第十四話 不愉快な忠告
瓊花が、張り付けたような笑顔で帰宅した。
束帯に冠に、何一つ欠けの無い完璧な菖蒲家当主のいでたちだ。
花影は夫を迎えながらも不審に思う。
「何があったのですか?」
束帯を受け取りながら聞くと、瓊花が少しだけ表情を動かした。
「何か、ではなく、“何が”、なのですね」
衣桁に束帯を掛け、花影は頷いた。
「何かあったことはわかります。瓊花殿がそのように、作り笑いを張り付けているのは珍しいことです。内裏ではそれが常かもしれませんが、家ではいつも素直なお顔でいらっしゃいますから」
花影は何でもないことのように続ける。
「——いえ、私の耳に入れるべきでないことでしたら、そのままお聞き流しください。愚痴ならば聞けるかと思ったもので」
瓊花がふっと笑った。いつもの笑顔だ。
素直で柔らかくて、今は少しだけ、照れている。
「今、機嫌がとてもよくなりました。花影殿は私のことをよく見ていらっしゃるのですね。嬉しいです」
本当に嬉しそうな瓊花の様子に、花影は肩を竦め、夏の直衣を瓊花の肩にかけた。
「一応、妻ですから。夫の様子くらいは把握しているものですよ」
「一応ではなく、私の妻は貴方以外におりません」
猫のようにすり寄ってくる瓊花を、花影は雑に押しやった。
「つれないな。夫婦なのに」
「一応と申しましたでしょう。べたべたする必要はないはずです」
瓊花はそっと花影の袖を掴んだ。
子供が親の袖を引くようだ、と言ったら気を悪くするだろうな、と花影はこっそりと思った。
「夫婦が仲睦まじいのは良いことではありませんか」
「そうですね。一般的にはそうだと思いますよ」
「つれないな」
瓊花はまた、少しだけ拗ねた。
「で、何があったのです? 愚痴くらいならお聞きしますよ」
瓊花は少し迷って、花影を抱き寄せる。
抵抗しようかと思ったが、あまり大きな声では話せないことなのだろうか。
花影はおとなしく寄り添った。
少し暑い。
夏なのだから、ここまでくっつかなくてもいいのではないかと少し思う。
「貴方が——私の妻ではよくないという忠告を、彼方此方から聞かされました」
瓊花が溜息と共に囁いた内容は、つい先日初霜から聞いたばかりだ。
「存じております」
瓊花がえっと驚いて花影の肩を掴み、少しだけ距離を置いた。
肩は掴んだままなので、互いの顔がはっきり見える。
「私が菖蒲家当主の北の方に相応しくないということなら、皆がそう思っていることではないのですか? だからこそ、都合が良いわけですが」
瓊花は言葉に詰まった。
目を瞬き、口を開け閉めし、躊躇いがちに頷いた。
「いや……それは……そうなのですが。不愉快ではありませんか。貴方はこんなにも素敵な女人だというのに、相応しくないだの、北の方にはもっと若い姫君をだのと。本当に心底余計なことですね」
瓊花は本当に怒っているらしい。
それも、花影のために。
花影は目元を和らげた。
「不愉快な噂に晒されることまで、計算づくでいらしたのでは?」
瓊花は気まずげに視線を揺らした。
「最初はそうでした。ですが、今は違います。貴方が悪し様に言われると、腹立たしくて……。そやつの冠を落としてやりたくなりますね」
それは流石にやり過ぎだ。
「おやめくださいな、大人げない」
冠を外して頭髪を見せるのは、成人男性としては最上級の辱めだ。
下着一枚で居るよりも恥ずかしいとされる。
瓊花がまた、花影を抱き寄せた。
頭の上に頬を寄せ、柔らかく抱き締める。
「そのくらい、腹に据えかねているのです」
花影は苦笑して、とんとんと軽く瓊花の背中を叩いてやった。
「藤黄の御方でしたか?」
瓊花の肩に頭をもたせ掛け、花影は淡々と問う。
「え、いいえ? 藤黄のご当主のことを、仰っていますよね?」
「ええ、はい。あの方は私と槐を目の敵にしているのです。昔からですから、もう慣れましたが」
忌々しい男。面と向かって会えたなら、殴ってやりたい心持ちである。
向こうもそう思っているに違いないが。
「青星殿が貴方の弟君の槐殿と、犬猿の仲であるのは、それはもう、内裏中どころか都中の者が知っているのではないでしょうか」
そこまであからさまに広まっているのか。
花影は少し呆れた風に吐息する。
槐も槐で、真っ向から相手をしなければ良いものを。
だがしかし、面と向かって向かって来たなら、面と向かって殴り倒せというのが月白の家訓だ。
手加減するなど却って失礼である。
——と曽祖父は常々言っていたらしい。
万朶から聞いたことなのだが、本当かどうかは疑わしい。
それはともかく。
「面と向かって言ってきたのではないのですね」
花影はその点を確認した。瓊花は頷いた。
「ええ。あまり親しいという訳でもありませんし」
花影は少し、沈黙した。
「どうなさいました?」
「いえ、あの方らしくないなと、思いましたもので」
「と、仰ると?」
「あの方は直情径行と申しましょうか、思い立ったらすぐに口に出すところがございますから。じわじわと周りを固めている様子なのが——不自然だな、と」
実際に会ったことは無いが、槐からの伝え聞きでは、また文通相手からの評判では、おそらくは間違ってはいない見立てだ。
「不自然……」
瓊花がそっと繰り返した。
「ええ。義姉上からも伺いましたが、周到な根回しが出来ているご様子。そんなことが、藤黄青星にできるのでしょうか。そう思いましたので」
あまりにもあまりな花影の言葉に、瓊花が苦笑を通り越して笑い出した。
「そこまで言われる青星殿は、余程貴方に嫌われているのでしょうね」
花影は鼻息荒く言ってのける。
「ええ。嫌いですね。可愛い弟を苛める相手など、どうして好きになれましょう」
言い切る花影に、瓊花はそっと尋ねた。
「ふと、思ったのですが」
「はい」
「もしも私が槐殿と仲が悪かったら——」
花影はにっこりと瓊花を見上げた。
「こうして北の方になどなってはおりませんね」
瓊花は心底ほっとしたように花影を抱き締めた。
「よかった……。槐殿と仲が悪くなくて」
しかし……と花影は瓊花の腕の中で思案する。
本当に、藤黄青星らしくない。
根回しや裏工作などが、できるような男ではないのだ。
よく言えば、素直で裏表が無い。
「もしや——背後に誰かおるやもしれませんね」
王をも巻き込んでの情報戦など、青星一人にできる芸当ではなかった。




