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図書室でスマホを鳴らすな

 静寂こそが図書室の至高の価値である。


それは、ただの帰宅部である俺にとっても、そして「表の顔」として完璧な聖母を演じ続ける一ノ瀬しおり先輩にとっても、共通の認識だった。


テスト期間という嵐が過ぎ去り、図書室は本来のひんやりとした静けさを取り戻している。


はずだった。


「あの、柚木くん」


放課後の夕暮れ時。俺の定位置である窓際の特等席に、影が落ちる。


そこに立っていたのは、最近図書委員になったばかりの同期の一年生、宮前律だった。彼女は今日も、きっちりと一番上のボタンまで留めた制服を身にまとい、真面目そのものの表情で俺を見下ろしている。


「な、何かな、宮前さん」


俺は手元の文庫本から視線を上げず、最小限のエネルギーで返事をした。


「先ほどから、あなたの手元を定期的に観察させてもらっています。確かに本を開いてはいますが、ページを捲る速度が一定すぎます。それは本当に文字を読んでいるのではなく、ただ『読書をしている自分のポーズ』を維持して、図書室の座席という公共の資源を無駄に消費しているだけではありませんか?」


相変わらずのプロの監視員並みのチェックだった。同じ一年生の新人委員のくせに、彼女の図書室に対する正義感と、一ノ瀬先輩への盲信的な崇拝はとどまるところを知らない。


「いや、宮前さん。これは小説の文章のリズムと、自分の心音を完全に同調させるという、高度な読書術を実践している最中なんだよ。だからこれで正しいんだ」


「またそうやって、もっともらしい屁理屈を。一ノ瀬先輩が『彼は静かに利用してくれているから』と寛大に許してくださっているのをいいことに、あなたは同期として見ていて本当に恥ずかしいくらい甘えています!」


宮前がプンプンと怒りのオーラを放ちながら、小さな拳を握りしめる。


その純粋すぎる正義感は、時に俺の静寂を著しく脅かす。だが、彼女が「一ノ瀬先輩のために」と本気で思って行動している以上、強く突っぱねることも難しいのが面倒なところだった。


ピロリロリ、ピロリロリ、ピロリロリ…


その時、室内の張り詰めた静寂を、突如としてけたたましい電子音が切り裂いた。


アップテンポで、妙に耳に残るシンセサイザーのメロディ。紛れもない、スマートフォンの着信音だった。それも、最近ネットや深夜アニメ界隈で大流行している、とあるバトルアニメのオープニング主題歌だ。


図書室内にいた数人の生徒たちが、一斉に音の発生源へと鋭い視線を向けた。


音を鳴らしたのは、中央の学習机に座っていた男子生徒だった。彼は真っ青な顔になりながら、慌ててポケットからスマホを取り出し、画面を連打して音を消した。


室内には、冷ややかな、そして気まずい沈黙が戻ってくる。


「――っ!」


その瞬間、俺の目の前にいた宮前の顔色が変わった。


彼女は「図書室の秩序を乱す不届き者」を発見した突撃兵のような鋭い目つきになり、すぐさまその男子生徒の元へとツカツカと早足で向かっていった。


「失礼ですが!」


宮前の、ハキハキとした、しかし容赦のない厳しい声が室内に響く。


「図書室内でのスマートフォンの通話、および着信音の鳴動は完全なマナー違反です。入室する前にマナーモード、あるいは電源を切るのが当然のルールです。他の方の読書の邪魔になりますので、厳重に注意してください!」


「あ、すみません、わざとじゃなくて…」


男子生徒は、自分と同級生であるはずの女子委員の凄まじい剣幕に圧倒され、小さくなって平謝りしていた。


俺は本棚の隙間から、受付カウンターの方をそっと盗み見た。


一ノ瀬先輩は、いつも通りの完璧な聖母の微笑みを浮かべたまま、宮前の毅然とした対応を静かに見守っている。その姿は、まるで未熟な後輩の成長を温かく見守る慈悲深い先輩そのものだった。


だが、俺は見逃さなかった。


一ノ瀬先輩の、机の上に置かれた白い指先が、かすかに、しかし確実にピクリと震えていたのを。


やがて、閉館を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。


宮前は今日も、戸締まりから窓のロックまで寸分の狂いもない完璧な手際で確認を終え、カウンター前で一ノ瀬先輩に深く一礼した。


「一ノ瀬先輩! 本日の閉館業務、および館内のマナー取り締まり、すべて問題なく完了いたしました! 私はこれで失礼いたします!」


「ええ、お疲れ様、宮前さん。今日も毅然とした対応、素晴らしかったわ。明日もよろしくね」


「はい! もったいないお言葉です! 失礼します!」


宮前は憧れの先輩に褒められたことで、顔を輝かせながら、これ以上ない充実感を抱いて図書室を後にした。


ガラガラ、パタン。


重い扉が閉まり、一ノ瀬先輩が内側からカチャリと鍵をかける。


いつもなら、この金属音が響いた瞬間、すぐにドスドスと地響きを立てて突進してくるはずの一ノ瀬先輩が、今日はなぜか、鍵をかけた扉に背中を預けたまま、ズルズルとその場に座り込んでしまった。


「…ゆ、柚木くん」


消え入りそうな、しかしどこか激しく取り乱したような声が、静まり返った室内に響く。


「え、先輩? 大丈夫ですか?」


俺は席を立ち、扉の前に座り込む彼女の元へと近づいた。


一ノ瀬先輩は、膝を抱えて顔を埋めていた。長い黒髪が床に広がり、その細い肩が小刻みに震えている。怒りというよりは、何か巨大な感情の波に耐えかねているような様子だった。


彼女はゆっくりと顔を上げた。その目は心なしか赤く潤んでおり、しかし瞳のハイライトは完全に消え失せた虚無のジト目だった。


「柚木くん…。全国の図書委員を代表して、一言いいですか?」


「どうぞ、何に耐えてたんですか、今回は」


俺は彼女の前にしゃがみ込み、言葉を促した。


「図書室でスマホを鳴らすのは言語道断ですが…! よりによって、あのタイミングであの曲を流すのは、私の涙腺に対する卑劣なテロ行為です!!」


先輩はバッと立ち上がり、俺の胸ぐらを掴みかねない勢いで、低音のマシンガントークを爆発させた。


「テロ行為、ですか。ただのアニメの曲でしたよね?」


俺が冷静に尋ねると、一ノ瀬先輩はギリ、と奥歯を噛み締めながら、早口でまくしたてた。


「ただのアニメではありません! 『ヴァルキリー・ブレイド』、今期最高の神アニメです! 昨夜放送された第十一話、観ましたか!? 観ていませんね、あなたのような無趣味な背景が観ているはずがありません! 主人公の相棒である騎士・ラインハルトが、主人公を逃がすために満身創痍で敵の軍勢の前に立ち塞がり、最後にあの曲のオルゴールバージョンが流れる中、笑顔で息を引き取るのですよ! 私は昨夜、自室のベッドで枕をビショビショに濡らしながら、夜通し大号泣したのです!」


「はあ、それは災難というか、感動的な話ですね」


「そうなのです、感動的なのです! なのに、今日の夕方、まだその余韻と悲しみが胸の奥に深く突き刺さっているこの神聖な図書室で、あの凄惨なラストバトルの記憶を呼び覚ますオリジナルバージョンが、大音量で鳴り響いたのですよ! イントロが流れた瞬間、私の脳内にはラインハルトの最期の笑顔がフラッシュバックし、涙腺の堤防が決壊寸前になりました! 私はカウンターの下で、自分の太ももを血が出るほど抓りながら、必死に聖母の微笑みを維持していたのです!」


先輩はハァ、ハァ、と息を荒くしながら、自身の胸元を強く押さえた。どうやら、マナー違反への怒りではなく、アニメの余韻を強制的に引きずり出されたことによる精神的パニックだったらしい。


「しかも、宮前さんです!」


先輩はさらに声を低くし、呪詛のようなトーンで続けた。


「彼女は純粋な正義感から『マナー違反です!』と厳しく注意しに行きましたが、私は心の中で、違う、そうじゃない、そこは注意するのではなく、ラインハルトに黙祷を捧げるべきシーンなのだと、激しい葛藤の渦に叩き落とされていました! 『全国図書委員掲示板』でも、昨夜は『十一話のラインハルト追悼特設スレッド』が立ち上がり、北海道の図書委員長である『大地の司書』さんをはじめ、全国の司書たちが『今日は涙で本の文字が読めない』と、一晩中涙のログを書き連ねていたのです! 私だって、今すぐカウンターの奥でラインハルトの冥福を祈りたかった!」


一ノ瀬先輩は頭を抱え、長い黒髪をくしゃくしゃにかき乱した。普段はルールと効率を重んじる冷徹な図書委員長でありながら、その実、気に入った作品にはトコトン感情移入してしまうという、無駄に熱いオタク気質が完全に災いしている。


「まあ、でも、宮前さんが代わりに注意してくれたおかげで、先輩の表の顔は守られたわけじゃないですか。結果オーライですよ」


俺が椅子の背もたれに体重を預け、少しだけ呆れ気味に微笑みながら言うと、一ノ瀬先輩はハッと動きを止め、指の隙間からじっと俺を見つめた。


彼女の暗黒のジト目に、夕暮れの赤い光が差し込む。


そして、彼女の白く綺麗な頬が、みるみるうちに鮮やかな赤色に染まっていくのが分かった。


「…ゆ、柚木くん」


先輩の声が、急に上ずった、女の子らしいトーンに変わる。


「何ですか」


「あなたは…その、私のこういう、みっともないオタク趣味の話を聞いても、幻滅したり、軽蔑したりしないのですか?」


先輩は、持っていた文庫本を胸に強く押し当て、床の一点を見つめたまま、小さな声で呟いた。


心臓が、トクン、と妙な高鳴りを見せた。


無自覚なのだろうか。それとも、これが学校一の美少女が持つ、天然の破壊力なのだろうか。宮前の前で見せる完璧な聖母の微笑みよりも、今、自分の趣味について本音を漏らしながら、耳まで真っ赤にしてこちらを上目遣いで窺ってくる彼女の姿の方が、何倍も可愛らしく、そして胸を揺さぶる。


「別に、幻滅なんてしませんよ。普段完璧すぎる先輩が、裏でアニメ観て泣いてるっていうギャップの方が、人間味があって面白いですし。…それに、俺はただの背景ですから、先輩がどんな趣味を持ってようが、それを誰かに言いふらす理由もありません」


俺が少しだけ視線を外しながら、ぶっきらぼうに返すと、一ノ瀬先輩はしばらく呆然としていたが、やがて、その細い唇の端をふにゃりと緩めた。それは、全校生徒が見ているあの完璧に計算された作り笑いではなく、俺だけが知っている、彼女の心からの、本当の笑顔だった。


「ふふ、そうですね。あなたは私のあらゆる国家機密を握る、世界で唯一の共犯者(背景)なのですから」


先輩は嬉しそうに目を細め、いつもの凛とした姿勢に戻った。


「よし! あなたのその頼もしい言葉を聞いたら、少しだけラインハルトを失った悲しみが癒えました。…その代わりと言っては何ですが、今日の閉館後の静寂を利用して、これから私と一緒に『ヴァルキリー・ブレイド』の素晴らしさについて、二時間ほど語り合いましょうか、柚木くん」


「絶対に嫌です。俺はさっさと帰って、自分の静寂を堪能したいんです」


「却下です。これは図書委員長命令、兼、共犯者としての義務です!」


俺の文句を綺麗にスルーして、一ノ瀬先輩は楽しそうにカウンターの奥へと戻っていく。


静寂を求めて避難してきたはずの図書室。そこで過ごす放課後は、同期の宮前という嵐を孕みつつも、一ノ瀬先輩との誰も知らない、特別な熱を帯びた時間へと、さらに深く変化していくようだった。

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