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第十三話 忌々しい男の話

 夏の朝は清々(すがすが)しい。

 蝉の声はまだまばらに響く。やがて日が高くなれば一斉に鳴き始めよう。

 その前の、僅(わず)かの間の静けさ。

 遣水(やりみず)の流れが朝日を照り返し、煌(きら)めくさまは涼しさを感じさせる。

 青々とした花橘や楓の葉が風にそよぎ、夜の間に宿った露を散らしていく。

 小舎人童(こどねりわらわ)が庭を掃き清めているのだろう。箒(ほうき)の音がかすかに聞こえてくる。

 そんな時分から、花影(はなかげ)は初霜(はつしも)の訪(おとな)いを受けていた。

「朝早くから、すまぬな」

「いいえ、義姉上(あねうえ)様」

 花影が指先を揃え頭を下げる。

 そのさまに初霜は鼻を鳴らした。

「一日会わぬだけで、また元に戻っておるではないか。もっと気安(きやす)うせよ」

 花影は苦笑を返すに留めた。

 事あるごとに咎められているが、やはり初霜は降嫁したとはいえ王の従姉妹姫なのだ。

 ついつい敬意を払ってしまう。

「まあ、よい。今はそれどころではない故(ゆえ)な」

 裾を払って、初霜は些(いささ)か性急に茵(しとね)に座った。

「内裏で何かございましたか」

「うむ。参内するのも久し振りであったが、主上(おかみ)は変わらずの様子であった。しかしな——」

 初霜は溜め息を吐く。

「そなたが瓊花(けいか)の北の方であるのは、不安があるなどと噂する輩がおるそうじゃ」

「はあ」

 花影にしてみれば不思議でも何でもない。

 もともと悪い評判が、更に悪くなったかと思うだけ。

「そなたは三十路(みそじ)も近く、子をなすは無理ではないかとか」

「でしょうね」

「菖蒲の跡継ぎにもしものことがあった時のため、子は藤波ひとりでは足らぬとか」

「——要らぬ世話でございますね」

「そうなのじゃ。まったく以て不愉快極まりないわ。菖蒲のことは菖蒲に任せよと、直接に言ってやりたいわ」

 初霜は、ぱしんと扇を打った。

「どうも、藤黄青星(とうおうのあおぼし)が、何やら主上にこそこそと申し上げておるようでな」

 やっぱり。

 花影はやれやれと頭(かぶり)を振った。

「藤黄の御方は我が弟槐(えんじゅ)と、殊更(ことさら)に折り合いが悪く、ことあるごとに月白を貶(けな)しております。私が菖蒲に参りましたことで、矛先がこちらにも向いてしまったのでしょう。申し訳ないことです」

「あの男、前々からそなたの弟君とは遣り合っているらしいな。内裏では常の事と聞いた」

「お恥ずかしい限りで」

「それでじゃ。何より腹立たしいのは、そなたを正妻の座から降ろせなどと世迷言(よまいごと)を申したそうじゃぞ」

 花影は今度こそ、思い切り苦笑した。

「どうも藤黄の御方は、一の姫君を瓊花殿と娶(めあ)わせたかったようで」

「まだ裳着(もぎ)を終えたばかりの小娘に、菖蒲の北の方が務まると思うてか。それこそ、子を産むにも早すぎるわ」

「仰せの通りでございます」

 藤黄家の一の姫は、先日裳着を終えたばかりの幼さであるが、評判は良い。

 何をやらせても人並み以上であるという。

 手習い、和歌、琴。

 それに美しい髪を持ち、行く末はさぞかし美しい女人に育つだろうと。

 さて。

 現状、王には中宮がいない。菖蒲家、藤黄家、蘇芳(すおう)家から女御が三人。

 そして東宮には王の弟。東宮妃に縹(はなだ)の姫。

 内裏の力関係は、ほぼ拮抗している。

 月白と黒鳶は、現状入内している姫は居ないが、月白は菖蒲と、黒鳶は藤黄と婚姻関係にある。

「青星めは更に己の力の及ぶ範囲を広げたいらしいな。分不相応にも藤黄の天下を狙っておる。まったく、忌々(いまいま)しい男め。瓊花の妻は花影ひとりでよいのじゃ」

「……いやあの、義姉上様。藤波殿が元服の折には、どうか妾妻(しょうさい)をお迎えください。相手が私一人では、瓊花殿があまりに憐れでなりません」

「その時が来たら、そなたが尼寺へ行くという話は承服せぬぞ」

 花影は小さく溜息を吐いた。

 そもそもが契約婚である。

 藤波が元服し、次代の菖蒲家当主となるのを盤石とするため。

 現当主、瓊花が男子を成さず、藤波の当主就任を脅かすことがないように。

 その為の穴埋め。それが花影の役割。

 万が一にも瓊花に他家の姫が嫁ぎ、男児を産めばその子が次代の菖蒲家当主だ。

 あってはならぬ筋書きである。

「私は仮初(かりそめ)の北の方ということを、承知の上で参りましたのに」

「何度も言うたが、我らはそなたを使い捨てにする気はない。藤波が元服した折には、そなたの子がいた方がよいくらいだ」

「義姉上様」

 花影が少しばかり表情と声とを硬くした。

「私はもうすぐ三十路の年増。既に、子を成すには些(いささ)か齢(とし)を取りすぎております。そして、これより更に老いれば、無事に子を産むことは叶わぬでしょう」

「三八で子を産んだ后妃がいたぞ」

「さぞかし壮健であらせられたのでございましょう」

 花影は、改めて口にした。

「私は瓊花殿の北の方の座を、然るべき時まで埋めておくための、駒でございます。そのこと、努々(ゆめゆめ)お忘れなきようお願い致します」

 初霜はふん、と鼻息荒く顔を歪めた。

「まったく、本来それはわたくしがそなたに言うべき台詞であって、そなたが自ら口にするものではないわ」

 丁度よく、年増で独身、六家の姫という駒があったからの打診であった。

 けれど、迎え入れた花影は、菖蒲にとって願ってもない逸材で。

 次期当主たる藤波が懐き、また、養育にも熱心で。

 己の子を、藤波に取って代わらせようなどと思いもしない姫。

「そなたならば跡目の心配はない故、いっそ今から子を作れ」

「義姉上様。もしも男児が生まれたら、如何(いかが)なさいます。私が藤波殿を追い落とすとは考えられませぬか」

 花影は静かに諭(さと)した。

「今は良い関係でありますけれど、自分の子となれば気持ちも変わるやもしれません。それに、月白の家の者が、何かと口を出すことにもなりかねません」

 そう。昔、そんな后妃がいた。

 亡き前中宮の親王を養育していた後中宮は、いずれはその親王を東宮にと願っていた。

 二人の仲はすこぶる良く、信頼も厚く。絆が揺らぐことは生涯無かった。

 だが、後中宮は親王を産み、結局は、養い子である前中宮の親王は追い遣られた。

 東宮位に立ったのは、後中宮の親王。

 生家よりの圧力に、後中宮は負けたのだ。

「危ない橋は渡らぬに限るのです」

 静かにそう締めくくる花影を、初霜は何とも言えぬ表情で見つめていた。

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