第十七話 好奇心と恐怖の狭間
夏の名残の熱気はまだ残るものの、夜風にはほんのりとした涼しさが混じりはじめた。
池の蓮は花を閉じ、葉の上に露が丸く光る。
蛍の数は減り、代わって松虫や鈴虫の声が澄んで響く。
月はやや高く冴え、庭全体を静謐な光に包んでいた。
荷葉香を、そろそろ菊花香へと変えようか——
つらつらとそんなことを思う、夜。
瓊花と初霜は花影を前に、難しい顔をしていた。
先に口を開いたのは、初霜。
「——提案が、あるのじゃ」
瓊花は苦々しく口元を引き締めている。
「提案、とは?」
「近々また、参内する。その際に、そなた、ついて参れ」
瓊花がごほんと咳払いをした。
「義姉上、それは提案ではございません」
初霜が眉根を寄せた。
「むむ、言い方がまずいか」
「そもそも私は反対申し上げているのです」
花影は首を傾げた。
「あの、全く話が見えぬのですが」
瓊花はちらりと初霜を見遣り、溜息を吐いて花影に向き直った。
少しだけ、膝を進める。
「義姉上の女房として、参内せぬかとの提案です。断って頂きたい」
「は?」
初霜ががりがりと頭を掻いた。ぞんざいな仕草だ。
「いや、例の噂がな。どうにも中々出所を掴めぬでな。まずはわたくしの女房として参内、折を見て菖蒲女御の局へ移る。女御もすでに内々に同意じゃ。そなたは何ぞ仮の名を用いて後宮に紛れ、女房として裏側から探ってみてはどうかと」
「そのような危険な真似をさせることなどできませんと、何度お断りしても義姉上は聞く耳持ちません。女御とも勝手に話を進めて——。まったく、勝手が過ぎます。貴方からはっきりと断ってください」
花影はぽかんと口を開けてしまった。
「義姉上様は、間諜をせよとの仰せで?」
「うむ」
瓊花は首を横に振る。
「駄目です。危険すぎます」
「だが、花影ならば不足はなかろう。立派にやっていける胆力もある」
「そういう問題ではございません。後宮で女房などと、危ないではありませんか。誰ぞに見初められたらどうします。手の早い遊び人が多いのですよ? 私は反対です」
(的外れな心配というか、瓊花殿はまた……)
花影はやれやれと頭を振った。
「私に内裏勤めの女房が務まりますかが、まず第一に不安でございますね。しくじれば菖蒲の恥になりましょう」
初霜はふんと鼻を鳴らす。
「そんなもの、握り潰せば良いのじゃ」
「義姉上少し黙って頂けませんか」
瓊花はあからさまに不機嫌な様子を隠さない。
花影に話を通す以前に、初霜と相当遣り合ったのかもしれない。
こほん、と花影は咳払いし、言葉を続ける。
「第二に、後宮女房を卒なくこなせたとして——間諜などと、何をすればよいのでしょう。皆目見当つきません」
初霜は扇を振った。
「それはあれじゃ。女子の目で見、女子の口から拾うのよ。男子の目の届かぬ所も多々あろう。瓊花一人では力不足でな」
瓊花は少しだけ顔を曇らせた。
「——恥ずかしながら、それは認めましょう。存外簡単に掴めると思った尻尾が、まるでみつかりません。余程巧妙な相手なのか……私たちが見当違いの場所ばかり、探っているのかのどちらかです」
「お見立て違い、と」
花影は袖を口元に当て、考えた。見立て違いとして、ではどこを探れば良いというのか。
初霜は軽く言ってのけた。
「その辺りをそなたの目で見て確かめてほしいのだ。仮の名は、当座——ムラサキとでもユカリとでもすればよい。マシロとかでも良いが。なに、そなたの顔を知っている者なぞおらぬのだ。如何様にもなる」
紫は菖蒲の色。順当な女房名ではある。
真白は月白からの連想だろう。
花影は唸り、瓊花は深々と溜息を吐いた。
「義姉上は化粧で顔を変え、ご自身が乗り込むとさえ……。まったく、元王族として顔も声も知られておりましょう。おまけにその態度ですぐに見破られます」
初霜は扇でぺしりと瓊花を打った。
「うるさいわ。やってみなければわからんではないか」
瓊花は扇を手でぞんざいに跳ねのける。
「重鎮どもに啖呵を切ってお輿入れされた際のこと、今だ内裏では語り草となっておりますが」
初霜は頬を膨らませて黙りこくった。
「中々、難しいお役目でございますね。——義姉上様は私にならできると。そして瓊花殿はできぬ、と」
「貴方を侮っているわけではありません。その所は誤解して頂きたくない。ただ、私は貴方を危険な場所に放り込むのが、嫌なのです」
真摯に訴える瓊花に、花影は少しだけ目を細めた。
(危険な場所——)
興味はある。
物語の舞台ともなる後宮とは、内裏とはどのような場所なのか。
どのような設えであるのか、どのような調度品があるのか。
建物の様子は。女御の御座所は——。
(そう。物語の中で描かれていた場所に、私が本当に足を踏み入れられる)
空想の中だけでない、舞台。
空想の中ですら思い描けなかった、間諜という立場。
好奇心と恐怖心とが鬩ぎ合う。
何とも言えない表情を浮かべた花影を、瓊花は心配そうに見つめる。
視線に気付き、花影はそっと笑った。
「私は瓊花殿の妻ですので、夫が心底嫌だと云うのであれば、退きましょう。ですが、義姉上様が私ならば、と見込んでくださったのであれば、それに応えたい気持ちもございます。ですから——」
花影は居住まいを正し、きれいに頭を垂れた。
「返事には、今暫くの猶予を頂きたく存じます」
瓊花がほっと息を吐き、初霜が頷く。
「即断即決とはいかぬ話故、よく考えよ。そして仮の名も考えておくとよい。参内の際はわたくしが橋渡しをするでな」
初霜は既に連れて行くと決めて掛かっているらしい。
瓊花が肩を落として安堵した。
「即答で行くと仰られなくて、よかった……」
花影は少しばかり目を細めた。
どの道を取るにしても、菖蒲家の不利益になってはならない。
花影は菖蒲家当主の北の方として、取るべき道を見定めなくてはならなかった。
(後宮は魑魅魍魎の跋扈する場所)
どの物語でもそれは変わらない。
一旦足を踏み入れて、果たして無事に出てこられるだろうか。
花影は、底知れぬ暗い淵を覗き込んだ気持ちになった。




