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副委員長(仮)の危機

 人が「沼」に落ちる瞬間というのは、往々にして本人の意図しないところで、あまりにも唐突に訪れる。


「…ラインハルト、お前ってやつは」


放課後の夕暮れ時。俺の定位置である図書室の最奥、窓際の席。


俺は手元のスマートフォンを机の陰に隠し、画面を食い入るように見つめていた。イヤホンから流れるのは、あの日、図書室の静寂を切り裂いたアップテンポなシンセサイザーのメロディ。深夜アニメ『ヴァルキリー・ブレイド』のオープニング主題歌だ。


前回の閉館後、一ノ瀬先輩から二時間に及ぶ熱烈なマシンガントーク(という名の布教)を叩き込まれた俺は、帰宅後、軽い気持ちで配信サイトの第一話をクリックしてしまった。それがすべての始まりだった。


気づけば昨夜、先輩の言っていた第十一話までを一気に駆け抜け、気がつけば俺もまた、騎士ラインハルトの壮絶な最期に、自室のベッドで言葉を失い、深い虚無に囚われていたのである。


「柚木くん」


突如、頭上から冷徹な声が降ってきた。


俺は心臓が跳ね上がるのを必死に抑え、マッハの速度でスマホの画面を消し、手元の文庫本(珈琲の淹れ方の本)へと目を落とした。


そこに立っていたのは、同じ一年生の図書委員、宮前律だった。


彼女は今日も、きっちりと制服を着こなし、手には「館内美化チェックシート」という名のバインダーを握りしめている。その目は、いつも以上に鋭く、そして明確な敵意を孕んで俺を射抜いていた。


「何かな、宮前さん」


俺はいつものローテンションを装って返事をした。


「先ほどから、あなたの様子を不審に思って観察していました。いつもなら、ただ空気のように動かないあなたが、今日は数分おきに肩を微かに震わせ、液晶の光を目元に反射させていました。…あなた、図書室内でスマートフォンの動画配信サービスを視聴していましたね?」


完璧なプロのプロファイリングだった。同じ一年生のくせに、彼女の「不真面目な利用者」に対するレーダーの感度は異常だ。


「いや、宮前さん。これは網膜に焼き付いた文字の残像を、脳内で反転させて記憶する、超効率的速読法の実践中なんだ。だから、画面の光に見えたのは気のせいだよ」


「そんな小学生でも言わないような言い訳が通用すると思っているのですか!」


宮前はバインダーを胸元で強く抱え込み、一歩、俺の席へと踏み込んできた。


「同じ一年生として、私はもう我慢できません。私がこうして、憧れの一ノ瀬先輩が守ってきたこの図書室をより良くするために必死に働いている間、あなたは毎日毎日、本も読まずに特等席を占拠し、挙句の果てにはスマホで動画鑑賞ですか? ここはあなたの自習室でもなければ、リビングルームでもありません! 本を愛し、静寂を求めてやってくる他の利用者の迷惑です!」


宮前の言葉は、正論だった。正論すぎて、ただの背景として居座りたい俺の心に、微かな痛みを残す。彼女は本気で図書室を、そして一ノ瀬先輩を崇拝している。だからこそ、その聖域を汚すような不真面目な同期(俺)の存在が、どうしても許せないのだろう。


「今日のあなたの行為は、明確な利用規約違反です。柚木くん、あなたには、今すぐこの図書室から退室していただきます」


ついに、レッドカードが突きつけられた。


俺は困ったように、遠くの受付カウンターへと視線を向けた。


そこには、いつも通りの完璧な聖母の微笑みを浮かべた一ノ瀬先輩が立っていた。


先輩は俺たちの不穏な空気に気づいているはずだった。俺と目が合った瞬間、彼女の瞳が「あ、ラインハルトを観た目をしてる」と一瞬だけ揺れ、それから、宮前の厳しい追及に大焦りしているのが見て取れた。


今すぐ、いつものように「宮前さん、そこまでにしなさい」と助け舟を出してほしい。俺は無言の視線で縋った。


しかし、一ノ瀬先輩は動かなかった。


彼女の白い指先が、カウンターの縁をギュッと白くなるまで握りしめている。


彼女の立場は「学校一の美少女にして、完璧な図書委員長」だ。宮前という、自分を盲信している真面目な後輩が、図書室のルール(正論)に基づいて不真面目な生徒を注意している。その状況で、明確な違反行為(スマホ視聴)を犯した俺を、職権乱用で庇うことなど、彼女の「表の顔」が許すはずもなかった。


もしここで俺を露骨に庇えば、宮前は一ノ瀬先輩の完璧さに疑問を抱くかもしれない。それは、先輩の「国家機密(裏の顔)」の崩壊へと直結する。


一ノ瀬先輩は、引き攣った聖母の笑みを浮かべたまま、震える声で言った。


「…ええ、宮前さんの言う通りね。図書室内でのスマホでの動画視聴は禁止されているわ。ルールは、誰であっても守らなければならないものだから。ね、柚木くん?」


その声は、いつもの鈴を転がすような優しい声だったが、俺には分かった。彼女は今、心の中で血の涙を流しながら、俺に「ごめんなさい!」と絶叫している。


「…そう、ですよね」


俺は、小さく息を吐いた。


一ノ瀬先輩を責めるつもりは毛頭ない。彼女の立場を考えれば、これが唯一の正解だ。むしろ、ここで俺が粘って彼女の仮面を剥ぎ取るような真似をするのは、共犯者として絶対にやってはならない。


「すみませんでした。規律を乱す気はなかったんですが。それじゃ、帰ります」


俺はスマホをポケットに仕舞い、鞄を持つと、椅子を引いて立ち上がった。


宮前は「分かればよろしいです。今後はマナーを守ってください」と、勝利した兵士のように胸を張った。


俺は一度も振り返らずに、図書室の重い扉を開けて廊下へと出た。


ガラガラ、パタン。


扉が閉まった瞬間、放課後の夕暮れの廊下には、廊下特有の騒がしさと、そして強烈な「寂しさ」が漂っていた。


いつの間にか、俺にとってあの窓際の席と、閉館後のあの一ノ瀬先輩との騒がしい時間は、ただの暇潰しではなく、一日の終わりに欠かせない大切な「居場所」になっていたのだと、図書室を追い出されて初めて、痛いほどに自覚させられた。


鞄のストラップを握りしめ、俺は一人、夕焼けに染まる渡り廊下をトボトボと歩いた。


頭の中では、ラインハルトが最期に遺した『お前は、前を向いて生きろ』というセリフが、今の自分の状況と重なって、妙に切なく響いていた。





次の日、そしてその次の日も、俺は放課後の図書室へは行かなかった。


行く理由が、大義名分がなくなってしまったからだ。教室の自分の席で、騒がしいクラスメイトたちの声を遠くに聞きながら、ただスマホで『ヴァルキリー・ブレイド』の考察サイトを眺めるだけの、元の「冴えない帰宅部」の日常へと戻った。


だが、何かが決定的に違っていた。


静寂はそこにあるはずなのに、ちっとも心が落ち着かない。俺が求めていたのは、ただの物理的な静けさではなく、あの古い紙の匂いと、すぐ隣から漂うフローラルの香りと、そして、机をバンと叩いて理不尽に怒鳴り散らす、あの面倒くさい先輩のいる空間だったのだ。


「…はぁ」


俺は自室のベッドで、何度目か分からないため息を吐いた。


第十二話(最終回)の配信は、今夜の深夜。ラインハルトを失った主人公が、一体どんな結末を迎えるのか、気になって仕方がない。そしてそれと同時に、あの猛獣先輩は今頃、図書室で一人、誰にも愚痴を言えずにストレスで胃を痛めているのではないかという、余計な心配が頭をよぎって離れなかった。


共犯者を失った図書室の聖母は、一体どうなってしまうのか。


俺はスマホの画面に表示された『ヴァルキリー・ブレイド』の公式アイコンを見つめながら、ただ迫り来る夜の静寂に、身を委ねるしかなかった。

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