第十一話 仲睦まじい夫婦愛
花影は、朝から図書殿に籠りきりである。
宴の差配という大任を果たしたのだ。
今日は一日書物に埋もれていたい。
頁を捲り、うっとりと。花影は嘆息する。
「——しあわせ!」
書物は良い。
紙の匂いと墨の匂いとが混じり合い、得も言われぬような心持ちである。
古びた紙から、乾いた歳月の香りが静かに立ちのぼる。
墨は既に紙に馴染み、落ち着いた香をわずかに残している。
綴じ糸や糊の匂いも、歳月を経て角の取れた優しい香りへ変わっていた。
そういえば。
花の下にて死にたいと歌った歌人が居た。
きっと夢のように美しい光景だろうと思う。
けれど。
いつか死ぬならば。
その時は。
「——私は書物に埋もれて死にたい」
「縁起でも無いことをおっしゃいますな」
うっかり口にも出していたようで。
シヲンに怒られる。
花影は肩を竦めた。
「いずれよ。いずれ。年老いて、いつか死ぬときは、書物に埋もれてがいいわ」
シヲンが嫌そうに首を振る。
「奥方さまは確かに殺しても死ななそうな御方ですけれども」
「ちょっと」
シヲンは溜め息を吐いて首を振った。
「書物に埋もれていらっしゃる時の姫さま、いえ、奥方さまは、何と申しましょうか……。心が彼方へと飛び去っていて、此の世に留まっておられぬようなことがございます故、そのような事を仰せになりませぬように」
花影は目を瞬いた。
「そんなに昇天しそうな顔してる?」
「ええ、それはもう」
力強く頷くシヲンに、なんとなく釈然としない気持ちで。
花影は唸った。
「——ふぅん」
◆
日も暮れた頃、瓊花が迎えに来た。
「今日は一日閉じこもり切りだったそうですね」
「あら、お帰りなさいませ。もうそんな時間ですか?」
灯の下で頁を捲っていれば、外の暗さは気にならない。
というより、そんなことを気にしていては、本は読めない。
かなり没頭していたようで。
顔を上げれば、固まり切った首の骨が、ごきりと嫌な音を立てた。
瓊花が顔を顰める。
やれやれといったように首を振って。
「お好きなだけ、こちらの本を読んでくださって構わないのですから」
「はい」
「一度に集中しすぎるのはお止めなさい。身体を壊しますよ」
「止まらなくなってしまうので」
悪びれることなく、花影は肩を竦めた。
また、ばきりと音がした。
肩も相当に凝っているようだ。
瓊花は花影の手を取り、図書殿の外へそっと引っ張り出した。
「首と肩と頭と目の周りですね」
「はい?」
何の脈絡もない瓊花の台詞に、花影は目を瞬いて夫を見上げた。
不機嫌そうだ。
「瓊花殿?」
「寝所へ参りましょう」
「へ?」
瓊花は不機嫌そうな顔のまま、花影の頬に手を遣った。
「揉んで差し上げます。血の巡りが悪くなっておられる」
畳の上に茵を引いて。その上に鎮座する花影。
背後の瓊花はそっと優しく、花影の首筋から肩を撫でさすっている。
「——菖蒲家当主のなさることでは無いように思うのですが」
「夫が妻を思いやって、悪いことはありませんでしょう」
男の力はやはりシヲンのそれとは違う。
力加減が丁度良い。
「女性はそもそもからして髪が重いのですから、首や頭に疲れが溜まるのですよ。もっと気を付けてくださらないと」
「はあ」
指先が丁度良い按配で、筋を解していく。
「意外ですね。瓊花殿がこのようなことを得意となさっているだなんて、思いもしませんでした」
瓊花は少しだけ懐かしそうに笑った。
「兄が——亡き兄、楝が。随分と肩凝りがひどい人でした」
「兄上様が」
「はい。それで面白半分に肩もみをして差し上げましたらば、お前は筋がいい、と言って。それからはよく、兄の肩もみをしておりました」
「仲が宜しかったのですね」
「ええ。とても。良い兄でした。——こんなにも早く、果敢なくなるとは思いもよりませんでしたが」
花影はそっと睫毛を伏せた。
菖蒲楝。
前菖蒲家当主で、当代きっての優れた人であったと評判である。
人当たりもよく、気が利いて、誰からも好かれた華やかな人。
「人というのは、簡単に死んでしまうのです。どうか、貴方もお身体をおいといください。決して無理をなさらぬように。書物は逃げませんから」
瓊花の手が、そっと花影の肩を包む。
花影はとんとんと、優しくその手を叩いてやった。
「ご心配には及びません。殺しても死なぬとまで言われております」
溜め息を吐いた瓊花に、花影は言葉を足す。
「ですが、お心遣いをありがとうございます。なるべく、夢中になり過ぎないよう気を付けることと致しますね」
「ぜひ、そのように」
そう。
死は思いもよらぬ時に訪れる。
誰もが予想し得なかった、菖蒲楝の死によって。
物事は思わぬ方向へ転がって、今、花影はここに居る。
(もしも、楝殿が生きていらっしゃったなら。私がこうして菖蒲家の秘伝の書物を読むことなど、決してあり得なかった)
誰も思いもしなかった。
都一の醜女と名高い月白家の姫が、菖蒲の当主の北の方に収まるだなんて。
(世の中、何がどうなるか、わからないもんよねえ……)
瓊花の手がゆっくりと頭の付け根に触れる。
「痛かったら言ってくださいね」
「大丈夫。気持ちいいです」
「なら良かった」
左手で花影の額を押さえ、右手で頭の付け根を揉み解す。
「あ、それいいです。気持ちいい。ほわっとします」
目を閉じて、花影がうっとりと身を委ねる。
「ええ。力加減は大丈夫ですか? 痛かったら——」
「はい。ちゃんと言います」
頭を下から上へと揉み解す瓊花の手が、得も言われぬ快感をもたらして。
花影はうっとりと吐息を零した。
一瞬、瓊花の手が止まり、けれど何事もなかったかのように、揉み解しが再開する。
両手でこめかみの辺りを押さえ、やわやわと擦る。
「あの、贅沢を言って申し訳ないのですが、もう少し強くお願いできますか?」
「ここはあまり強くするといけない場所なので、もうほんの少しだけ、力を加えますね」
「あ、いいです……すごくいい……」
うっとりとして涎が垂れそうだ。
気持ちがいい。
顔がだらしなく緩んでいる気がして、花影は少し表情を引き締めた。
「力を抜いて」
「はぁい」
緩み切った声に、花影は少しだけ恥ずかしくなった。
「貴方を癒すためにしているのですから、どうかそのまま私に身を委ねてください」
深い意味は無いだろう台詞だが、なんとなく、花影は頬を赤く染めた。
「血色が良くなってきましたね。良かった。次は眼の周りを致しましょうか。横になって」
「そんなにして頂かなくても……」
「私が好きでしているのですから、遠慮などせずに。夫婦なのですから」
瓊花の手がゆっくりと花影を抱き、茵に横たえる。
「膝枕に致しましょうか?」
「いいえ、それはご遠慮申し上げます」
くすくすと笑って、瓊花は温かな掌を花影の目許に覆いかぶせた。
「眠ってしまわれても、良いですからね」
閉じた瞼の上をそうっと指が滑り、眉頭からこめかみに向けて、ゆっくりと撫でる。
「少し痛いかもしれませんが」
花影の頬骨の上を、瓊花の親指がぐっと押した。
「みゃっ」
猫のような声を上げて、花影がぎゅっと眉を顰める。
「凝っておりますね。優しく致しますから、どうか力を抜いて」
「そ、うは言っても。痛いですよ?」
「じきに良くなりますから。私を信じて」
「疑っているわけでは無いのですけれども。……本当に? 良くなる?」
「なります。すごく楽になりますから」
「では、耐えます」
「身体の力は抜いてくださいね」
「難しいことおっしゃいますのね」
けれど瓊花の言っていた通り、すぐに痛みは取れて。
撫でさすられるうちに、もったりとしたような怠さが去った気がした。
「どうぞ、寝ておしまいなさい」
子守歌のように囁かれ。
花影は本当に眠ってしまった。
赤子のように邪気の無い寝顔に、瓊花は優しく微笑んで。
そっと花影を抱き上げると、帳台へと運んだ。
「心を許してくださっているのは、本当に嬉しく幸せなのですが」
瓊花はすうすうと寝息を立てる花影に、囁く。
「男としては意識して頂けてないことが、なんとも複雑ではありますよ。我が妻殿」




