第二一話 早耳の人
「まあまあ! 新しい女房のユカリさんですね?」
七里香はぱっと近寄り、ユカリの顔を覗き込んできた。
距離の詰め方が、強い。
明るい声と笑顔に押され、思わず一歩下がりそうになる。
「え、ええ。ユカリと申します。この度、女御様のお側にお仕えさせて頂くことに——」
「承知してますとも!」
七里香は片手をひらひらさせ、得意げに笑った。
「昨日の代筆のことも、皆が話していましたから。『新参女房は能書家』ですってね。ふふ、こうして拝見すると、なるほど品のある方だわ」
「……有難うございます」
(この人が承香殿の情報通か——)
七里香はぐっと声を落とし、囁くように言葉を続けた。
「でもね、良いことばかりじゃなくってよ。女御様に気に入られれば、それだけ嫉妬の的にもなる。寒椿さんなんかは、もう顔にありありと書いてますもの」
ユカリは一瞬目を伏せ、苦笑で応じる。
「お耳の早さに加えて、お目も鋭くていらっしゃる」
「当然ですわ!」
七里香は胸を叩き、声を弾ませた。
「ここ後宮で生き残るには、耳と目と口を上手く使うこと。余計なことは言わないで、必要なことは見逃さない。そして噂は使い様——矛にも盾にもなりましてよ」
(なるほど……観察眼と度胸を兼ね備えてるのね。流石は承香殿か。女房の質が高い。そして——)
それは間諜にも通じる能力だ。
良い手本が見つかったかもしれない。
いや、この高揚した振る舞いは、真似のできない無二のものだろうけれど。
桔梗が苦笑交じりに肩を竦める。
「七里香殿はこの通りの方です。裏表も無い方——というよりは、どちらも表にしてしまわれる方と言いましょうか……。癖は強い方ですが、悪い方ではありません」
ユカリは改めて七里香に向き直り、丁寧に頭を垂れた。
「これから、どうぞ宜しくお願い致します」
七里香はぱっと笑みを広げ、にこやかに頷いた。
「任せてくださいな! 困ったら、私の耳を頼りなさいませ!」
(……思った以上に、心強い人かもしれない)
後宮には、澄んだ空気とともに、凛とした気品と穏やかな静寂が息づいていた。
華やかな装飾よりも、静かな品格が承香殿に満ちている。
秋風は涼やかで、薫香と庭の草花の香を共に運んでくる。
少しずつ、日常業務にも慣れ、菖蒲女御の女房としての務めもこなせるようになってきた。
そんなある日の夕暮れ。
局に戻ったユカリを待っていたのは、にこにこと笑みを浮かべた七里香だった。
「おかえりなさいませ、ユカリさん。お待ちしてましたのよ」
至極当然のような顔をしてユカリの局に居る七里香に、怒るより先に苦笑が出た。
「七里香殿、何かございました?」
「大したことではございませんが、お耳に入れておこうと思って」
七里香は少しだけ距離を詰めた。
「近々、清涼殿で御遊があるんですの。主上がお出ましになられます。そして女御様方もご列席なさるはず」
ユカリは小さく頷いた。
(近習である瓊花殿もいらっしゃるかしら。——それまでに少しくらいは何か掴んでおきたかったけれど)
「ご存じないでしょう? これは承香殿にとっても大事な晴れ舞台。他の女御様方に負けないよう、菖蒲女御様も、私たちも、念入りに準備しますのよ」
「晴れ舞台——ですか」
王の寵愛を受けることは、女御の立場を盤石にする。
そしてそれは、後宮の勢力図に大きな影響を与えるのだ。
「ユカリさん、貴方も他人事ではありませんわよ」
ユカリはぎくりと肩を強張らせた。
「ど、どういう意味です?」
上擦ってしまった声が憎らしい。
もっと平然と返せなくては、間諜など務まるまい。
「裏方に徹しようとか、思っても無駄ですわよ。貴方もきっと女御様のお側に侍ることになりますわ」
七里香はにこりと笑って更に続けた。
「私としては、ユカリさんがこの機会に、どんな役目を果たすのかが、ちょっと楽しみでしてよ」
ユカリの顔が引き攣った。
(これは——興味を持たれているのは、いいことなのか、悪いことなのか……)
「ご教示ありがたく存じます。菖蒲女御様のため、承香殿のため、尽力致します」
(ついでに高揚している空気に乗じ、情報が得られれば一挙両得)
七里香は満足げに頷いた。
「そうそう。その調子ですわ。きっと色々、面白いものも見られましてよ!」
ユカリは少しだけ頬を引きつらせた。
(ど、どこまで深読みしていいんだ、この人の言葉——!)
承香殿に御遊の知らせがもたらされ、空気は一変した。
女房達の声は一段と高く響き渡り、夜更けまで絶えることは無い。
「装束をどう致しましょう」
「仕込んであった菊花香の、熟成具合もそろそろ良い頃合いですわよ」
「和歌は? 予め用意しておくのは当然として、即興で求められた際にも返歌に困ることがあってはなりませんわ」
慌ただしく飛び交う声の中、ユカリは静かに墨を磨っていた。
菖蒲女御に命じられたのは、披露する和歌の代筆だ。
「そなたも考えておくれ」
(和歌は、得意ではないのだけれど……)
伝統を重んじ、教養や学問に秀でた菖蒲家所縁の者として。
また、菖蒲女御の女房として。
無様を晒すことは許されない。
(まずは手慣らしから……)
ユカリは考え考え筆を整え、紙に向き直った。
筆先をそっと置く。
そして筆は、紙の上を滑るように走る。
決して性急な動きではなく、けれど無駄がない。
筆運びがゆったりとすれば墨付きは濃くなり、素早く返せばかすれが美しい。
菖蒲女御が歌を詠み、岩鏡が言葉を添え、整える。
ユカリが書きあげ、見事な一首ができあがる。
「やはり、ユカリ殿の手蹟は見事ですわ……。このまま表装しても良いくらいでは?」
岩鏡が頷き、菖蒲女御が微笑む。
「ユカリ、扇に一筆書いておくれ」
「承知致しました」
ユカリが静かに会釈し、称賛の声が重なる。
しかし、その陰で悔し気に唇を噛む者もいた。
御遊まで、この緊張感は続くのだろう。
ユカリはこっそりと溜息を噛み殺した。
夜も更けて。
局に戻ったユカリを、桔梗がそっと訪ねてきた。
「大役を仰せつかりましたね。女御様もご安心でしょう」
「そう、でしょうか……。私はまだまだ新参者でございますのに」
「ええ、ですが、御遊は陛下と女御様方の親睦を深める場であり、また各々の立場を決める場でもございます」
ユカリは頷く。
「そのために、女房の皆様方も競い合い、高め合っておられるのでしょう」
「ええ。己の使える女御が王の覚えめでたければ、それはそれぞれの実家の権勢をも弥増すことでしょう」
桔梗はユカリの手を取り、頷く。
「ユカリ殿の働きは、きっと女御様のお力になります。お励みください」
(そう。菖蒲女御のためだけでなく、菖蒲家のため、ひいては私自身のためにも、絶対に失敗できないということ)
一方その頃。
七里香は女房たちを相手に、小鳥のように囀っていた。
「飛香舎の藤黄女御様も、麗景殿の蘇芳女御様も、入念にご準備なさっているようでしてよ。特に飛香舎! 名高い楽人を呼び、稽古を重ねておられるとか」
「まあ」
「やはり承香殿も負けてはいられませんわね」
七里香は楽しげに笑い、ちらりとユカリの局の方向を見遣った。
(さてさて、ユカリさん。貴方がどんな働きを見せるか、楽しみにしておりますわよ)
今宵は月が特に明るい。
承香殿の夜はなお騒がしく続いていく。




