第二三話 思いがけない訪問
承香殿、夜更け。
女房達が寝静まった後、ユカリは報告文を認めていた。
順を追ってあれこれと述べるよりは、端的に事象を並べた方が伝わるのではないかと、目に付いたこと、耳にしたことを詳らかに記していく。
御簾が揺れた。
ふわりと馴染みの香りが鼻をくすぐる。
でもまさか、と思いながらもユカリ、いや花影は問い掛けた。
「——瓊花殿?」
「ふふ、嬉しいですね。香りでわかってくださるなんて。親密さが感じられます」
滑り込んできたのはやはり瓊花だった。
にこにこと機嫌よく花影の対面に座る。
「いらっしゃるだなんて。何をお考えなのです。早々にお帰りください」
花影は瓊花の胸倉を掴み、顔を寄せて耳元で怒鳴るように囁く、という器用なことをしてみせた。
「つれないな」
「菖蒲中将が承香殿の女房に逢いに来たなどと、知れ渡ったらどうします。何のために私がここに来たのか——」
瓊花は少しだけ苦笑した。
「ええ、わかっております。早々に立ち去ります。でも——やはりお顔を拝見したくて」
額がぶつかりそうに近い。吐息が触れる距離だ。
御遊の席。手の届かない距離にいる妻を見た。
人々の視線を引いたのは、御遊でのユカリの立ち居振る舞い、そして朗々とした声。
表立って「我が妻」と告げられぬのがもどかしく、けれど内心では「どうだ」と自慢したい気持ちが抑えられなかった。
そして、逢いに来てしまった。
花影は素の自分に戻りかけて、慌ててユカリの顔をまとった。
「ただいま文を仕上げておりますので、それをお待ちください。ご心配痛み入ります。でも、大丈夫です。——今のところは」
瓊花は目を細めた。
「やはり、新人いびりは激しいですか?」
花影は鼻を鳴らした。
「——瓊花殿。会話を楽しんでいる場合ではございませんでしょう。仔細はお伝えしますから、どうか」
少しだけ寂し気に、瓊花は立ち上がる。
「貴方の顔を見ずに過ごす日々が、これほど辛いとは思いもしませんでしたよ」
瓊花は割と本気だったのだが、ユカリは袖を振る。
「はいはい。私も寂しゅうございます。次は笑ってお逢いしましょうね」
つれない妻に、瓊花は本気で苦笑して、今度こそ出て行った。
ユカリはその後姿を見送って、額を押さえた。
(誰かに見咎められたらどうするのかしら。菖蒲中将の浮名を流すだけならまだしも、潜入が見破られてしまうわ)
まったくもう、とぷりぷりしながらも、ユカリは実のところそこまで怒ってはいなかった。
意外なことに。
そう、自分でも意外なことに。
瓊花が心配して訪れてくれたことが、思いのほか嬉しかったのだ。
やはり心細かったのだろう、と自省する。
(まったく私も甘いこと……。これでは間諜失格だわ)
鉄の意志を持って、任務を遂行しなくては。
翌朝。
夜露を帯びた庭木が、朝日に煌めく。
空は澄み渡り、柔らかな光が殿に差し込んできた。
「お目覚めあれ」
格子を上げる音がする。
ふわりと昨日の名残りの沈香が香った。
ユカリは昨夜仕上げた報告文を懐に忍ばせ、静かに身支度をしていた。
文は、畏れ多くも菖蒲女御の手を経て瓊花へと渡る。
(女御様を文遣いにするだなんて……!)
ユカリでは考え付きもしないような手段を、平然とやってのける瓊花と初霜には、感心を通り越して呆れるほどだ。
(流石は菖蒲家ということなのかしらねえ)
「ねえ、ユカリ殿」
隣の局の若い女房が、何気ない調子で声を掛けてきた。
「はい」
「昨夜、どなたかお見えでした?」
ユカリの指先がわずかに引き攣った。
「まあ。話し声がうるさかったかしら。ごめんなさいね。まだ、承香殿に慣れていないものだから」
若い女房、茜草は少しだけ意味深に笑った。
「まあ、やっぱり、どなたかお通いになられていたのね。古いお付き合いの方?」
(ユカリに通って来た男だと思ったのか)
ならばその体で押し通そう。
ユカリは少しだけはにかんで、袖で口元を隠した。
「私がこちらに勤め先を変えてしまったので、通いにくいと文句を言いに来たのですわ。後宮ともなれば、普通のお邸とはまるで違うでしょう?」
茜草がにこにこと顔を輝かせて、にじり寄って来た。
「まあまあ、わたくし、そういうお話大好きよ。聞かせてくださる?」
「あら。私のお話よりは茜草殿のお話の方をお聞きしたいわ。貴方の恋人はどう仰っているの? やはり、後宮では通いにくいと?」
「まあ、いいえ。わたくしの所は慣れたものよ。もう二年になりますの。最初の頃は、やっぱり中々来にくいようでしたけれど」
「あらあら、羨ましいこと」
くつくつと顔を寄せ合って笑って。
お互いの恋人自慢のようなことをして。
(少しは打ち解けられたかしら)
「でもね、やっぱり後宮ともなれば、どこの殿舎の誰にどなたがお通いかは、それなりに知られてしまいますから、秘密の恋には向いていないわね」
「なるほど」
勿体ぶって頷いて。
内心ユカリは冷や汗を搔いていた。
(やはり瓊花殿には慎んで頂こう)
(どこで誰の目があるかわかったもんじゃないわ)
局に戻ったユカリは、報告文の余白に一行書き加えた。
筆を置き、額に手を当てる。
(なるほど、文遣いに女御様を介するわけだわ)
菖蒲邸。
ユカリ——花影よりの報告文が届いた。
菖蒲女御から瓊花へという体で、文箱に入れられ厳重に。
急く気持ちを押さえつつ、瓊花は文を開いた。
淡々とした報告が並び、勿論和歌など添えてあるはずもなく、実に簡潔な内容に苦笑する。
女御の立ち居振る舞い、女房達の動向、そして本命の噂について。
そして、末尾に添えられた一文に、瓊花は今度こそ苦笑した。
——昨夜の来訪の目撃者あり。以後は慎むべし。
初霜が横から覗き込み、ぺしりと瓊花を軽く叩いた。
「早速見られておるではないか」
「そのようですね」
まったく、と初霜は口元を歪めた。
「堪え性のないことよ。花影殿を見習うがよい」
「お言葉、肝に銘じます」
「口先だけなら何とでも。だが瓊花、そなたの軽挙で、花影殿が危険にさらされかねんぞ」
瓊花は少し表情を改めた。
「ええ——。今後は身を慎みます。けれど……」
「けれど?」
瓊花は目を細め、刃物のような鋭い視線を投げた。
「“ユカリ”に通う男が居るとなれば、また噂が流れるだろうが——あの人がその端緒を掴む切っ掛けになればいいと」
「今回はその為にこその訪いと?」
「いいえ、ただお顔が見たかったので。こじつけです」
初霜は扇をぱらりと開いて深く溜息を吐いた。
「やはり、そなたも菖蒲の男じゃな。その顔——亡き殿に、よう似ておるわ」
一方の承香殿。
昼の光が柔らかに広がり、女房達の衣擦れの音が涼やかだ。
「あ、そうそう。昨夜ね——」
茜草は針仕事の手を止めて、隣の女房に囁いた。
声音に悪意は全く無い。
ただの恋愛話を分かち合いたいだけ。
「ほら、あの新しい方……ユカリ殿。どうも夜更けにどなたかいらしていたみたい」
「まあ、殿方?」
「ええ。でも姿は見ていないの。お声だけね。勿論何を言ってるかなんて聞こえなかったけど、随分親し気だったわ」
「あらまあ。隅に置けないのね。勤め始めたばかりだというのに、もう通う方が?」
「昔からの仲らしいわ」
「勤め先を変えても、すぐに追い掛けてらしたのね」
「ね? 情熱的でしょう」
くすくすと笑い合って、首を傾げて。
それでおしまいになるはずの話。
けれど、それは人から人へと伝わるうちに、どんどん尾鰭が付いていく。
面白い話には夢中になるのが人の常。
他人の色恋沙汰なら、格好のネタだ。
「聞いた? 新しい女房に通ってくる男が居るんですって」
「勤め始めて間もないのに、手の早い方も居たものね」
「どうやら前々からの仲なのですって。こっそり通ってくるのだとか」
「承香殿の裏庭から?」
いつの間にか、事実は上書きされ、塗り潰されていく。
麗景殿。
蘇芳女御は報告に来た女房に、ちらと視線をやった。
「承香殿の新しい女房が、早速男を引き入れたと」
女房はそっと膝を寄せ、蘇芳女御に囁く。
「実に、手の早い方も居たものだとも、古き仲故に追って来た情熱的な男なだとも言われておりますようで」
蘇芳女御は目を細めた。
扇がぱらりと開く。
「——勤めて間もないのに、軽々しいこと。菖蒲女御様の評判まで、下げかねないわ」
口調はあくまでも静かな心配を装って。
けれど、扇に隠されたその笑みは——ひどく毒々しいものだった。
女房——蛍袋はにこりと笑って平伏した。
「御意にございます」
そして——
噂は転がり出す。




