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ラノベを隠すな

 テスト期間が終わり、図書室は再び本来の静けさを取り戻していた。

赤点回避のために血眼になっていた連中は雲の子を散らすようにいなくなり、今ここにいるのは、本当に本を読みたい数人の生徒だけだ。


俺はいつもの特等席で、窓の外に広がる夕焼け空を眺めていた。

手元には一冊の小説。最近では、ただ文字を追うフリをするだけでなく、一ノ瀬先輩に叩き込まれた「日本十進分類法」の数字を背表紙のラベルで無意識に確認してしまう自分がいる。完全にあの猛獣に毒され始めていた。


受付カウンターの方へ視線を向けると、一ノ瀬先輩がいつも通りの完璧な聖母の微笑みを浮かべて事務作業を行っていた。黒髪ロングの美しい髪が夕日に透けて、絵画のような美しさを醸し出し、時折訪れる貸出希望の生徒に物腰柔らかく対応している。


その時、一人の男子生徒が、おどおどとした様子でカウンターに近づいていくのが見えた。


彼は周囲を何度もキョロキョロと見回し、他の生徒に自分の手元が見えないよう、異様なほど不自然に身体を縮めている。そして、カウンターの上に一冊の本を、滑り込ませるようにして差し出した。


その本には、図書室に備え付けられている真面目な『世界文学全集』の、やたらと分厚くて渋いブックカバーが被せられていた。しかし、本の厚みや上下からチラリと覗くページの装丁が、どう考えてもその重厚なカバーと一致していない。


一ノ瀬先輩は、その違和感に一瞬で気づいたようだった。だが、表向きは学校一の美少女の微笑みを崩さない。手際よくカバーをめくり、内側にある本来のバーコードをスキャンする。


チラリと見えたその表紙は、美少女キャラクターが大きく描かれた、紛れもないライトノベルだった。タイトルも『異世界で最強の吸血鬼になった俺が、聖女を甘やかしすぎて世界が滅びそうな件』といった風な、なかなかにパンチの効いた過激なものである。


「貸出処理が完了しました。返却期限は二週間後となりますね」

先輩は、何事もなかったかのように天使の声で告げた。


「あ、あざっす!」

男子生徒は、カモフラージュの渋いカバーを慌てて被せ直すと、まるで盗品でも抱えるかのように本を胸に隠し、足早に図書室から逃げ去っていった。


俺は本棚の影で、小さく鼻で笑った。

わかる、わかるぞ。思春期の男子高校生にとって、あの手の過激なタイトルのラノベを、学校一の美少女である一ノ瀬先輩の前に差し出すのは、相当な社会的羞恥心を伴うのだろう。だからこそ、真面目な文学全集のカバーで隠したくなる。涙ぐましい努力だ。


やがて、閉館を告げるチャイムが鳴り響いた。

残っていたわずかな生徒たちが出ていき、一ノ瀬先輩が入り口の扉を閉め、内側からカチャリと鍵をかける。


金属音が響き渡り、今日も世界が反転する。


「――っ、はあああああああぁぁぁぁっっっ!!」


深い、そしてどこか呆れ果てたような溜息が、静まり返った室内に響いた。


ドス、ドス、と地響きを立てるような足取りが、俺の席へと近づいてくる。俺は手元の本を閉じ、静かに彼女を迎え入れた。もはや、この閉館後の儀式に驚くことはない。


バン!!


一ノ瀬先輩が、俺の目の前の机に両手を強く叩きつけた。その顔は、案の定、ハイライトの完全に消え失せた虚無のジト目だった。


「柚木くん」

「はい」

「全国の図書委員を代表して、一言いいですか?」

「あ、どうぞ」


完全に息の合ったコールアンドレスポンスだ。


「堂々と借りればいいじゃないですか!! なぜ、わざわざ別のカバーでカモフラージュして、こちらに余計なスリルを与えようとするのですか!」


先輩の声のボリュームは最小限だったが、その分、言葉の弾速がすさまじかった。


「いや、あいつの気持ちも分かりますよ。学校一の美少女の前で、あんな過激なタイトルのラノベを差し出すのは、男からすれば拷問に近いものがありますから」

俺が冷静に弁護すると、先輩は信じられないものを見るような目で俺を睨みつけた。


「拷問なわけがありません! 図書委員からすれば、ラノベだろうが医学書だろうが、すべては等しく管理されるべき『蔵書』です! タイトルがどれだけ甘酸っぱかろうが過激だろうが、私はただの文字列としてしか認識していません。それなのに、あのようにコソコソとされると、逆にこちらの好奇心が刺激されてしまうではありませんか!」


先輩は細い肩を激しく上下させ、早口でまくしたてる。


「しかも、彼らのカモフラージュのせいで、バーコードが非常に読み取りにくくなっているのです! 渋いカバーを無理やり被せているせいで、本の端が折れ曲がり、スキャナーのレーザーが正しく反射しません。受付カウンターでの事務処理の効率を著しく低下させる、極めて迷惑な行為です!」


「なるほど、効率主義の先輩としては、そこが許せないわけですね」


「それだけではありません! 全国図書委員掲示板でも、これは『ラノベ隠蔽問題』として深刻に議論されています。特に、北海道の図書委員長さん、ハンドルネーム『大地の司書』さんからの報告によれば、ラノベを真面目なカバーで隠す生徒ほど、なぜかタイトルが一番過激なやつを選びがちという謎の統計が出ているそうです!」


でた。また大地の司書さんの話だ。相変わらず、その裏のネットワークの情報の精度は無駄に高い。


「大地の司書さんは言っていました。『コソコソするな、己の欲望に胸を張れ』と! 図書室は、どんな本を読む自由も保証されている場所です。ライトノベルを読む姿だって、本を真剣に愛している証拠なのですから、堂々としていればいいのです。それを、あたかも悪いことでもしているかのように隠すのは、その本を書いた作家さんや、イラストレーターさん、そしてその本を予算を割いて購入した我が図書室への、最大の侮辱です!」


先輩はハァ、ハァ、と息を荒くしながら、拳を強く握り締めた。

その怒りは、単なる事務処理の愚痴を超えて、本という存在そのものに対する、彼女なりの深い敬意から来ているようだった。どんなジャンルであれ、本を不当に貶めるような行為が許せないのだ。


「…まあ、確かにそうですね」

俺は椅子の背もたれに体重を預け、少しだけ微笑みながら言った。


「本を読む姿は、どんな本であれ美しいのに、隠すのはもったいないってことですよね」


俺が彼女の言葉を要約して伝えると、一ノ瀬先輩はハッと動きを止め、驚いたように目を丸くした。

そして、彼女の白く綺麗な頬が、みるみるうちに夕焼けのような赤色に染まっていくのが分かった。


「…ゆ、柚木くん、今、何と言いましたか?」

「いや、先輩の言葉をそのまま言っただけですけど」

「美、美しいだなんて、そんな、大袈裟な表現を私は」


先輩はバッと顔を背け、自分の長い黒髪で真っ赤になった顔を隠そうとした。さっきまでの猛獣のような勢いは完全に消え去り、声が上ずっている。昨日の告白回と同様、彼女は時折、こういう風に妙に初心な反応を見せるから困る。


「…でも、そうですね」

先輩は、髪の隙間からチラリと俺の様子を盗み見ながら、少しだけ声をトーンダウンさせた。

「本と真剣に向き合っている利用者の姿は、図書委員長として、とても誇らしく、そして…好ましく思うのは事実です」


先輩は、文庫本を胸に強く抱きしめたまま、床の一点を見つめた。


「だから…柚木くん」

「何ですか」

「あなたも、私の前では、何も隠さないでくださいね」

「…」


一瞬、図書室の空気が止まったような気がした。

夕暮れの光が二人の間に差し込み、エアコンのブーンという稼働音だけが、静かに空間を満たしている。


先輩のその言葉が、単に「貸出履歴をカモフラージュするな」という意味なのか、それとも、もっと別の深い意味が込められているのか、俺には判断がつかなかった。ただ、彼女の潤んだジト目に見つめられると、俺の心臓の奥が、トクン、と不規則な音を立てた。


俺は少しだけ視線を外しながら、小さく息を吐いた。

「…まあ、先輩の裏の顔をこれだけ見ちゃった以上、今更隠すものなんて何もありませんよ」


「ふふ、それもそうですね。私の国家機密を握っているのですから、あなたには一生、我が図書室の常連の背景として、私の隣にいてもらわなければ困ります」


一ノ瀬先輩は、そう言って悪戯っぽく笑った。その微笑みは、全校生徒が見ているあの完璧な作り笑いではなく、俺だけが知っている、彼女の本当の笑顔だった。


気まずくも、どこか心地よい沈黙が流れる。

最初の頃は、ただ巻き込まれて迷惑だとしか思っていなかった閉館後のこの時間が、今では俺にとっても、一日の終わりに欠かせない大切なルーティンになりつつあった。


「よし、今日の毒素もすべて吐き出しました!」

先輩はパン、と勢いよく両手で自分の頬を叩き、いつもの凛とした姿勢に戻った。

「それでは、閉館の戸締まりを終わらせて、一緒に帰りましょうか、柚木くん」


「…そうですね」


俺は鞄を肩にかけ、立ち上がった。


図書室の鍵を閉め、並んで歩く夕焼けの廊下。

静寂を求めて避難してきたはずの俺の放課後は、どうやら世界で一番騒がしくて、世界で一番特別な場所に、完全に書き換えられてしまったようだった。

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