第十六話 揶揄いではなく
昼間の熱気がまだ残るものの、池のほとりから風が吹けば、はっとするほどの涼しさを感じられる。
水面には月が揺れ、蓮の葉の影が静かに揺蕩う。
蝉の声は止み、代わって松虫や鈴虫の鳴く音が、夜の静寂を彩っている。
沈香がほんのりと漂い、夢のような心地よさだ。
——だが、花影と瓊花の間に漂っていたのは、夢心地とは程遠い、ぴりりと張り詰めた空気であった。
「なるほど」
瓊花が重々しく頷き、浅葱色の文を花影に返した。
花影は少しばかり表情を硬くして、畏まる。
生温い風が吹き抜けて、燈台の炎がかすかに揺れた。
「内裏勤めのご友人から、これが——」
「ええ。殿方の周りばかりでなく、女人たちの間にも広まって——いえ、広められている模様」
菖蒲の北の方は、菖蒲の格に相応しくない女人である。
菖蒲当主たるもの、相応の北の方を迎えるべし。
誰もがそう思っている——そんな空気を、あたかも当たり前であるかのように作り出そうとしているのだ。
花影の胸に、ひやりと冷たいものが走る。
空気は生温いけれど、胸の奥には冷たい重石が居座っている。
瓊花は夏の直衣の袖を少し弄んだ。
どうにもしっくりいかないといった表情だった。
「同調圧力とは、ますます以て藤黄のご当主らしくないですね。彼の人にしては、周到に過ぎる」
花影は強く頷いた。
「そうなのです。ですが、裏で糸を引いている者がいるとしても、それが藤黄の女御様であるとは、素直に考えられず——どうしたものかと」
藤黄青星ひとりが相手なら、それこそ果たし状でも送ってやるものを。
そんな突飛な考えが、ふと花影の胸を過ぎる。
なんとも菖蒲家の北の方らしくない。
けれどある意味、とても「菖蒲の人間らしい」とも思えて。
花影は内心の苦笑を堪えた。
瓊花は花影の手を握り、少しだけ力を込めた。
「何があっても、貴方のことは私がお守り致しますが、しばらくは不愉快な思いをなさるでしょう。申し訳ない」
花影はにやりと笑った。
「その覚悟で嫁いで参りました。ご存分に、お使いください」
瓊花は細く吐息し、やれやれと頭を振った。
「今しばらくは、何にも煩わせず、貴方には図書殿を堪能して頂こうと思っておりましたのに。……力不足です」
「まあ、いいえ。十分過ぎるほど満喫させて頂いております。むしろ、ようやくか、といった心持ちでございますから。ご案じなさいますな」
「心強い」
申し訳なさを滲ませつつも、瓊花は頼もしいとばかりに目を細めた。
内心、少々怖気づいていることは、秘密にしておこうと花影は思った。
瓊花は思案気に顎を摘まむ。
「後宮をも巻き込んで、菖蒲の北の方を排斥しにかかるとは……。菖蒲女御はそのような囁きに乗じることは無いでしょうが、声高に反対を主張することも、しないでしょうね」
「そうなのですか?」
きょとんとした花影に、瓊花は苦笑を向けた。
「あれは——面白がって、行く末を眺めているような気質です。とてもではないが、素直とは言い難く」
「なるほど」
菖蒲家は皆、一筋縄ではいかぬ気質と見た。
内心、少しだけ肩を竦める。
そういう家に、嫁いだのだ。
今まで以上に——半端な覚悟では、いられまい。
花影は深く息を吐き、凛と顔を上げる。
「——いよいよ進退窮まった、となりましたら」
一拍置き、丹田に力を込め、強く言い切った。
「どうぞお切り捨てを」
その言葉には、自らを盾にしてでも菖蒲家を守る覚悟が込められていた。
瓊花はしばし黙し、真っ直ぐに妻の眸を見返してから、小さく鼻を鳴らした。
溜息かもしれない。
「しませんよ、そんなこと」
あまりに軽い返答。
張り詰めた空気が一瞬で崩れ、花影は思わず瞬きをした。
あまりに当然のように言い切られて、胸の奥の覚悟が空振りしたかのよう。
気付けば、心の重石はふっと浮き上がっていた。
瓊花は続ける。
「貴方とは末永く添い遂げるのですから。余計なことは考えぬように」
しっかりと手を握られて、熱く囁かれ。
花影は、頬がじんわり熱を帯びていくのを止められなかった。
「ともかく、もう少し様子をみましょう。——本当は、貴方の素晴らしさを内裏中に喧伝したくてたまらないのですが、それは控えます」
「控えてください。是非」
堪えきれず、花影は吹き出してしまった。
その笑顔を見、瓊花はほっとしたように表情を綻ばせる。
「やはり、貴方は笑っているのがいい」
その言葉と共に、瓊花は花影の頬に右手を添え、するりと撫でた。
花影はびくりと肩を揺らし、引き攣った笑みを張り付ける。
「ふふ、内緒話は距離が近くて嬉しいですね」
左手はなおも花影の手を握りしめ、逃げ道を与えてはくれない。
……逃げられない。
「必死なさまも、可愛らしい」
「瓊花殿!」
花影は少しだけ上擦った声を上げた。
「揶揄っているわけではなく、本心ですよ?」
瓊花の眼は優しい。それがなおのこと、落ち着かない。
「本心でも本心でなくても、この距離は、如何なものでしょうか!」
真っ赤になって声を荒げる花影に、瓊花はにっこりと笑みを深めて顔を寄せた。
額にそっと口付けて、ようやく花影を解放する。
ほんの一瞬、触れたか触れないかの微かな口付け。
だが、花影の胸の奥は大きく揺さぶられた。
安堵と羞恥と、不安と、抗えぬ心地よさが渦を巻き、わなわなと震えを呼ぶ。
「まっ、真面目にお話し申し上げているというのに! 瓊花殿!」
「ですから、揶揄っているわけではないのですよ」
(——ただ、貴方を愛でたいと、思っているだけで)
心の中でそう呟きながら、瓊花は羞恥と怒りとに震える妻を、愛おしげに見つめ続けた。
その眸にわずかばかり不穏な影が過る。
(内裏に張られた蜘蛛の巣は、予想以上に大きいのかもしれない)




