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第十二話 夏のある日

 さて。

 花影(はなかげ)が菖蒲家当主の瓊花(けいか)に嫁(か)して、数か月が経った。

 時の経つのは早いもの。

 あっという間の夏である。

 蝉が喧(やかま)しく鳴きたてて、けれどそれも不快ではない。

 庭の木々は緑が濃い。

 花橘や夏萩は、力強く葉を伸ばしていて。

 釣殿(つりどの)から眺める庭は、池の水面が光を反射するさまが、まるで極楽浄土のよう。

 蓮の花が咲いているのが、更にそれらしい雰囲気を醸し出している。

 鯉が水飛沫を跳ね上げる水音や、吹き抜ける風がとても涼しいと感じられる。

 ぱたぱたと軽い足音が、花影の耳に届いた。

 振り返って、微笑む。

「藤波(ふじなみ)殿」

「花影おばうえ。ごきげんよう。今日はめずしく、外にでていらっしゃるのね」

 にこにこと寄って来た藤波は、躊躇(ためら)いなく、すとんと花影の膝に腰を下ろした。

 すっかり懐かれたものだなあと、花影は嬉しく思い、顔を綻(ほころ)ばせる。

「こんな日ですから。折角の美しい庭を愛でなくては、勿体ないですものね」

「そうね。ぼくもそう思う。でも、ねえ?」

 藤波は花影の肩に後頭部をつけ、仰ぎ見る。

 とろけそうな満面の笑みだ。

「はい?」

「削り氷(ひ)を食べるのは、もっといいと思わない?」

 断られるだなんてことを、まるでひとかけらも考えていない表情に、花影もつられて笑った。

 とろけるような笑顔で応(こた)える。

「いいですね」

「うん! あまずらを、いっぱいかけて。一緒にたべよう!」

 削り氷に甘葛煎(あまずら)をかけて食べるのは、貴族の特権とも言えるだろう。

 爽やかに甘いかき氷。

 暑い日の、冷たい甘味は何にも代えがたいご馳走だ。

「そういえば、今日は初霜(はつしも)様は、参内なさっているのでしたか」

「そうなの。母上はおかみにお呼ばれして、ごちそうを食べてくるから、ぼくたちはナイショで削り氷をたべちゃおう」

 ご馳走を食べてくるかどうかはともかく、初霜が今上帝に呼び出されたのは確かだ。

 今までもたびたび参内しているらしく、初霜に限って言えば珍しいことではない。

 初霜は降嫁した内親王という身分にも拘(かか)わらず、身軽に出歩いている。

 物詣(ものもうで)やら花見やら、祭の見物やらと、あちこち出歩いているという。

 閑話休題(それはともかく)。

「内緒なのですか?」

「そうよ。ぼくと花影おばうえの、ひみつ」

 上機嫌な藤波は、たっぷりと匙(さじ)に氷をすくい、頬張る。

 口の中で溶けて染み渡る感じが、この上なく素晴らしい。

「おいし~い」

「はい。美味しゅうございますね」

 あっという間に食べ終わってしまって。

 藤波は残念そうに匙を舐めた。

「お行儀が悪いですよ」

「はぁい。もっと、たくさん食べたいね。おばうえも、そう思わない?」

「そうですねえ。でも、たくさん食べ過ぎると、お腹を壊しますよ」

「それはいやかも」

 食器を下げて。

 藤波はまた、花影の膝に収まった。

「ねえ、おばうえ。今日は何をして遊ぶ?」

「手習いは良いのですか? 今日の分のお勉強は、お済みになりましたか?」

 藤波がぷくっと頬を膨らませる。

「おばうえは、おべんきょうがお好きだから、わからないかもしれないけど。まいにち、たいへんなのよ」

 菖蒲の次期当主である藤波は、当然のこととして学ぶべき物事が数多くある。

 毎日毎日、教師にあれこれと教え諭(さと)されて。

 確かにうんざりもするだろう。

「では、気晴らしに何か致しましょうか。終わったら、お勉強致しましょうね」

 藤波は輝くように笑った。

「つぼうち! つぼうちしましょうよ」

 「つぼうち」は「つぼなげ」とも言う。壺を立て、そこに矢を投げ入れる遊びだ。

 投壺(つぼうち)と書く。

 誰が一番多くの矢を投げ入れることができるかで、勝負が決まる。

「偏(へん)つぎとかでは無いのですね」

「へんつぎはおべんきょうでしょ! おばうえは、すぐ、ぼくにおべんきょう、させようとするんだから」

 憤懣(ふんまん)やるかたなし。

 僕、怒ってます。

 という風に腕を組んでぷりぷりしている藤波は、本当にかわいらしくて。

 花影は愛し気に目を細めるのだった。


 女房に壺と矢を用意させ、藤波はやる気満々だ。

「おばうえ、どっちがかつか、しょうぶしましょうよ」

「いいですよ」

「てかげんは、しちゃだめだよ」

「はい」

 でも、手加減せずに大勝したらば、きっとご機嫌斜めになるんだろうなあ、と思いつつ。

 花影は矢を投げ入れた。

 暫(しば)しの激闘。そして二人は顔を見合わせていた。

「——意外にやりますね」

「それはぼくのせりふ」

 勝負は互角。

 五歳の子供相手に互角というのもなんだが、藤波はとても筋がよかった。

 そして女人は普通、投壺などはしない。

「よいしょっ」

 藤波が投げ入れた矢は、壺の縁に当たり、揺らいだが、そのまま壺に収まった。

 ふん、と鼻息荒く得意げな藤波に、花影は拍手を送る。

「では、参ります。——とぉっ」

 花影の投げ入れた矢は、きれいな弧を描いて壺にからんと収まった。

 ふふん、と笑って見せれば、藤波は悔し気に唇を尖らせる。

「やるね、おばうえ……。でも、ぼく——まけない」

 藤波は真剣な表情で矢を構え、振りかぶり……。

「やーっ」

 気合の声を上げて、投げた。

 矢は壺の縁に当たり、そして、今度は外に向かって倒れる。

「あー」

「惜しかったですね」

 藤波は唇を尖らせて、花影を窺う。

「じゃあ、さいご。おばうえのばん」

「……参ります!」

 気合一閃。

 花影の投げた矢は大きく外れた。

 藤波はきゃっきゃと手を叩く。

「ぼくのかちかしら! ねえ、かぞえてみよう」

「はい。では勝敗を明らかに致しましょうね」

 一本ずつ、矢を選(よ)り分けて。

 藤波は難しい表情で唸った。

「どうてん……」

「ぴったり同じでしたね」

 じと、と藤波は花影を上目遣いで見て。

 小首を傾げた。

「てかげんなしの、ほんき?」

「ええ、勿論」

 凝(じっ)と花影を見つめ、藤波は重々しく頷いた。

「では、こんかいは、ひきわけで」

「はい。お手合わせありがとうございました」

「ありがとうございました。 ねえ、つぎはなにをする?」

「次はお勉強ではないのですか?」

「えー。せっかく花影おばうえがずしょどのの外にいるのに?」

 そんなに言うほど図書殿に籠っていただろうか。

 花影は、菖蒲家に嫁いできてからの日々を思い返してみた。

「——確かに。籠ってばかりいたかもしれませんね」

 藤波は力強く頷いた。

「たまにおそとにでていても、母上とお話ししてたり、ぼくとはあまりあそんでないでしょ。おじうえが帰ってくるまで、いっしょにあそびましょうよ」

 花影は少し考えた。

「では、次は偏つぎをして。その次は一緒に漢詩を読みましょうか」

「それ、おべんきょうでしょ! おべんきょうじゃないことを、しよう」

「偏つぎ、楽しくありませんか?」

「花影おばうえには、ぜったいかてないから、あんまりたのしくない」

「うーん。それでは、藤波殿がどれだけ漢字を覚えたのか、偏つぎで試験をしてみるというのは、いかがですか?」

「ぼくがどれだけかんじをおぼえたのか、おばうえがはんじるの?」

「はい。藤波殿がわからない所では、ちょっとだけ、助言を差し上げるのはどうかしら」

「——ぼくがいっぱいかんじをおぼえたら、母上びっくりするかしら」

「きっと、褒めてくださいますよ」

 藤波はちょっとだけ、考えるように小首を傾げた。

 そして上目遣いで、花影を窺う。

「じゃあ、へんつぎ、やろうかな」

 花影はにこにこと頷いて。

 その日はべったりと、朝から晩まで、藤波と一緒に過ごしたのだった。

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