第二二話 御遊の日
御遊の朝は、秋の澄み渡る空気と共に訪れた。
まだ日も高くない。
そんな時分から、承香殿には既に女房たちの声が飛び交い、足音と衣擦れの音とで騒がしかった。
「楽器の準備は——」
「香がきつすぎませんこと?」
「ちょっと、それわたくしの扇ですわよ!」
女房達の表情は浮き立ち、明るい。
けれど、その声の端々には張り詰めた調子も混ざっていた。
ユカリも支度の半ばに呼び出され、慌ただしく参上した。
菖蒲女御の和歌を整え、文面を清書せよとのことだ。
すでに岩鏡が草稿を用意していた。
そこから選ばれたのは、晩夏を惜しみ、秋を寿ぐ五首。
精神を研ぎ澄まし、ユカリは心を込めて和歌を認めた。
ユカリが清書した紙を岩鏡が確かめ、菖蒲女御に差し出す。
女御は満足げに頷いた。
「やはり、わたくしはそなたの手蹟が好きだわ。このままずっと、いてくれたら嬉しいのに」
——ユカリが花影であると知りながらの、戯れの言葉。
ユカリは苦笑し、平伏した。
「畏れ多いことにございます」
岩鏡がゆったりと微笑んだ。
「そういえば、中将様の北の方は琴も得意と聞きました。そなた、楽器はどうなのです?」
ユカリは頬を引き攣らせながら答えた。
「楽は、あまり。お耳汚しになりますので——」
これ以上、目立ってたまるか、というのが本音だ。
現在進行形で、刺さるような視線がいくつもユカリに向かっている。
「では、私の役目はここまでで、よろしゅうございましょうか」
(はやく裏方に回って情報を拾いたいのですが)
早々に引っ込みたいユカリを、岩鏡が止めた。
「何を言うのです。そなたも御遊の席に侍るのですよ。さ、次はそなたの装束を整えなければ。女御様をよく引き立て、それでいて地味ではいけませんからね」
岩鏡が手を叩き、ザッと音を立てて場が動いた。
四、五人の女房が現れ、文台一式を片付け、調度を入れ替えた。
ユカリはあっと今に衣を脱がされ、装束に着替えさせられる。
その辺りは姫君として勝手がわかる分、悠々と構えていられた。
「ユカリ殿は少しお年を召しておられますから、若い者のように派手では却って興ざめでしょう」
「渋く貫禄があって、それでも匂いやかな風がよろしいと思いますの」
「女御様の重ねは当然のことながら菖蒲ですから、杜若は如何?」
「そうね、餅躑躅では軽薄でしょう。ああ、でも薄という手も——」
本音を言わせてもらえるなら、着慣れた卯花か白撫子辺りの、白が基調の重ねが良いのだが。
そんな重ねを着ていれば、月白の出のものだと言い触らしているようなものだ。
(正体が露見してしまったら間諜どころではないのでね)
さて、何事も無く終わるだろうか——。
色づき始めた庭木が秋の日差しを受け、鮮やかな彩りを添えている。
渡殿では女房たちが几帳の陰を行き来し、衣擦れの音が絶えることはなかった。
昼の明るさは次第に和らぎ、建物の影が庭へ長く伸び始める。
秋は夕暮れ時が一番素晴らしい。
庭には松明がならべられ、池には篝火が照り返していた。
調べの音が響き渡り、ふくよかな香りがふわりと漂う。
煌びやかな女御たちが並び立ち、艶やかな女房たちがその傍らを固める。
菖蒲女御の側に侍るユカリもまた、緊張を隠せぬままに息を整えていた。
最初に琴を奏でるのは蘇芳女御。
朗々たる音色は麗しく華やかで、人々を惹きつける。
誰もが魅了されるほどの音色で。
圧倒的な貫禄を見せつけたのだった。
続いて藤黄女御が琵琶を奏でる。
伸びやかな音は少し拙く、けれど天真爛漫で心地良い。
何度か躓き、音も外れたが、女御本人は気にしていないようだ。
屈託なく笑うその姿は、確かに人を惹きつける。
そして、菖蒲女御の番となった。
微笑みを浮かべて琴を弾く姿は優美そのもの。
そしてその音色は、清らかで澄み渡る風のよう。
格の違いを見せつけるような演奏だった。
王は殊の外感じ入ったようで。
菖蒲女御に対し、特にお言葉を述べられた。
そして、徐に笛を取り出し、奏で始めた。
菖蒲女御は少し驚いたようだったけれど、笛の音に合わせて伴奏し始める。
それは完璧な調和。
王の笛に菖蒲女御の琴が寄り添い、まるで極楽浄土のようだった、とその場に居たものは語ったのだった。
そして和歌が求められた。
菖蒲女御が歌い、ユカリが復唱する。
「秋風の音にぞ知れる御代の世は末も栄えて長かるべしな」
秋風の音に季節の変化を知るように、御代もこれから末永く栄えていくことでしょう。
嘆息があちこちで漏れ聞こえる。
「見事な御歌でございますな。流石は菖蒲女御」
「侍る女房は誰でしょう。見ぬ顔だが」
「あれでしょう、新参者の能書家で——」
公達が騒めく。
その場には、瓊花も列席していた。
中将として陪席を許されたのだ。
蘇芳女御が扇をぱらりと開いた。
「まあ、承香殿のありようは、流石に見事でございますわね」
声音は涼やかだが、その奥に微かな刺を含んでいる。
そこへ、藤黄女御がすぱんと声を割り込ませた。
「でも! 菖蒲の御方ばかり褒められて、ずるいわ。わたくしだって、この前の歌合わせでは褒められたのですからね!」
まっすぐで裏のないわがままな態度。
場が少し騒めいたが、その率直さはかえって人々を和ませる。
「まあまあ、藤黄女御様。御自分で仰せにならなくても……」
「いいじゃない、正直は美徳よ!」
子供のように頬をふくらませる姿に、辺りは思わず和やかな笑いに包まれた。
その一角、蘇芳女御がちらりと菖蒲女御の方を窺った。
「承香殿に、新しい女房が上がったそうね」
蘇芳女御は扇をひらりと動かしながら、女房たちと和やかに談笑していた。
「字も歌も立派で、菖蒲の御方の特にお気に入りだとか。先程の、あの者でしょう?」
「まあ、素晴らしいことですわねぇ。承香殿にあっては吉報ですわ」
声は明るく、笑みは柔らか。
だが、ひときわ目立たぬ位置に控えていた女房——蛍袋が、主人の意図を察する。
後刻。
廊を渡る蛍袋の唇から、静かに零れる囁き。
「菖蒲家より有能な女房が遣わされたそうよ。けれど……菖蒲の北の方の粗を隠すためらしいわ。あの方の悪評は、今や誰もが知るところですもの」
それは声高に叫ばれることなく、ただ近くにいた者の耳へ落とされる。
そして——その耳からさらに別の口へ、口から別の耳へ。
ころころ……ころころ……。
気づけば、噂はまるで朝露が広がるように、後宮を満たしていた。
「ねえ、聞きました? 承香殿の新しい女房は確かに才はあるけれど……」
「ええ、菖蒲の北の方様があまりに酷いので、帳消しにするため遣わされたとか」
ひそひそ声が、庇の影から影へ渡っていく。
それを耳にした藤黄女御は、目を丸くして無邪気に声を上げた。
「まあ! そんなことがあるの? 承香殿の方々は、いつも楽しそうにしていらっしゃるのに!」
——その声が、噂をさらに押し広げる。
七里香は早耳らしく、いち早くそれを拾った。
桔梗とともに局に戻ってきた彼女は、ユカリに小声で告げる。
「どうも承香殿の噂が、また少し広がりましたよ。しかも……今度は、貴女が褒められるほど、女御様と菖蒲家の立場が下げられるような調子で」
ユカリは息を静かに整えた。
そう来たか、という心持ちである。
(私の悪評を消すために私が遣わされたって、とても変な気分だわ)
敢えて軽口で捉えてはみても、仕事の速さと的確さとには舌を巻く。
「……やはり、誰かが意図的に噂を操っているようですね」
誉れが積まれるごとに、影もまた濃くなる。
その仕掛けの糸口を、必ず掴まねばならなかった。
七里香は、眉を潜めながらもどこか楽しげに囁いた。
「後宮はまったく、噂の種が尽きませんこと。……でも、今回は笑ってばかりもいられませんよ」




