第十八話 噂という名の筋書き
花影は柱に寄り掛かり、静かに月を見上げていた。
胸を過るのは先程の遣り取りだ。
(果たしてどちらを選ぶべきか……)
どちらを選んだら、菖蒲家のためになるだろうか。
期間限定の契約婚であっても、今は花影が北の方。
菖蒲のため、尽力するのが役割だ。
(内裏を見てみたい気持ちもある。だけど、ちゃんと役目が果たせるか、心配)
どちらも偽らざる本音。
数多の書物や物語に描かれたその場所は、手の届かぬ遠景であった。
華やかでいて、影の濃い場所。
権謀術数が渦巻く、危うい世界である。
「姫様、常夏様よりお文でございますよ」
シヲンが結び文を携えて、そっと控えた。
広げれば、流麗な手蹟で内裏の様子が綴られている。
(相変わらず、私の悪評か——)
人から人へと伝わる途中、言葉は形を変えるもの。
伝達の内容は得てして変わっていくものである。
しかし花影の悪評に関しては、始まりから終わりまで変化なく、まるで寸分違わず伝えられているようで——。
常夏は「気味が悪い」と締め括っていた。
(散楽のように、台本があるのかもしれない)
大抵は即興。
だが、演目を正確に演じるための、進行順序や台詞が掛かれた本があり、それをなぞるように演じることもあると聞く。
誰かが——黒幕が描いた筋書きを、内裏の人々は、それと知らずに演じさせられているのかもしれない。
(だとしたら、相当……手強い相手ということになるわね)
噂を裏から探る者が必要だと、初霜は言った。
その通りだと、花影も思う。
ただ、期待通りの働きができるかどうか、不安はある。
何しろ生まれてこの方、姫君として生きてきたのだ。
人に仕えるなど、想像もしていなかった。
早々に馬脚を露せば、それは菖蒲の恥になる。
ひいては生家の月白にも及ぶ。
自分一人の失敗で済まされぬところが、一番の懸念であった。
(だが、確かに間諜は必要だ)
シヲンが凝と自分を見つめているのを感じ、花影は振り返って笑って見せた。
「心配を掛けているわね」
「いいえ。姫様の——奥方様の思う通りになさるのが、一番だと私は思います」
花影は目を細めた。
「シヲンはいつもそうね。私のことが一番大事なの」
シヲンは真顔で躊躇いなく頷いた。
「それは勿論。腹心でございますので」
「ありがとう」
「勿体ないことでございます」
花影はまた、月を仰ぎ見た。
(手を打つならば早々に——手遅れにならない内に)
空に浮かぶ半月は、くっきりとその輪郭を輝かせ、強く確かな光を投げている。
後宮という舞台に足を踏み入れることは、容易ではない。
だが、そこでしか掴めぬ真実があるのもまた確か。
(迷っている時間も、長くは残されていない……)
風が庭を渡り、葉を鳴らした。
それは促すようでもあり、警めるようでもあった。
花影は静かに目を伏せ、唇をきゅっと結んだ。
決断の刻が、ひたひたと近づいていた。
夜も明けきらぬ内から、花影は目を覚ました。
菖蒲邸はまだ、薄闇に沈んでいる。
遠くで鶏の声が響いた。
(迷いは捨てる。決めた。——後宮に、潜入する)
身を起こし、几帳で隔てられた隣へ視線をやる。
まだ瓊花は横たわっているようだけれど。
「起きていますか?」
花影はそっと声を掛ける。
「——ええ。おはようございます」
「おはようございます」
挨拶だけ交わして。
几帳を隔てたまま、二人は向き直った。
「瓊花殿」
「はい」
「私、決めました」
「——はい」
「後宮に潜入致します。間諜としてのお役目、確と果たして参ります」
張り詰めた花影の声に、瓊花はそっと答えた。
「そうなるような、気がしておりました。——貴方が決められた以上、とやかく申すのは止めに致します。ただし、これだけは覚えておいてください」
瓊花はゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「どうか、無茶をなさらぬよう。貴方の安全が第一なのだということを、どうぞお忘れなく」
花影は小さく苦笑した。
何とも過保護なこと。
契約上の、一時の間の妻なのだから、そこまで心を配ることもないのに。
「心得ました」
いつの間にか、居心地の良さを感じてしまっている。
長くて十年。
藤波が元服するまで。
ただ、それまでの間柄なのに。
菖蒲家は、ことによると月白家よりも過ごしやすいかもしれない。
(……だめだめ。過剰な思い入れは後々辛くなるだけ)
花影は頭を振った。
彼方此方で格子が上げられる音がする。
おめざめあれ、と声が響いていく。
小さく深呼吸をし、花影はシヲンが角盥を運んでくるのを待った。
冷水で顔を洗い、眠気の残滓を追い払う。
速足だった鼓動が落ち着いていく。
花影は身支度を整え、シヲンに頷いた。
「文の用意を。——菖蒲女御様へ」
シヲンは少しだけ息を呑んで、けれどすべて悟ったように頭を垂れた。
書き上がった文を初霜に見せる。
「これで、ようございましょうか」
花影の文を読んだ初霜は、うんうんと何度も頷いた。
「……うむ。良いぞ。それでこそ、わたくしが見込んだ女子じゃ。手筈を整えるよう、わたくしの方も女御へ言伝よう」
初霜はやる気に満ちた笑みを浮かべ、眼を輝かせる。
まるで悪童のよう、とは思ったけれど、花影は懸命にもそれを飲み込んだ。
「瓊花殿、義姉上様。今一度、確認をお願い致します」
瓊花が頷く。
「調べて頂きたいことは、花影殿の悪評についてです。気付いたことはすべて、書き送ってください。怪しいと思われたこと、おかしいと感じられたこと、不審な者、すべてを」
初霜が言葉を続けた。
「少しでも引っ掛かった時は、それが何かわからぬ時も書き残せ。後になってわかることも多い」
「——義姉上様は、随分と間諜に関してお詳しいのですね?」
初霜は少しだけ視線を揺らし、瓊花は胡乱な視線を初霜へと投げた。
「……まあ、若い頃にいろいろあっての。わたくしのことはよい。捨て置け」
「兎にも角にも情報です。私には手に入れられぬ女子同士の遣り取りの中から、見つけ出して頂きたい」
◆
七殿五舎。そこは一般に後宮と言い表される。
現在、菖蒲女御の御座所は承香殿である。
麗景殿には蘇芳女御が、飛香舎(藤壺)に藤黄女御が、昭陽舎(梨壺)と北舎に東宮と東宮妃が座している。
菖蒲女御は、花影と初霜からの文をぱらりと広げた。
仕草のひとつひとつがおっとりとして、優雅である。
菖蒲女御の唇にうっすらと笑みが刷れた。
「——そう。お心を、決められましたのね」
花影殿、と音もなく唇が動く。
面白くなりそうだ。
「如何致しますか、女御様」
「そうね、もう一人二人、女房を増やしたいわ。良きように、図らいなさい。——局を整えてね」
「承知致しました」
女房を下がらせて、菖蒲女御はくつくつと密やかに笑った。
文に指先を走らせて、その笑みが深くなる。
悪評高い醜女の菖蒲の北の方、花影。
子を設けるには年増に過ぎ、性格は苛烈で悪辣。
菖蒲の家を良いように引っ掻き回している、毒婦。
だが、こうして手蹟を見てみるに、整っていて荒々しいところは無い。
流れる水のような、清らかで麗しい文面に、墨の濃淡も見事だ。
「とても、毒婦のしたためたものとは、思えませぬ」
手蹟は書き手の性質を表すもの。
隠しても、その人柄は滲み出る。
それにしても、伝え聞く話と、実際に届いた文との隔たりが大き過ぎる。
花影とは、一体どんな人物なのだろう。
(瓊花殿は既に骨抜きと聞く。——あの従兄弟殿が、骨抜きと!)
菖蒲女御の目が、三日月のように細まった。
「楽しくなるわね」
さて、投じた石は、どんな波紋を投げかけてくれるだろうか。




