第十五話 内裏の噂
庭の白砂は陽光を照り返し、眩しいほどに輝いていた。
池の水までも温んでしまったのだろうか、蓮の葉は少しだけくったりとして、花も項垂れている。
蝉の声は絶え間なく、昼下がりの怠さを余計に引き立てるようだ。
花影は文通仲間から届いた文を開き、吐息を零した。
内裏で「菖蒲の北の方」に関する噂が広まっているらしい。
良い噂はひとつもなく、いずれも悪意に満ちたものばかりだという。
ひらり、浅葱色の紙の端を翻し、風が吹き抜けた。
(瓊花殿か、義姉上様に、見せるべきだろうか)
ことは花影一人に収まることではない。菖蒲家そのものに関わる大事。
正妻が「分不相応」と罵られているのだ。
家名に泥を塗られているに等しい。
(私がもう少し評判の良い姫だったら、こうはならなかっただろうに……)
内裏に勤める女官である常夏は、花影を心配して便りを寄越してくれた。
余計なこととは思うまい。
(知らぬ存ぜぬ。勝手にしろ。好きに言わせておけ——とは言えない立場だものねえ)
花影は溜息を吐くと浅葱色の文を握り締め、初霜のもとへと向かった。
夏の風は熱を含み、涼を運ぶというより、陽の匂いを運んでくるばかりだった。
香炉の荷葉の香がわずかに涼しさを感じさせるが、薄物をまとっていても汗は滲む。
御簾越しの景色は白く霞み、熱気が景色を揺らしているように見える。
「やはり、青星一人の仕業ではあるまい」
文を読んだ初霜は、きっぱりと断言した。
「そなたの話からしても、藤黄青星にそのような謀をなす器量はあるまい」
花影は難しい表情で頷いた。
「ですが、青星が私たち月白を嫌っているのは事実。あの者が思っていること自体は、何の不思議もございません。ただ、広め方が——あの者らしくない。そう思うのです」
初霜は考えるように眉をわずかに寄せた。
「広がり方が異様か」
「はい。いささか不自然かと。広まるにしても、もう少し時間がかかりそうなものですし。何より、藤黄青星ひとりが月白憎しと騒いでいるのであれば、それは常の事ですし」
初霜が鼻を鳴らした。
「常の事か。まったく不愉快に過ぎるな」
事実かどうかにかかわらず、一度広がった噂は貴族の評判や出世、時には命運をも左右する決定打となる。
対立する相手の失脚を狙う者は、意図的に流言飛語を流して相手の品格を貶め、政治的に孤立させることが常套手段だ。
噂を制する者は内裏をも制す、とは誰が言ったことだったか——。
「はい。ですが——王のお耳にまで届いているとなれば、それは誰かが意図的に広めているのではないか、と。その文の主——内裏勤めの友が申しますもので。そこまで大仰に広がっているのであれば、これはもはや私ひとりの問題ではなく……」
初霜が頷く。
「我ら菖蒲に喧嘩を売っているということだな」
ぱしん、と扇を手に叩きつけ、初霜は今にも立ち上がりそうに見えた。
「義姉上様、どうぞ落ち着かれませ。まだ、確定ではありません」
花影は静かに初霜を制し、初霜は苛立たし気に扇で風を起こした。
「六家当主をも操り、王へ何くれと囁けるとすれば、そのような立場の者など限られる。大方女御の誰かであろうよ」
現在、王のもとには三人の女御がいる。
それぞれ菖蒲、藤黄、蘇芳の出だ。
「となれば、やはり藤黄の女御——」
初霜は扇をぱちりと閉じた。
「そう考えるのが自然だが、そこまであからさまに菖蒲に喧嘩を売るほど、あの方は愚かではあるまい」
再度ぱらりと扇を広げ、緩やかに仰ぐ。
「私は藤黄女御を存じ上げませんので、何とも。……ですが、確かに。青星の言をそのまま後押しすれば、内裏における藤黄の立場は、却って危うくなりましょう」
同じ六家であるとはいえ、家格であれば菖蒲が上なのだ。
真正面から挑めば、藤黄家が揺らぐ。
「だが、飛英——菖蒲女御のことだが、あれが瓊花に、ひいては菖蒲家に反旗を翻すとは思えぬし。蘇芳女御は大人しい性質。わざわざ藤黄と組む理由も無かろう」
初霜はそこで言葉を切り、鋭い眼差しを花影へ向けた。
「……にもかかわらず、こうまで噂が広がるのは、誰かが周到に糸を引いている証拠だ」
花影は思わず、文を胸に抱き締める。
——その誰かは、本当に藤黄女御だろうか。
素直にそうは思えない。
何かが引っ掛かっていた。
その夜、灯火の下で。
花影は机に広げた文を凝と見つめていた。
「奥方様、またそのお文ですか……」
シヲンが気遣わし気に声を掛ける。
長年仕えてきた女房だけあって、花影の胸の内など言葉にしなくても伝わっている。
「……どう思う、シヲン」
花影の問い掛けに、シヲンは少し考えてから口を開いた。
「青星殿が月白家をお嫌いなのは、皆が知っております。ですが、それだけあからさまな御方が、このような謀をなさるでしょうか。あまりに見え透いております。——それこそが、青星殿の仕業であるということも、言えるのかもしれませんが」
花影は頬杖をついて、頷いた。
「そこなのよ。噂を意図的に広めるだなんて回りくどい。大声で喧伝した方が早い。——そう言いそうな気がするのよね」
シヲンが苦笑する。
「まさしく、その通りでございます」
花影は笑い返し、けれど睫毛を伏せた。
笑える話だが、笑っている場合ではない。
「……けど、そうなると、誰が——という疑問が湧くのよね」
「貴き御方に連なる方、でありましょうね。それこそ女御様方のどなたかではないかと。恐れ多くも畏くも、王の御耳にまで届いているということですし」
花影は苦く吐息した。
「そこなのよ。いったい誰が……」
「姫様、いいえ、奥方様。どうぞ殿様にご相談なさいませ。お一人で抱えられることではありません。菖蒲の御家を狙った、大きな謀にございます」
花影はそっと、浅葱色の文を撫でる。
「——菖蒲の北の方として、受けて立つべき時が来た、か」
もう少し、のほほんと図書殿に籠る幸せを味わっていたかった、などと。
思ってしまった自分を嘲笑う。
(嫁ぐと決めた時点で、覚悟はできていたのではないの? 今更怖気づくなど、笑止千万!)
花影は肚を決めた。
今夜。
瓊花に話そう。




