに微笑む蘇芳木蓮の姿があった。
蘇芳家当主の嫡男——次期蘇芳当主である。
視線が交わる。
木蓮は愉し気に、ゆっくりと首を垂れた。
(——なるほど。貴方か)
ならば、受けて立とう。
花影を傷付けるもの、菖蒲家を貶めるもの。
誰であろうと容赦はしない。
瓊花の表情は穏やかに見えて、その実、触れれば切り刻まれそうな気配を纏っていた。
秋の夜は長く、宵の静けさがいつまでも続いている。
風が御簾をそっと揺らし、冷ややかな空気を室内へ運んできた。
菖蒲邸。
灯火もつけずに、瓊花は静かに座して待っていた。
「戻りました」
いつの間にか、カンランは瓊花の前に跪き、畏まっている。
その姿は男とも女ともつかない。
瓊花自身、カンランの性別も年齢も知らない。
ただ、代々菖蒲家当主に付き従う影だ。
「報告を」
「蛍袋——麗景殿、蘇芳女御付女房。表向きは文の取次が主。女御の信任厚い様子。しばしば人の訪れがあります。それ自体は特筆すべきことは無く。ですが今回の訪問者は藤黄家の女房でした。人目を憚るように、深更に」
「やはり、繋がっていたか」
瓊花は低く呟いた。
細く差し込む月明かりが、まるで刃のようだ。
「会話を聞いたか」
「承香殿の新女房の名を更に貶めよと。それにより。承香殿——菖蒲女御の評判を落とす狙いのようです」
「藤黄に策を授けているように見えて、実のところ蘇芳が糸を引いている——か」
「如何なさいますか」
「まだ動くな。次の一手に備えよ。それを捉え、返す」
「御意」
カンランは音もなく消えて。
静寂だけが残る。
瓊花はそっと睫毛を伏せた。
(結局は、花影殿を勢力争いに巻き込んだだけか——)
こうなることはわかっていた。
菖蒲の北の方になるというのは、そういうことだ。
常に悪意に晒され、標的になる。矢面に立つ。
それを承知で花影は受けた。
契約だ。それだけだ。
だが、瓊花にとって、花影は——既に契約で結ばれた相手ではなくなっていた。
(大切に守りたいのに——立場がそれを許さない、か)
だが、瓊花が菖蒲家当主となっていなかったなら。
そもそも花影と出逢うことも、契約だけだとしても、夫婦となることは有り得なかった。
(どうあっても——私は花影殿にとって、疫病神でしかないのだろうか……)
瓊花は切なく吐息を零した。




