第二十話 頭角を表す
ユカリとして承香殿に潜入し、二日目の朝。
菖蒲女御の代筆を務めることとなった。
本心を言えば、働いている場合ではなく、早く噂の出所を確かめたいのだけれども、そういうわけにはいかない。
(女房修行に来たわけではない。——が、場所が後宮であるのだから仕方がない)
そもそも『ユカリ』は博学にして能書家——その才を買われて女房に取り立てられた、という触れ込みである。
「女御様よりのお言葉を文に認めるのですよ」
居丈高な声に、ユカリは少しばかり溜息を吐きたくなった。
声の主は寒椿。まだ年若く、何かと目立とうとする気配が濃い。
(まあ、新参者が大きな顔したら、不愉快にもなるでしょうね)
大人しく墨を磨り、筆の具合を確かめる。
穂先が少し柔らかいか。
ならば、含ませる墨は濃い目、量は少なめがいい。
もう少し磨って、加減を確かめる。
「随分とゆっくりなさるのね。書が堪能な方は準備に時間が掛かるのかしら」
嘲りはきれいに無視した。
心は澄んでいなくてはならない。
揺らぎは、必ず字に現れるものだ。
ユカリは紙を広げ、そっと筆先を置いた。墨がすっと滲む。
(流石は後宮。良い紙だわ)
そして、筆は揺ぎ無く滑り出す。
緩急のある筆運びに迷いはない。墨継ぎも完璧。
瞬く間に書き上がった文面は、それはそれは見事に美しく気品に満ちて。
思わずのように小さな歓声が上がった。
「ま、まあ、能書家と仰るだけのことはあるようね」
寒椿がむっとしながらも、強気に言い募る。
その声を、桔梗がおっとりと遮った。
「何とも読みやすく、美しい字ですこと。特に濃淡が素晴らしいわ。ユカリ殿、わたくしの文もお願いできまして?」
騒めく周囲に控えめに会釈し、ユカリは微笑む。
「畏れ入ります」
菖蒲女御は差し出された文を一瞥し、満足げに頷いた。
ユカリに視線を向け、微笑む。
「佳き字ですこと。筆運びから、心根の落ち着きまで感じられます。そなたを迎えてよかったと、思っておりますよ、ユカリ」
「ありがたきお言葉、痛み入ります」
しっかりと視線を受け、平伏するユカリ。
寒椿がひとり、ぎりりと歯を噛み締めていた。
昼下がり。
桔梗が菓子を手土産に局を訪れた。
「流石でございましたね。あの場で、あそこまで見事な手蹟をご披露なさるだなんて。随分と胆力がありますこと」
「ふふ、畏れ入ります。桔梗殿のお言添えがなければ、あの場はきっと険悪になっておりましたでしょう。ありがとうございました」
桔梗はおっとりと微笑んだ。
「若い者は女御様に気に入られようと、躍起なのです。貴方のような方がいらしては、心穏やかではいられないのでしょう」
「桔梗殿はそうではないのですね」
「あら、わたくしもその一角かもしれませんわよ?」
ふふ、と柔らかく笑って。
桔梗はそっと言い添える。
「年齢も近いでしょうから、どうぞなんでも仰ってね。岩鏡様からもよく言い含められております」
「まあ、そんな優しいことを仰せになられると、私調子に乗りますわよ? 頼りきりになるかもしれません」
まあ、と桔梗は目を丸くして微笑んだ。
「承香殿は口さがない者も多いですが、すべてという訳ではありません。ユカリ殿の信じられる者を、どうぞ見失いませぬよう」
「ご忠告、感謝致します」
ユカリが承香殿に身を置いてから三日目。
再び女御の代筆の役目が与えられた。
新参者に過ぎぬのに、と陰口を叩く者もいる。
だが、ユカリの手蹟を見れば、誰もが黙らざるを得なかった。
華やかというよりは落ち着いた優美さ。
読みやすさと品格を兼ね備えた文字は、単に流麗というだけに留まらない。
菖蒲女御もまた、それを好ましく見つめている。
「今度、そなたの手掛けた和歌集など、欲しいものですね。屏風などに仕立てましょうか」
その一言に、嫉妬を滾らせる女房も居た。
(あまり目立ちたく無いんだけどなあ)
とは思いつつ、気に入られているのは嬉しい。
人の心とは単純なものだ。
そして。
後宮に新たな噂が流れた。
「承香殿の新しい女房は能書家だが生意気」というものだ。
桔梗が苦笑交じりに教えてくれた。
「早速有名になりましたわね、ユカリ殿」
ユカリは苦笑しつつも目を細める。
「噂とは、まったくどこから生まれ、どこへと向かうのでしょう。後宮は、噂が渦巻いているのだと聞いて参りましたが……。本当なのですね」
桔梗は困ったように笑った。
「悪口を言うことで、仲を深める者もおりますから」
噂の始まりは多くの場合、不完全な情報や曖昧な事実だ。
伝播の過程であれこれと尾鰭がつき、元の形と変わっていくのが世の常。
——それなのに、菖蒲の北の方の噂は形を変えずに漂い続けている。
「そういえば、承香殿……に限りませんけれど、後宮にはやはり早耳の方がいらっしゃいますの?」
「あらあら、ユカリ殿も噂がお好き?」
ユカリはにこりと邪気無く笑って見せた。
「人並み程度でございますけれど」
(それでは済まない事情があるものでしてね。手に入れられる情報は多ければ多いほど良い)
桔梗はおっとりと小首を傾げる。
「後宮で、というのでしたら、やはり典侍様でしょうけれど。——あの方は、常に後宮のことを把握して置かねばならぬ立場でいらっしゃいますから、すこし違いますわね。ここ、承香殿なら——七里香殿ですわ」
「七里香……殿」
「あら、お呼びになった?」
明るい声が降ってきて。
ユカリは目を丸くし、桔梗は苦笑した。
「七里香殿。相変わらず早耳でいらっしゃいますこと」
「当然ですわ! 私の名を囁いたときには、私は既にそこにいるのです! 何故なら私の耳は、七里先まで聞こえるのですわ」
顎を反らせて胸を張り、得意げに。
どこから現れたのか、御簾の影からすっと顔を出したその女房は、年の頃は二十前後か。
きらきらと輝くような笑顔に、周囲がふっと明るくなるような雰囲気を纏っている。
(後宮って……個性豊かな女房が多いのね……)
ユカリはしみじみと述懐した。




