新人がやってきた
テスト期間が明け、成績表という名の現実を突きつけられた生徒たちがそれぞれの日常に戻っていく中、図書室もまた、いつもの静寂を取り戻しつつあった。
俺は放課後の特等席、図書室の最奥にある窓際の席で、手元の文庫本を眺めていた。
一ノ瀬先輩による「日本十進分類法」のスパルタ指導のおかげで、今では棚に並ぶ背表紙を見るだけで、それが何類のジャンルなのかが自然と頭に浮かぶようになってしまっている。ただの帰宅部のはずなのに、無駄な知識だけが着実に蓄積されていた。
受付カウンターの方へ目を向けると、そこにはいつも通りの光景があった。
一ノ瀬しおり先輩。学校一の美少女と噂される図書委員長は、今日も黒髪ロングの美しい髪を夕日に輝かせながら、完璧な聖母の微笑みを浮かべて事務作業をこなしている。
だが、今日に限っては、そのカウンターの中にもう一つの人影があった。
「一ノ瀬先輩! 返却された本のスキャン、すべて完了しました!」
室内の静寂を微かに揺らす、ハキハキとした、しかし少しだけ硬さのある声。
声の主は、この春から新しく図書委員に配属された一年生の女子生徒、宮前律だった。
きっちりと上ボタンまで留められた制服、短く切り揃えられた黒髪、そして何より、一ノ瀬先輩を見るその瞳には、隠しきれない崇拝の色がキラキラと輝いている。
「ありがとう、宮前さん。とても助かるわ。初めてなのに、手際が良くて感心してしまったわ」
一ノ瀬先輩は、鈴を転がすような優しい声で後輩を褒め称えた。
「も、もったいないお言葉です! 私、一ノ瀬先輩のような完璧でお淑やかな図書委員長になるのが夢なんです! 先輩の負担を少しでも減らせるよう、粉骨砕身の覚悟で頑張ります!」
宮前は直立不動の姿勢で、熱っぽく語った。どうやら彼女は、一ノ瀬先輩の「表の顔」である聖母の仮面を本物だと信じ込んで、この聖域に飛び込んできた熱狂的な信者の一人であるらしい。
俺は本棚の影で、小さく同情の溜息を吐いた。
可哀想に。あの完璧な先輩の裏には、返却期限を遅れたサッカー部に呪いのバーコードを処方し、図書室で告白する男女に除湿機を強モードで対抗する猛獣が潜んでいるというのに。知らぬが仏とは、まさにこのことだ。
宮前は熱心にカウンターの周りを片付けながら、ふと、図書室の奥へと視線を巡らせた。
そして、本棚の隙間から俺の姿を見つけた瞬間、その真面目そうな眉がピキリと不機嫌そうに跳ね上がった。
宮前は一ノ瀬先輩に一礼すると、ツカツカと迷いのない足取りで、俺のいる窓際の席へと歩いてきた。
関わりたくない。俺は瞬時に気配を消し、文庫本に目を落として空気と同化を試みた。
しかし、無情にも、その足音は俺のデスクの前で止まった。
「あの、柚木くん」
宮前の声は、一ノ瀬先輩に向けるものとは打って変わって、冷ややかな警戒心に満ちていた。
「…何かな」
俺は文庫本からゆっくりと顔を上げ、できるだけローテンションな声で返事をした。
「失礼ですが、先ほどから拝見していると、ページの捲る速度が異常に遅いように見受けられます。テスト期間も終わりましたし、ここはただ冷房にあたって時間を潰すための自習室ではありません。本当に読書をされているのでしょうか?」
鋭い指摘だった。確かに俺は、読書をするフリをしながら静寂を消費しているだけの不良利用者だ。だが、それを同級生に直球で詰問されるとは思わなかった。真面目すぎる正義感というのは、時に他者にとって非常に窮屈な凶器となる。
「いや、これはちょっと難しい本だから、じっくり内容を噛み締めてるんだよ」
俺があいまいに言い訳をすると、宮前は俺の手元にある本のタイトルをじっと見つめた。そこには『美味しい珈琲の淹れ方・実践編』と書かれている。噛み締めるような哲学書では断じてない。
宮前はさらに何かを言い募ろうと口を開きかけたが、そこへ、カウンターから一ノ瀬先輩の穏やかな声が届いた。
「宮前さん、そろそろ閉館の時間よ。残りの作業を終わらせてしまいましょうね」
「あ、はい! ただいま戻ります!」
宮前は俺を一瞥すると、踵を返してカウンターへと戻っていった。どうやら一ノ瀬先輩の声は、彼女にとって絶対の命令であるらしい。
命拾いをした、と俺は小さく息を吐いた。これ以上あの真面目な新人に目をつけられるのは、俺の平穏な放課後にとって重大なリスクだ。明日からはもう少し、ページを捲る速度を偽装しなければならない。
やがて、閉館を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。
宮前は完璧な事務処理で最後の戸締まりを確認し、一ノ瀬先輩の前に立った。
「一ノ瀬先輩、本日の業務はすべて終了しました! 鍵も閉めましたので、私はこれで失礼いたします!」
「ええ、お疲れ様、宮前さん。明日もよろしくね」
「はい! 失礼します!」
宮前は満足げな笑顔を浮かべ、図書室の重い扉を開けて出ていった。
ガラガラ、パタン。
扉が閉まり、内側から一ノ瀬先輩がカチャリと鍵をかける。
いつもなら、この金属音が響いた瞬間、世界が反転して一ノ瀬先輩の猛獣モードが爆発するはずだった。俺もそれを想定して、心の準備を整えていた。
しかし、一ノ瀬先輩はカウンターの前に立ったまま、凍りついたように動かなかった。
彼女の背筋は綺麗に伸びたままだが、その肩がかすかに強張っている。彼女は扉の方をじっと見つめ、宮前の足音が完全に廊下の向こうへ消え去るのを待っているようだった。
数分間の、張り詰めた沈黙。
廊下からの気配が完全に途絶えたその瞬間、一ノ瀬先輩の身体から、バチンと音を立てて何かのスイッチが切れた。
「――っ、はあぁぁぁぁぁ、あああああああぁぁぁっっっ!!」
昨日までのものとは比較にならない、限界突破した怨念の絶叫が、静まり返った室内に炸裂した。
俺は思わず肩をビクつかせた。
一ノ瀬先輩は、さっきまでの聖母の面影を粉砕し、黒髪を振り乱しながら、ドス、ドス、と恐ろしい地響きを立てて俺の席へと突進してきた。
バン!!
今日の一撃は、いつもより机が激しく揺れた。先輩の顔がドアップで俺の視界を占拠する。その瞳にはハイライトなど破片すら残っておらず、底知れない暗黒のジト目が俺を射抜いていた。
「柚木くん」
地を這うような、限界を迎えた声だった。
「は、はい」
「全国の図書委員長を代表して、一言いいですか?」
「あ、どうぞ…」
この定型句が出たということは、彼女のストレスゲージが完全にレッドゾーンに達している証拠だ。
「新人の教育係というのは、精神の摩耗が激しすぎます! 脳細胞が、日々の緊張感でプチプチと音を立てて死滅していくのが分かります!」
先輩の声のボリュームは最小限だったが、その分、弾速と圧力が異常だった。
「宮前さんのことですか。彼女、すごく真面目で、一ノ瀬先輩のことを尊敬してるみたいでしたけど」
俺が冷静に事実を伝えると、一ノ瀬先輩は白目を剥きそうな勢いで首を激しく横に振った。
「そこが問題なのです! 彼女のあの純粋無垢で、一点の曇りもない崇拝の眼差しを見てください! 私を本物の聖母か何かだと勘違いしています! あの視線を浴び続ける一分一秒が、私にとってどれほどのプレッシャーか分かりますか!? 背筋を1ミリでも曲げたら幻滅されるのではないか、言葉遣いを少しでも間違えたら彼女の夢を壊してしまうのではないかと、生きた心地がしません!」
先輩は細い肩を激しく上下させ、早口でまくしたてる。
「さらに信じられないのは、さっきの開館中の出来事です! 業務の合間に、私がほんの少しだけ息抜きをしようと、カウンターの下でスマホを開いた時のことです。彼女、私の手元を覗き込もうとしてきたのですよ! 『先輩、何を見ていらっしゃるのですか?』と、あの無邪気な笑顔で!」
「まあ、先輩の行動が気になったんでしょうね」
「冗談ではありません! その時、私のスマホの画面に表示されていたのは何だと思いますか!? 全国図書委員掲示板の、緊急スレッドですよ! 議題は『返却本にポテトチップスの油を付着させる輩への合法的な報復措置について』です! ハンドルネーム『栞』として、私がまさに熱い考察を書き込もうとしていたその瞬間だったのです!」
なるほど。全国図書委員掲示板での自分の活動がバレそうになったらしい。どうやら先輩にとって、あの掲示板は唯一の本音を吐き出せる聖域であり、そこでのハンドルネームが後輩にバレることは、社会的死を意味するようだ。
「もし、あの画面を宮前さんに見られてごらんなさい! 『一ノ瀬先輩が、裏の掲示板で全国の司書たちと油汚れへの鉄槌について議論している』なんて知られたら、彼女の純粋な心は完全に崩壊します! そして私の完璧な委員長としてのキャリアも、その瞬間に爆破されて終了です! 私はスマホをマッハの速度でポケットに叩き込みましたが、その拍子に、昨日の仲間から勧められて密かに購入した『お淑やかな美少女が実は激辛毒舌家だった件』というライトノベルの電子書籍の通知がポップアップしそうになって、心臓が口から飛び出るかと思いました!」
「い…色々と隠し持ってるものが多すぎるんですよ、先輩は」
俺が呆れたように言うと、一ノ瀬先輩はハァ、ハァ、と荒い息を吐きながら、机の上にどさりと突っ伏した。
学校一の美少女が、机に顔を埋めたまま、長い黒髪を周囲に散乱させている。その姿は、完全に全てのエネルギーを使い果たした抜け殻のようだった。
「…柚木くん」
先輩の声は、今度は消え入りそうなほど小さく、哀れっぽいトーンに変わっていた。
「何ですか」
「あなたがいてくれて、本当に良かったです。…もし、宮前さんが帰った後、この図書室に誰もいなかったら、私は今頃、世界史の棚に向かって『神田の馬鹿野郎! 宮前の大馬鹿野郎!』と大声で叫んで、完全に理性を失った怪物になるところでした」
「おお、それはそれで見てみたかったですけど」
「笑い事ではありません。あなたのように、私の本性をすべて知った上で、何も言わずにただ背景としてそこに座っていてくれる人間が、今の私にとってどれほど救いになっているか。…あなたという安全弁がなければ、私は明日から、あの真面目な新人の前で聖母の仮面を維持する自信がありません」
一ノ瀬先輩は、机からゆっくりと顔を上げ、指の隙間からじっと俺を見つめた。その瞳には、先ほどの怒りとは違う、どこか縋るような、そして微かに潤んだ色が混ざっていた。
古い紙の匂いの中に、先輩の髪から漂うかすかな甘い香りが混ざり合う。
夕暮れの静かな図書室で、そんな風に真っ直ぐに見つめられると、ただの帰宅部である俺の心臓も、少なからず妙なテンポを刻み始める。
「…まあ、俺はただ静かに過ごしたいだけですから。先輩がどれだけ裏で狂っていようが、他人に言い触らすメリットもありませんし」
俺が少しだけ視線を外しながら言うと、一ノ瀬先輩はハッと我に返ったように姿勢を正した。その白い耳の付け根が、かすかに赤くなっているのが見えた。
「そ、そうですね! あなたは私の国家機密を握る共犯者なのですから、裏切りは許されません。…さあ、私の精神を安定させるために、今日の分の閉館作業をたっぷり手伝ってもらいますからね、柚木くん」
「なんでそうなるんですか。作業を増やすのは俺への拷問ですよ」
俺が呆れたように言うと、先輩は「ふふ」と、今度は完璧な作り笑いではない、本当に小さくて嬉しそうな微笑みを浮かべた。
静寂を求めて避難してきた図書室に、新しく加わった真面目すぎる新人。
その存在によって、一ノ瀬先輩の仮面はさらに危うくなり、俺の放課後は、またしても別の意味でスリリングなものへと巻き込まれていくようだった。




