勝手に並び替えないでください
新人の図書委員、宮前律が配属されてから一週間が経った。
図書室内における彼女の存在感は、日に日に増している。真面目で、熱心で、何より一ノ瀬しおり先輩を「本物の聖母」として崇拝している彼女は、放課後の開館時間中、とにかく貪欲に仕事をこなしていた。
しかし、その溢れんばかりの熱意と正義感は、時に周囲にとって、とりわけ俺にとっては、少々厄介な火種となる。
「あの、柚木くん」
放課後の夕暮れ時。俺の定位置である窓際の席に、再び宮前がツカツカと足音を立てて近づいてきた。その手には、図書室の利用規則が書かれたラミネート加工のプリントが握られている。
「な、何かな、宮前さん」
俺は文庫本から視線を上げず、極力ローテンションで応じた。
「先ほどから観察していましたが、先輩、またページを捲る速度が不自然です。三分間に一ページのペースというのは、読書ではなく、ただの『座席の不法占拠』にあたります。テストも終わったのですから、本当に本を読む気がないのでしたら、他の真面目な利用者に席を譲っていただけないでしょうか」
相変わらずの直球だった。宮前にとって、この図書室は「清く正しく学問に励む聖域」であり、俺のようにただ静寂を消費するためだけに居座る人間は、排除すべきバグのようなものらしい。
「いや、宮前さん。これは珈琲豆の焙煎度合いによる成分変化のグラフを、脳内で立体的にシミュレーションしている最中だから、これで正しいんだよ」
俺が手元にある『珈琲科学のすべて』という、やや専門的な本を指差して言い訳をすると、宮前はさらに不機嫌そうに眉をひそめた。
「屁理屈です。一ノ瀬先輩が優しく見守ってくださっているのをいいことに、先輩は甘えすぎていると思います。私は図書室の規律を正すために、不真面目な利用者には厳しく対処すると決めているのです!」
宮前が小さな拳を握りしめて熱弁を振るう。その純粋すぎる正義感の前に、俺はただ「やれやれ」と内心でため息をつくしかなかった。
幸いにも、そこへカウンターから一ノ瀬先輩の、鈴を転がすような優しい声が響いた。
「宮前さん、ちょっと手伝ってほしい作業があるのだけれど、いいかしら?」
「あ、はい! ただいま行きます、一ノ瀬先輩!」
宮前は一瞬で表情を輝かせ、俺に「後でまた来ますからね」と言い残してカウンターへと疾走していった。相変わらず、一ノ瀬先輩に対する忠誠心だけは本物だ。
俺は本棚の隙間から、カウンターの中の様子をそっと伺った。
一ノ瀬先輩は、完璧な委員長としての聖母スマイルで宮前に指示を出している。だが、その微笑みの奥にある彼女の瞳が、どこか深い疲弊を湛えて、一瞬だけ俺の方を向いたような気がした。
嫌な予感がした。宮前のあの暴走気味の熱意は、確実に一ノ瀬先輩の「裏の顔」をも脅かしつつある。
やがて、閉館を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。
宮前は、今日も寸分の狂いもない完璧な手際で戸締まりの確認を終え、カウンター前で一ノ瀬先輩に深く一礼した。
「一ノ瀬先輩! 本日の閉館業務、および館内のディスプレイの『大改革』、すべて完了いたしました! 私はこれで失礼いたします!」
「ええ、お疲れ様、宮前さん。ゆっくり休んでね」
「はい! 失礼します!」
宮前は自分の仕事に大きな達成感を抱いているようで、非常に満足げな笑顔で図書室を後にした。
ガラガラ、パタン。
重い扉が閉まり、一ノ瀬先輩が内側からカチャリと鍵をかける。
その金属音が響き渡った瞬間。
いつもなら、すぐにドスドスと地響きを立てて突進してくるはずの一ノ瀬先輩が、その場に崩れ落ちるようにして、受付カウンターの床に両膝をついた。
「…柚木、くん」
地を這うような、今にも消え入りそうな声が、静まり返った室内に響く。
「先輩? 大丈夫ですか?」
俺は慌てて席を立ち、カウンターの中へと足を踏み入れた。
一ノ瀬先輩は、カウンターの床に突っ伏したまま、長い黒髪を床に散乱させていた。その姿は、完全に全てのライフゲージを削り取られた末期症状のようだった。彼女はゆっくりと顔を上げ、涙目の、完全にハイライトの消えた虚無のジト目で俺を睨み据えた。
「柚木くん…。全国の図書委員を代表して、一言いいですか?」
「あ、どうぞ、何があったんですか」
俺はカウンターの縁に寄りかかり、彼女の言葉を待った。
「…今すぐ、入り口付近の新刊コーナーを見てきてください。私の、我が図書室のアイデンティティが、あの新人の無邪気な大改革によって、完全に破壊されました」
先輩の言葉に従い、俺は図書室の入り口へと向かった。
そこには、宮前が「大改革」と称して手を加えた、話題の本やライトノベルを展示するおすすめコーナーがあった。
「これは…」
俺は思わず絶句した。
新刊コーナーの棚には、確かにたくさんの本が、表紙が見えるように綺麗に並べられている(面陳列)。しかし、その並び順が、あまりにも異常だった。
一番上の段には、赤い表紙の本だけがズラリと並んでいる。二段目には青い表紙、三段目には黄色い表紙。
「カラーグラデーション並び、ですか」
俺が呟くと、後ろから死霊のような足取りで這い寄ってきた一ノ瀬先輩が、俺の背中に向かって呪詛のようなマシンガントークを爆発させた。
「そうです! カラーグラデーションです! 彼女、ドヤ顔で私に言ったのですよ! 『先輩、本棚を虹の色の順番に並び替えてみました! これで見栄えが劇的に良くなって、インスタ映え間違いなしです!』と!」
先輩の声は、極限まで押し殺されていたが、その分、怒りの振動がダイレクトに伝わってくる。
「見栄えは確かに良いです、インスタ映えもするでしょう! ですが、ここは図書館ですよ!? 本の住所を司る『日本十進分類法(NDC)』を完全に無視して、表紙の色だけで本を分類するなど、言語道断、正気の沙汰ではありません! 文学も、理学も、歴史も、ライトノベルも、すべてが『赤いから』という狂気的な理由だけで同じ棚に幽閉されているのですよ! 検索システムで本を探そうとした生徒が、この棚の前に来たら、一体どんな地獄を見るか想像がつかないのですか!」
「それは確かに、探す側としては大災害ですね」
「大災害どころか、全国図書委員掲示板における最悪のタブー、通称『色彩の乱』です! 北海道の図書委員長、ハンドルネーム『大地の司書』さんからの過去の報告によれば、美術部の新入部員が良かれと思って図書室のアート本コーナーを『色相環の順番』に並び替えた結果、特定の画集が三ヶ月間も行方不明になり、司書がストレスで十キロ激痩せしたという呪われた歴史があるのです! 宮前さんは、我が図書室にその暗黒の歴史を再現しようとしているのですよ!」
一ノ瀬先輩は頭を抱え、自身の美しい黒髪をくしゃくしゃにかき乱した。宮前の「良かれと思ってやった善意」だからこそ、一ノ瀬先輩も表の顔を維持したまま強く叱ることができず、その結果、ストレスが完全に許容量を超えてしまったらしい。
「しかも、彼女が赤い棚の一番目立つ場所に配置したあの本を見てください!」
先輩が細い指で、赤い棚の中央を指差す。
そこには、以前、返却履歴で問題になった、あの過激なタイトルのライトノベル『異世界で最強の吸血鬼になった俺が、聖女を甘やかしすぎて世界が滅びそうな件』の第一巻が、堂々とディスプレイされていた。
「これ、よりによって一番目立つ場所じゃないですか」
「そうなのです! 宮前さんは『表紙の女の子のドレスが綺麗な赤色だったので、ここが特等席です!』と言っていました! 彼女は純粋な善意で並べたのでしょうが、これでは、私が職権乱用で自分の趣味のラノベを激推ししているかのような、破廉恥なディスプレイに見えるではありませんか! 私の完璧な、お淑やかな委員長としてのブランドイメージが、あの過激なイラストによって、ジワジワと侵食されているのです!」
先輩はハァ、ハァ、と息を荒くしながら、棚の前に力なく座り込んだ。
学校一の美少女が、床にペタンと座り、新刊コーナーの棚を見上げて絶望している。その姿は、どこか放っておけないような、妙な庇護欲をそそるものがあった。
俺は少しだけため息をつき、制服の袖を軽く捲り上げた。
「…しょうがないですね」
「え?」
一ノ瀬先輩が、床からのそりと顔を上げた。
「宮前さんが明日来る前に、元の並びに戻しときましょう。日本十進分類法の順番通りに。俺も先輩に散々叩き込まれたおかげで、背表紙のラベルを見れば大体の住所は分かりますから」
俺が淡々とそう言って、赤い棚から本を抜き取り始めると、一ノ瀬先輩の暗黒のジト目に、みるみるうちに驚きと、それから救われたような光が灯っていくのが分かった。
「ゆ、柚木くん…。手伝って、くれるのですか?」
「手伝うっていうか、これを放置されたまま、先輩にここで夜通し愚痴られる方が、俺の明日の平穏が脅かされるんで。さっさと終わらせて、一緒に帰りましょう」
俺は努めて冷淡なトーンで返した。本当は、彼女の困り果てた顔をこれ以上見ていたくなかっただけなのだが、そんな恥ずかしい本音を口にするわけにはいかない。
一ノ瀬先輩はしばらく俺の背中をじっと見つめていたが、やがて、自分も嬉しそうに立ち上がり、俺の隣へと並んだ。
「はい! それでは、色彩の乱を鎮圧し、我が図書室に正しい秩序を取り戻しましょう、柚木副委員長(仮)!」
「だから、その役職は認めないって言ってるでしょう」
二人の間で、いつもの小気味良いやり取りが交わされる。
本棚から本を抜き取り、ラベルの数字を確認して、正しい住所へと戻していく。古い紙の匂いと、すぐ隣から漂う一ノ瀬先輩のかすかなフローラルの香りが、夕闇の静寂の中に溶けていく。
「…柚木くん」
作業の途中、一ノ瀬先輩が本を抱えたまま、小さな声で俺を呼んだ。
「何ですか」
「その、いつも、私の我儘や暴走に付き合わせてしまって、ごめんなさい。…でも、宮前さんの前でずっと気を張っている私にとって、あなたとこうして、素のままでいられる時間が、本当に…その、救いになっているのです」
先輩は、長い黒髪の隙間から、真っ赤になった耳を覗かせながら、床の一点を見つめて呟いた。
心臓が、トクンと不規則な音を立てた。
無自覚なのだろうか。それとも、これが学校一の美少女が持つ、天然の破壊力なのだろうか。宮前の前で見せる完璧な笑顔よりも、今、俺の目の前で耳を赤くしながら本音を漏らす彼女の横顔の方が、何倍も綺麗で、そして胸を締め付ける。
「…別に、気にしてませんよ。俺も、先輩の裏の顔を見てる方が、退屈しなくていいですから」
俺が少しだけ声を上ずらせながら返すと、先輩はハッと顔を上げ、嬉しそうに、悪戯っぽく微笑んだ。
「ふふ、裏切りは許されませんからね。さあ、夜が明ける前に、すべての本を正しい住所へ帰してあげましょう!」
「そうですね」
宮前律という真面目すぎる新人の登場によって、図書室の平穏は少しずつ形を変え始めている。だが、こうして二人の秘密の共有が深まっていく放課後もまた、悪くないと、俺は密かに思い始めていた。




