第十九話 潜入、承香殿
菖蒲女御から初霜のもとに返事が届いた。
正確に言うのなら、初霜へと花影宛の文を託したのだ。
「女御よりの言伝じゃ」
初霜が花影のもとを訪れ、文を渡す。
シヲンが恭しく受け取り、花影に差し出した。
「局を整えて、楽しみに待っておると。新しい玩具を待ち望む童のようじゃな」
あまりの評に、花影が苦笑した。
「畏れながら、初霜の御方様に申し上げます」
シヲンが平伏し、初霜に声を掛けた。
「うん?」
「どうしても、わたくしがお供することは叶わぬのでしょうか。危険な場所へ姫様、いえ、我が主を単身向かわせることに、今も心乱れております故」
初霜は優しく目を細めた。
「女房が女房を連れて参内するわけにはいかぬからの。一人の方が却って安全じゃ。なに、花影殿はそなたが良く知っての通り、豪胆で頭も切れる。大丈夫じゃ」
「……過ぎたことを申しました」
シヲンは平伏し、花影はシヲンの肩をとんとんと優しく叩いた。
「頑張ってくるわ。シヲンを目標に、近付けるように」
「姫様……女房修行に参られるわけではございませんよ」
「でも、使えなさ過ぎて放逐されても困るからね。役に立たないまでも、邪魔にはならないようにしなくちゃ」
花影はきりりと眉を引き締める。
「本分は間諜とはいえ、見劣りせぬように動かねばならないわ」
承香殿。
初霜の一行に紛れて参内した花影は、手筈通りに菖蒲女御へ目通りしていた。
案内をするのは古参女房の岩鏡。
菖蒲女御が入内する前からの腹心である。
岩鏡は花影を連れ、御簾の前に平伏し、口上を述べた。
「女御様、本日参内致しました、ユカリと申します。本日より、お側にお仕え致します」
花影も続いて口上を述べる。
「本日より、お側に置いて頂きます、ユカリに御座います」
女御はわずかに目を細め、「そう」と穏やかに頷くだけ。
だが視線がふと花影に触れた瞬間——わかっていますよ、と告げるような、淡い目配せがあった。
その僅かな仕草に、胸の奥で張り詰めていた糸がすっと解ける。
「岩鏡、局へ案内しておやり」
女御は興味が失せた風を装って、扇を振った。
岩鏡と花影——いや、ユカリはゆっくりと首を垂れ、退出する。
「ではユカリ、こちらが貴方の局です」
岩鏡がそっと御簾を下ろし、声を落とした。
「わたくしと女御様のみは、すべて、伺っております。どうぞ、お気を付けて」
「お世話になります。不束者でございます故、お手数をお掛けするかと存じます。申し訳なく——」
ユカリとなった花影はそっと頭を下げるが、口上の途中で岩鏡に遮られる。
「いいえ、菖蒲の御家の大事に、我らが黙って居れるはずもございませぬ。失礼とは存じますが、これよりはユカリとして接します。必要なことはどうぞご遠慮なく」
「畏れ入ります」
局の中は几帳で区切られ、調度は簡素ながらも整えられていた。
ここからが自分の「潜伏の場」になるのだと、花影——いやユカリは身を引き締めた。
女御の周囲に侍る女房たちが、一人ひとり名を告げ、ユカリを迎えた。
中には柔らかな笑みを返す者もいれば、好奇の光を宿した瞳を向ける者もいる。
一人、鋭い視線を投げてきた女房がいた。
その目は「余所者を値踏みする」色を帯びており、後宮という場所の厳しさを思い知らせる。
「皆さま、今日よりはどうぞ宜しくお願い申し上げます」
ユカリは丁寧に頭を垂れた。
正直、慣れない女房装束は重くて肩が凝りそうだし。
うっかり素が出ぬように、猫を被らねばならないし。
正体を見破られぬように、気を張らねばならない。
だが、そんなことなど知らぬげに、外には朝の光が差し込み、鳥の声が賑やかに響き始めていた。
後宮の一角、承香殿に。
一石が、静かに落とされたのである。
ユカリとしての初めての朝は、息を呑むほど慌ただしかった。
格子が上げられると、すぐに女房たちの軽やかな声が飛び交う。
まだ不慣れな装束を直す暇もなく、ユカリも彼女たちの流れに巻き込まれていった。
「角盥をこちらへ——」
「紙を急いで」
「中納言様がいらっしゃいました」
矢継ぎ早に指示が飛び、あちこちで衣擦れと足音が重なる。
香炉に火を入れ、御簾を上げ下ろし、硯に水を注ぐ——。
長く姫君として育った花影にとって、これほど立ったり座ったりを繰り返すのは、ほとんど初めての経験だった。
ぎこちない手つきで盆を運ぶ姿に、周囲から忍び笑いが漏れる。
文を綴る紙を取り違えれば、舌打ちが。
御簾を上げる手がもたつけば、わざとらしくため息が、漏れ聞こえる。
(……笑いたければ笑うがいいわ。けれど、務めは果たす)
心の中で唇をきつく引き結ぶ。
やがて菖蒲女御の御前に侍る時間となった。
穏やかに微笑む女御の視線が、一瞬ユカリに留まる。
——「大丈夫」。そう告げるような柔らかな目配せに、張り詰めた胸の奥が少し緩んだ。
昼下がり。
迷ったふりをして、ユカリは辺りを窺う。
人だかりを目にし、そっと近付いた。
女房たちが集う庇の片隅。決して大声ではない会話。
「……もうお耳に届いたかしら? 菖蒲の北の方、またですって」
「ええ。あの方、中将様を手玉に取って、家中を乱しているとか」
「恐ろしい方ねぇ」
——それは、花影の噂だった。
しかも、常夏から届いたあの悪評と、寸分違わぬ筋書きで囁き交わされている。
(菖蒲女御のお膝元でこれなら……他はもっと酷いのね)
嫌な確信が胸の奥に重く沈んだ。
夕刻。
女御の御前を下がり、局に戻ったユカリはひと息ついた。
慣れぬ労働に肩は重く、指先には小さな擦り傷が浮かんでいる。
墨を磨るのは慣れているけれど、それ以外は——。
(シヲンに任せきりだったものね……。貴方、すごいわ。シヲン)
帰ったらその苦労に報わねばならないな、と心に決めた。
けれど、それ以上に胸を覆っていたのは——昼間耳にした「噂」の残響だった。
ここ承香殿の女房たちまでが、自分の悪評を当然のように口にしている。
(自然に広がった流言、というには違和感がある。やはり誰かが意図して書き上げた筋書きなのでしょうね)
不意に御簾が揺れた。
ユカリが振り返ると、ひょいと顔を出したのは若い女房だった。
確か名前は寒椿——だったか。
「ユカリ殿。少し、手を貸していただけません?」
笑みを浮かべながら差し出されたのは、半挿。
だが、思った以上に重く、そして寒椿はわざと手を離したようにみえた。
袖口が濡れ、衣が冷たく肌に張り付く。
「ごめんなさい。貴方には少し重たかったのかしら。悪いけど、あちらへ運んでおいてくださいね」
寒椿は悪びれる様子もなく笑い、去って行った。
周囲から小さな忍び笑いが聞こえた。
昼間も、香炉の炭をわざと落とされ、火の粉で裾を焦がしかけたし、文箱を持ち運ぶ際に中身を入れ替えられ困惑したり。
些細な意地悪の連続が、確実にユカリの体力と心を削っていく。
だが、悔しさよりも、心に刻まれたのは警戒心だった。
ここでは、周囲はすべて敵と思って動いた方がいいのかもしれない。
だが同時に、冷水よりも鋭く胸を突いたのは自分の弱さだ。
(慣れることに精一杯で、これでは間諜として動くどころでは……)
花影のことを豪胆と初霜は評したが、こんなにも弱さを思い知らされるとは思わなかった。
(いいえ、弱気になっては駄目。無理でもやるの。私自身のためにも)
誰しも不慣れな環境では弱くなるもの。初めて菖蒲邸へ足を踏み入れた時も不安でいっぱいだった。
ユカリは袖をそっと握り締めた。
その掌に残る冷たさを、決意に変えるように。
——たとえ孤立しようとも、この承香殿で必ず真実を掴み出してみせる。
そこへ静かに近付いてきた影があった。
「……大丈夫ですか?」
振り返れば、桔梗が立っていた。
女御に仕えて長い女房の一人で、物静かな気配をまとっている。
彼女はそっと手巾を差し出し、周囲に聞こえぬよう低い声で囁いた。
「新人の時は、誰しもああしてからかわれるものなのです。ただ、あの子は少し悪戯が過ぎるのよ。——悪く思わないでやってね」
ユカリは受け取りながら、慎重に言葉を選ぶ。
「……お気遣い、痛み入ります」
ユカリは受け取りながらも、慎重に声を抑えた。
桔梗は小さく首を振り、微笑を残して立ち去った。
庇うでもなく、突き放すでもなく——ただ、冷水に沈んだ心をわずかに温めるような気配。
(……味方、かどうかはまだわからない。けれど、見ている人はいる)
ユカリは袖を拭きながら、胸に小さな火をともした。




